第7話:聖座の門と、紡がれる無形の盾
大正八(一九一九)年、二月末。
ローマ法王庁、バチカン宮殿。
数百年の時を吸い込んだ重厚な石の回廊は、ひんやりとした静寂に満ちていた。
壁や高い穹窿天井を覆い尽くす宗教画が、揺らぐ蠟燭の灯りに浮かび上がる。鮮やかな縞模様の軍衣を纏ったスイス衛兵たちの、微動だにしない敬礼。一行はその鉾槍の列を抜け、奥深い控えの間へと通されていた。
橘響子は、壁際の長椅子に浅く腰を下ろし、膝の上で手帳を握りしめていた。掌が、じわりと汗ばんでいる。
無理もなかった。この重圧に満ちた石造りの宮殿は、彼女がこれまで目にしてきたどの場所とも異なっていた。歴史という名の途方もない彫刻のなかに、生きたまま呑み込まれたような感覚。
響子は震える指を落ち着かせるように、手帳の間に挟み込んだ一枚の紙片の感触を、外套の布越しに確かめた。
数日前、パリの客舎で受け取った『極東公論』ロンドン支局からの英語版紙面。そこには、日英同盟協議会の設立と、メソポタミアの油田開発、そして新城型油槽船による輸送の全容が、整然と組み上げられていた。
余白に記された頭本元貞の『時期は熟しつつある』という短い添え書きが、響子の胸の奥で密かな熱を放ち続けている。
リヨン停車場で別れた近衛文麿の、人混みへと消えていった長身。パリからこの地へと向かう瑞長丸の甲板で見た、鉛色から深い藍へと変わっていく地中海の色。そして、イタリアの埠頭に降り立った時に車窓から見えた、砲弾で削り取られた教会の壁と、道端で身を寄せる痩せた子供たちの姿。
欧州で出逢ったそのすべての景色が、これから差し出そうとしている「薬」の重みとなって、響子の胸に迫っていた。
視線を上げると、窓辺には新城康政が立っていた。
眼下のサン・ピエトロ広場を見下ろすその後ろ姿には、世界の権威を前にした気負いも、自らの力を誇示するような色も微塵もない。いつものように、ただ温和で、凪いだ海のような背中だった。
その対面で、陳瑞月は漆黒の和装のまま目を閉じている。膝の上で重ねられた白い指先は、呼吸の乱れ一つ感じさせない。
廊下の向こうからは、劉銘哲の低く落ち着いた声が微かに聞こえてくる。彼は今、法王庁の実務官を相手に、数日後に迫った医療物資の陸揚げ手順と、内陸の修道院へ向けた鉄道輸送の手配を、冷徹なまでに正確な手際で詰め合っているはずだった。その淀みない響きだけが、いまの響子を繋ぎ止める現実だった。
やがて、重厚な樫の扉が音もなく開かれた。
現れたのは、純白の祭服に身を包んだ小柄な老人であった。ローマ法王、ベネディクトゥス十五世。
深く刻まれた顔の皺は、大戦の最中に和平を訴え続け、誰からも顧みられることなく孤立を深めていた聖座の苦悩をそのまま物語っていた。しかし、その深い眼窩の奥にある瞳だけは若々しく、射抜くような鋭さを保っている。豪奢な装飾などなくとも、その簡素な佇まいそのものが、数千万の祈りを束ねる者の威厳を放っていた。
「ようこそ、遥か極東から。チェレッティ枢機卿の書簡は拝読しました。山本大佐のことも、存じております」
康政は深く一礼した。
余計な前置きは口にしない。彼は瑞月から受け取った分厚い束を、恭しく、両手で差し出した。医療物資の目録と、世界各地の修道院を結ぶ航路図である。
法王の視線が、紙面に落ちる。
長い、途方もなく長い沈黙が下りた。法王の細い指が、紙に記された数字をゆっくりとなぞっていく。解熱鎮痛剤、経口補水液、点滴用生理食塩水。そして、それが確実に届けられるであろう、荒廃した教区の名。
次いで、世界地図の上に命脈のように引かれた、瑞長財団の輸送航路の線。パリに集う列強の誰もが持ち得ない、あるいは持ち得ても決して他者のためには使わない『兵站』という名の恩寵。
法王の指先が止まった。
やがて、法王の指の関節が、椅子の肘掛けを三度、ゆっくりと叩いた。木と骨がぶつかる硬質な音が、石造りの部屋に不思議な余韻を残して消える。
法王はおもむろに顔を上げ、康政の瞳をまっすぐに見据えた。
「……あなた方の献身を、聖座は謹んで受け入れます」
法王がわずかに視線を動かすと、控えていた侍従が恭しく羊皮紙と封蝋の盆を運んできた。法王自らが万年筆を手に取り、使徒的祝福の教書を認め始める。
ペン先が羊皮紙を擦る微かな音だけが、高い天井に吸い込まれていく。
響子は息を詰め、その光景を見つめていた。見返りを求めない極東の民間組織が、言葉も通じぬ数千万の世論という無形の盾を手に入れた瞬間だった。手帳を握る彼女の指先は、いつの間にか震えを止めていた。
バチカンの門を抜けた時、空はすでに冬の夕闇に沈みかけていた。
サン・ピエトロ広場を囲む巨大な円柱の回廊が、石畳に長く濃い影を落としている。遠く、ローマの街のどこかから、夕の祈りを告げる鐘の音が響いてきた。
康政は、内懐に収めた教書の膨らみにそっと手を当てた。
「これで、欧州でなすべきことはすべて終えました」
その声には、深い安堵が滲んでいた。瑞月が帯から扇子を抜き、胸元で優雅に開く。冬の冷たい空気の中に、ほのかな伽羅の香りが溶け出していく。
「次は台湾ですわね。ニコライ陛下へのお手紙が、待っております」
「そうですね」
康政は短く応え、広場の先、東の空へと視線を向けた。
響子は数歩後ろで立ち止まり、冷たい風の中で黙って手帳を開いた。万年筆の先が、迷いなく紙面を滑る。
『ロンドン支局の紙面、欧州に刻む。』
『ローマ。聖座は、彼を拒まなかった。』
たった二行。それで十分だった。響子は手帳を閉じ、歩き出した康政と瑞月の背中に歩調を合わせた。
明日、瑞長丸はイタリアの港を発つ。地中海からスエズを抜け、インド洋を経て、極東の島へ。彼らが命を削って編み上げた無形の盾は、いま歴史の裏側で、密かにその光を放ち始めていた。
瑞長丸の汽笛が冷たい朝靄を裂く。
遠ざかる欧州の岸壁を見つめ、甲板には康政たちが自然と集まっていた。
「死者一千万、ではきかぬと云いますな」
劉銘哲が水平線へ目を細め、ぽつりと零す。
「数字じゃないわ」
響子は外套の中で両拳を握りしめた。波音だけが響く重い沈黙。康政は静かに一同を見渡した。
「黙祷」
全員が深く頭を垂れる。一分の静寂ののち、康政が顔を上げた。
歩み出た瑞月が、手にした白い椿を海へと手向ける。こぼれた花びらは航跡の白波に呑まれ、跡形もなく消え去っていた。
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