第8話:帰還の春と、手帳の最終行
大正八(一九一九)年、四月。
肌に纏わりつく湿った熱気。半年ぶりの台湾だった。
橘響子は瑞長丸の甲板から、石炭の黒煙の向こうに霞む基隆の埠頭を眺めている。
隣の岸壁には、白い船体に赤十字を描いた二隻の巨船。第一船「蓬莱丸」と第二船「美麗丸」。青島にはじまり、メソポタミア、地中海と、四年のあいだ欧州の海を転戦してきた病院船が、いま故郷の港に躯を休ませている。戦火を生き延びた兵士たちを、今度は得体の知れぬ流行り風邪が容赦なく薙ぎ払った。鋼鉄の船体に無数に刻まれた擦り傷と、潮風にくすんだ赤十字が、欧州の惨劇の深さを声高に叫ぶことなく物語る。
パリの凍てつくような冬の鐘、ロンドンの骨身に沁みる霧。そのすべてが、この南国の陽射しの下では遠い幻のように思えた。
岸壁には和子が日傘を手に立ち、阿長が背筋を伸ばし、リンの腕にしがみついた沙絵子が大きく手を振っている。そしてもう一人、白い夏服に薄い外套を羽織った壮年の男。三月末に帝都の議会を終え、休む間もなく台湾へとって返したであろう、和也の姿があった。
「お兄様」
沙絵子の弾むような声が熱風に乗って届き、康政はたまらず相好を崩した。
新城邸の広間。開け放たれた窓から、生温かい風が薄手の窓掛けを揺らしている。
卓には、和子が腕によりをかけた料理が並んでいた。基隆の港で今朝揚がったばかりの白身魚の蒸し物、阿長が手配した色鮮やかな台湾の季節野菜、そして和也が帝都から持ち帰った佃煮の小箱が控えめに添えられている。
沙絵子は康政の隣にぴたりと張り付き、箸も取らずに兄の言葉を待ちわびていた。
「お兄様、少しお髭が伸びていらっしゃいますよ」
沙絵子が康政の顎を指さして、くすりと笑う。船旅でうっすらと伸びた無精髭を、康政は照れたように手のひらで擦った。
「沙絵子は、随分と背が伸びたね」
「はい。去年の春のお着物が、もう短くなってしまったんです。……お兄様、当分こちらにいらっしゃるなら、異国のお話をたくさん聞かせてくださいますか」
康政の喉から、低く温かな笑い声が漏れる。彼は優しく頷き、沙絵子の頭を撫でた。
和子は茶を注ぎながら眼差しを細めて二人を見守り、瑞月は扇子を帯に挿したまま、落ち着いた所作で和子の隣に控えている。燕と劉が給仕に回り、阿長は卓の末席で、若き主たちの姿を目尻の皺を深めて見守っていた。
「議会は、恙なく閉じたよ」
ひとしきり箸が進んだ頃、和也が茶杯を置く。声の温度が、ほんの少し硬いものに変わった。
「原首相から伝言だ。『よくやった。あとは国家の番だ』と」
康政は箸を置き、父へ向き直った。
「伊藤先生は」
「『儂はもう年だ。若い者が走るのを見ているのが一番の愉しみだ』。そう仰っていた」
和也の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「児玉大将も、ひとこと」
「なんと」
「『参謀本部の連中は面白くなかろうが、潰しはせん。潰させもせん』」
響子の背筋を、微かな冷たさが走った。
「陸軍の一部には、いまだ単独行動を唱える向きもある。パリの講和会議が終わるまでは鳴りを潜めるだろうが、その後はわからん。原首相も『参謀本部の全員がこれで喜ぶわけではない』と」
瑞月が茶杯を手に取り、ふうと息を吹きかけてから口元へ運んだ。
「そのための、日英同盟協議会でございますわ」
澄んだ声音だった。瑞月の口から出た言葉が、卓の張り詰めた空気をほんの少しだけ緩ませる。
「ええ」
短く応え、康政は沙絵子が取り分けた野菜の煮物を口に運んだ。
和子がそっと席を立ち、急須に新しい湯を注いで回る。和也が帝都で矢面に立ち、康政が欧州で防波堤を築き、瑞月が交渉の最前線を張る。そのすべての裏で、密かにこの家を束ね続けてきたのは、この女性だった。響子は膝の上の指を、知らず握りしめていた。
食卓の賑わいが落ち着いた頃。
康政がおもむろに席を立った。内懐に手を当てる。その仕草だけで和也は小さく頷き、響子もまた立ち上がる。手帳は、卓の上に置いていく。
石造りの渡り廊下を進む。東翼の最も奥まった、簡素な木戸の前で、康政は襟を正し、二度扉を叩いた。
「ニコライ陛下。新城康政です」
部屋の中央の安楽椅子に、痩せた男が腰を下ろしている。元ロシア皇帝、ニコライ二世。
白髪の混じった鬚、深い眉間の皺。しかしその背筋は、この質素な部屋にあってなお、かつて帝国を背負った者の矜持を失っていない。膝の上の本を閉じ、衣擦れの音とともに居住まいを正した。
康政は深く一礼し、内懐から一通の封書を差し出した。
乳白色の上質な洋封筒。封緘に押された印章は、立ち上がる獅子と一角獣。英国王室の紋章だった。
「ジョージ五世陛下より、陛下への親書にございます」
