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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第8章:条約の先へ

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第10話:民族自決の波と、島の静寂

 

 大正八(一九一九)年、五月。

 

 執務机の上の書類が、朝の陽を受けて穏やかに温まっている。

 

 新城康政は青い封筒を手に、開封されたばかりの洋封筒の重みを指先で確かめていた。差出人は近衛文麿。パリから船便で届いた封筒には、講和会議の経過を綴った書簡と、タイプ打ちされた英文通信が同封されている。

 

 窓の外では、四月から五月へと移ろう南国の強い日差しが、庭の梔子(くちなし)の葉を白く照らしていた。

 

 書簡のなかで、近衛の筆はいくつかの語句に力を込めている。

 

『民族自決』。ウィルソン大統領が掲げたその原則が、いま亜細亜(アジア)の各地で火種となっていること。

 

『人種差別撤廃案』。起草者としての苦闘と、列強の反発。

 

『三・一』。朝鮮半島の独立運動が、いまだ鎮まらぬこと。

 

 そして『山東』。

 

 康政は書簡を折り畳み、同封の英文通信に目を走らせた。

 

 ロイター電の印字が、北京で大規模な学生蜂起(ほうき)が発生したことを簡潔に報じている。

 

 重厚な木製の扉が、かすかな金具の音を立てて開いた。

 

「康政」

 

 新城和也が、一通の電報用紙を手に立っていた。朝の光が、その顔に薄く影を落としている。

 

「東京からだ。山東問題、北京の学生運動が、各地に飛び火している。排日貨(はいにちか)の運動も始まったと」

 

 康政は視線を落としたまま、指先で英文通信を和也のほうへ滑らせた。和也はそれを受け取り、印字にざっと目を通してから、短く息を吐く。

 

「近衛君からか」

 

「はい。人種差別撤廃案は、どうやら難しいようです。理想は理解されても、現実の利害には勝てない」

 

 和也は康政の向かいの椅子に腰を下ろした。卓の上には、書簡と電報のほかにもう一枚、厚手の和紙に墨で書かれた林献堂(りんけんどう)からの年次報告が広げられている。

 

 嘉南平原(かなんへいや)の春の収穫高。

 

 小作農への還元の歩合。

 

 灌漑(かんがい)水路の延長距離。

 

 数字はいずれも揃って増えていた。

 

「ここは凪いでいるな」

 

 和也の声に、康政は顔を上げた。

 

「三・一の波も、この島には届かなかった。山東の怒りも、ここでは違うかたちで消化されています」

 

 康政は机の隅から別の書類を手に取り、和也の手元へ差し出した。薄い青の表紙。『医療大隊転用案』。欧州戦線から帰還した医療大隊を、平時の運用へ改めるための青写真。

 

 半数は維持、残り半数は台北帝国大学附属病院および台湾各地の病院へ派遣。救急班としての編成。戦場で培った止血と輸血と初期外科の知見を、市民の救命に転ずる構想。

 

 和也はその表紙を一瞥(いちべつ)し、深く息を吸い込んだ。

 

「戦場で培った術が、ここでは救命に変わる」

 

 康政は小さく頷き、最後の頁を開いた。印泥(いんでい)の朱が、朝の光を受けて湿った輝きを放つ。

 

 印を紙に押し下ろす。朝の執務室のなかで、朱の印影だけが計画書の末尾に深く沈んだ。

 

 

 

 台北帝国大学の正門をくぐると、構内の空気はすでに初夏の湿度を含んでいた。

 

 正面の並木道を抜け、附属病院へ足を向ける。煉瓦(れんが)造りの三階建て。正面玄関の左右には、まだ若い榕樹(ようじゅ)が根を張り始めていた。

 

 廊下の先、開け放たれた集議室。

 

 黒板の前では、初老の男が数名の隊員たちを前に立っていた。医療大隊で外科班を率いていた軍医だ。野戦病院で四年間、砲弾の唸りのなかで止血と切断と輸血を繰り返してきた手が、いまは黒板に書かれた市民救急の手順図を指し示している。

 

 白石(しらいし)医師は壁際の椅子に腰掛け、その説明に真剣な眼差しを向けている。

 

「運ばれてきた時点で、最初の五分が生死を分ける。戦場でも町でも、それは変わらん」

 

 軍医の声は穏やかだが、密かな熱を帯びている。隊員のひとりが質問を発し、別のひとりが自分の経験を補足する。彼らはもう軍服を着ていない。白い診察衣(しんさつい)に袖を通し、肩書きではなく手技(しゅぎ)で語り始めていた。

 

 康政は部屋に入らず、廊下の壁に背を預けてその光景を眺めている。

 

 ふと、隣に人影があることに気づく。アレクセイだった。

 

 痩せた肩を壁に預け、集議室のなかを食い入るような目で見つめている。診察を終えたばかりなのか、左腕の袖が(まく)られたままだ。康政はロシア語で、短く尋ねた。

 

「講義は、ためになりますか」

 

 アレクセイは一瞬驚いたように(まばた)き、それから小さく頷いた。日本語で、慣れない異国の単語を確かめるように紡ぐ。

 

「……医学部の、講義を、聴きたい。白石先生に、頼もうと」

 

「いいと思います」

 

 康政の短い返事に、アレクセイの青い瞳がわずかに揺れた。彼は再び集議室のほうへ視線を戻す。壁に押し当てられた青白い腕が、かすかに震えている。傷つけば血が止まらないという、自身の血脈に潜む不治の呪い。肉体に裏切られ続けてきた少年は、黒板の図解から、決して目を離そうとはしなかった。

 

 

 

 病院を辞し、構内の奥へと歩く。

 

 帝大の敷地は広大で、教育棟や研究棟の先には、教員用の官舎(かんしゃ)が点在している。その一角、もとは古びた木造官舎が建っていた場所に、瑞長財団が新たに建てた一軒家が、いまは魯来(ろらい)一家の住まいだった。

 

 白い壁に赤い瓦屋根。台湾の風土に合わせた造りで、縁側(えんがわ)にはまだ新しい木材の香りが残っている。

 

 官舎の入口には私服の男がひとり、庭に面した裏手にはもうひとり、阿長の配した警護の者たちが控えていた。入口の男が康政の姿を認めると、音もなく身をこなし、道を開ける。

 

 庭先には、耕されたばかりの小さな(うね)が三列。まだ芽の出ていない土の表面に、ていねいな水やりの跡がついている。

 

 縁側に腰を下ろしていた魯来ニコライが、康政の足音に顔を上げた。手には一冊の本。辞書らしく、頁のあいだから無数の付箋(ふせん)が覗いている。

 

「ドーブラエ・ウートラ」

 

 朝の挨拶をロシア語で返しながら、康政は魯来の隣に腰を下ろした。魯来は辞書を膝に置き、庭の畝を見つめながら、単語をひとつひとつ確かめるように口を開く。

 

「娘たちが……()いた。花の、種」

 

向日葵(ひまわり)ですか」

 

「ひ……まわ……り」

 

 魯来はその日本語を、まるで祈りの言葉を反芻(はんすう)するように繰り返した。構内のどこかで、学生たちの笑い声が遠く弾け、やがて消えた。

 

「近衛から、手紙が来ました。パリでは、民族自決という言葉が世界中を揺らしている。どの民族にも、自らの国を選ぶ権利がある」

 

「知っている」

 

 魯来の言葉は、今度は英語だった。辞書を閉じ、庭を見つめたまま、言葉を継ぐ。

 

「私の国は……その熱で、滅びた」

 

 初夏の強い日差しが、畝の土を白く照らしている。康政は答えなかった。ただ、魯来の視線の先にある三列の畝に目を落とす。

 

 あの国を焼き尽くした狂熱は、ここにはない。この島では、確かな種が土に蒔かれている。

 

 縁側の奥で、衣擦れの音がした。

 

 オリガが顔を出し、康政に小さく会釈をする。手にはロシア語の原書と、日本語でびっしりと書き込まれた帳面(ちょうめん)。帝大での講義準備なのだろう。

 

 彼女は声を発さず、茶の入った湯飲みをふたつ、縁側の床に音を立てずに置いて、また奥へと戻っていった。魯来はその湯飲みを見つめながら、再び口を開いた。日本語だった。

 

「魯来は……穏やかな、名前だ」

 

「乃木総督が、あなたのために考えられた名前です」

 

「総督は、良い人だ」

 

 その短い言葉に込められたものの重さを、康政はロシア語でも日本語でも測ることができなかった。ただ、ニコライが「魯来」という名前に、新しい何かを見出し始めていることだけは、確かに伝わってくる。

 

 官舎の裏手から、若い女性の笑い声が聞こえた。アナスタシアだろう。池の(ほとり)で写生をしているのだ。紙の上に何かが生まれている。その微かな鉛筆の響きだけが、庭先へ届いていた。

 

 康政は立ち上がった。魯来も、土に馴染んだ重い身のこなしで立ち上がる。

 

 ふたりは握手を交わした。かつて皇帝と呼ばれた男の手は、いまは庭いじりでわずかに荒れている。それが、不思議と康政には好ましく感じられた。

 

「また来ます」

 

 康政が日本語で言う。

 

 魯来は深く頷き、しばらく畝を見つめていた。

 

 やがて、小さく口を開く。

 

「ひまわり」

第8章 完


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。



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― 新着の感想 ―
ほんと、日本政府は失政続きだな。朝鮮併合、大陸進出。全部失敗。
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