ニコライの節くれだった指が、封緘の紋章を何度もなぞる。かつて「従弟」と呼び合い、双子のように容姿が似ていたイギリス国王の印。一九一七年の革命以降、二人のあいだに言葉はない。
封を切る皇帝の指先が、ほんのわずかに躊躇った。玉座を失い、海を隔てた極東の島に庇護される身。世界の頂点に立つ友は、いま何を語りかけてくるのか。紙の擦れる微かな乾いた音が、痩せた背中をこわばらせた事実を浮き彫りにする。
皇帝が封緘を破り、便箋を引き出した。
ジョージ五世の筆跡。濃い青の洋墨が几帳面な列を成している。一行、また一行。部屋の空気が止まった。
深く刻まれた眉間の皺が、読むにつれて解けていく。かつて広大な帝国を統べていた冷たい瞳が、いまはただ、遠い友からの手紙を読む一人の男の目に変わっていた。最後の一行を読み終えた皇帝は、便箋を膝に置き、閉じた目を掌で覆う。
康政は深く頭を垂れたまま動かない。王族同士の領域に踏み込まぬよう、息を殺して控えている。響子は壁に背中を押し付け、唇を噛みしめていた。手紙を読む男の肩が、微かに震えている。
やがて、皇帝の深い吐息が部屋の静寂を破った。
「……スペシーバ」
ありがとう。その穏やかな一言だけが、部屋に落ちた。康政はもう一度、深く礼をする。
ニコライの居室を後にし、渡り廊下を歩く二人の間に、しばらく言葉はなかった。やがて、中庭に咲く梔子の花の前に差し掛かったとき、康政が足を止めた。
「響子さん。そろそろ、ご実家へ」
響子の肩が跳ねた。台北市内に暮らす両親には、まだ何も話せていない。会社を辞め、半年も欧州へ渡っていたこと。心配をかけるのが怖かった。何より、自分が何者になったのか、自分でも言葉にできなかった。
俯く響子に、康政は中庭の緑蔭へ向かって静かに語りかける。
「響子さんが何を為し、どこへ向かおうとしているのか。それをご家族に伝えるのが、怖いのはわかります。でも、響子さんはもう、東京の新聞社で『女の感傷』と一蹴されていた頃の響子さんではありません」
康政は振り返り、響子と正面から向き合った。
「ロマノフ家の記録を国王に届け、法王の謁見に同席し、先ほどニコライ陛下があの手紙を読まれる瞬間を目にした。すべてを失った深い悲哀を乗り越え、皇帝陛下も過去と向き合われました。どうかご家族に、響子さんが見てきた世界を話して差し上げてください」
響子は弾かれたように息を呑んだ。康政の温かな微笑みが、そこにあった。
「それができるようになったとき、響子さんの手帳は、はじめて本物の『原稿』になります」
響子の視界が、かすかに滲んだ。彼女は唇を引き結び、一度だけ深く頷いた。
その足で、響子は台北市内の実家へ向かった。
橘家は代々陸軍に縁のある家系で、響子の父は退役後、台湾で小さな商いを営んでいる。見慣れた木戸を開けると、土間で洗い物をしていた母が手を止めて振り返った。
「……響子」
母の声は震えていた。響子は板間に手をつき、深く頭を下げる。
「お母さん。長いあいだ、何もお伝えできずに、申し訳ありませんでした」
居間に通され、茶を挟んで母と向かい合う。やがて仕事を終えた父も戻り、響子は半年の旅のすべてを語り始めた。パリの講和会議の熱気、チャーチルとの息詰まるような会見、大英帝国国王への謁見、ローマ法王が肘掛けを三度叩いた瞬間の静寂。そして今日、ニコライ二世に届けられた従弟からの手紙。
母は幾度も涙を拭いながら、最後まで言葉を挟まずに聞いていた。父は腕を組み、天井を仰ぎながら、時折「ほう」とだけ漏らした。
話し終えた響子の前で、深い沈黙が下りる。
父は何も言わなかった。ただ、組んでいた腕をゆっくりと解き、一人の対等な客人を迎え入れるように、居住まいを正した。言葉よりも重い敬意が、その厳格な所作に宿っている。母は身を乗り出し、響子の手を両手で包み込んだ。その手のひらは、たまらなく温かかった。
その夜、響子は久しぶりに自室の机に向かっていた。
幼い頃に読み耽った本が並ぶ本棚から、帝都へ発つ前に書き残した下書きが眠る引き出しへと目を移す。ここからすべてが始まったのだと、いまなら確かな手応えとともに実感できた。
机の上で、擦り切れた革表紙の手帳を開く。半年の旅のすべてが、この一冊に詰まっている。最後の頁を開き、万年筆の蓋を抜いた。
『台湾の土を踏む。ニコライ陛下、従弟の筆を手に、ただ「ありがとう」と。』
『父と母に、すべてを話した。私はもう、逃げない。』
洋墨が和紙に沁み込むのを見届け、響子は小さく息を吐き出す。
『欧州の旅、兹に終わる。されど、この手帳の最終頁が、物語の終わりではない。』
万年筆を置き、手帳を閉じた。
次の頁は、まだ白いままだ。開け放たれた窓の外から、四月の夜風が甘い梔子の香りを運んでくる。
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