第6話:法王庁の細き糸と、無形の盾
大正八(一九一九)年、二月。
一月末の実務協議を終え、康政たちはロンドンを発ち、再び海峡を渡ってパリへ戻っていた。近衛文麿もまた、西園寺全権へ日英同盟協議会設立の経緯を報告した足で彼らを迎える。欧州での表向きの用件はすべて片付いた。康政がそう安堵しかけた矢先、パリの街はスペイン風邪の猛威に覆われていた。街路からは人通りが消え、至る所の教会から、弔いの鐘が絶え間なく鳴り響いている。死を目前にした信徒たちの祈りと、司祭たちの疲弊した声。パリ講和会議に沸くはずの花の都は、見えざる病によって静かに蝕まれていた。
客舎ブリストルの一室。暖炉の火が穏やかに爆ぜる中、康政と瑞月は、近衛文麿に向き合っていた。劉銘哲が事前にまとめた資料が、卓上に几帳面に並べられている。欧州全域の修道院と教会網の分布図、そして各地から上がっている医療物資の逼迫状況。数字の羅列が、いま欧州の信仰共同体が直面している危機の深さを、何よりも雄弁に語っていた。
「近衛さん。ひとつ、ご相談がございます」
康政の落ち着いた声に、近衛は顔を上げた。
「バチカン、法王庁と、接触したいのです」
近衛の指が、茶杯の縁で止まった。しばしの沈黙。暖炉の薪が爆ぜる音だけが、部屋に響く。
「……バチカンか」
バチカン、すなわち法王庁は、この講和会議から一切排除されていた。イタリア王国の強硬な反対により、列強の誰もが聖座の存在を議場から締め出すことに同意していたのである。ゆえに日本政府として公式に接触する道はない。近衛は茶杯を音もなく置き、卓上の資料へと目を落とした。
「公式の窓口は作れない。他国の目もある」
「承知しています。ですから、政府としてではありません。民間として、死の淵にある信徒を救いたい。どなたか、個人的な伝手はないでしょうか」
近衛はしばし考え込んだ。卓上の資料を一枚、また一枚と繰りながら、頭の中で誰かの名を探しているようだった。やがて、その指が止まった。
「……山本信次郎。海軍大佐だ。彼は熱心なカトリック信徒で、ローマ法王庁との個人的な繋がりを持つ。パリ講和会議の日本代表団に海軍省から派遣されているが、バチカンが会議から排除されている現状に、人知れず心を痛めている男だ。君の言う『民間としての支援』ならば、彼も話くらいは聞くかもしれない」
「海軍の方が、バチカンと」
瑞月がぽつりと呟いた。その声には、計算ではなく純粋な関心が滲んでいる。
「ええ。日本海軍には、そういう変わり種もいるのです」
近衛はそう言うと、すでに立ち上がっていた。余計な前置きはなかった。彼はこういう時、迷わない男だった。
「呼びましょう。待っていてください」
山本信次郎が客舎の一室に足を踏み入れた時、場の空気がかすかに引き締まった。軍服の第一ボタンまできっちりと留めた、痩躯の海軍士官。だがその左手には、磨き抜かれたロザリオが握られている。十字架の銀が、窓から差す冬の弱い陽を受けて鈍く輝いた。
「近衛公爵から話は伺った」
着席を勧める康政に、山本は軽く手を挙げて制した。
「単刀直入に申し上げる。もしあなた方が、聖なる信仰を政治や利権の道具にしようというのなら、私は即座にこの場を辞する」
低く、しかし断固とした声だった。軍人としての歴戦の重みと、信徒としての譲れぬ一線が、その一言に凝縮されている。瑞月が、音もなく卓上に一通の目録を置いた。解熱鎮痛剤、経口補水液、点滴用生理食塩水。項目ごとに数量と規格が、几帳面な文字で記されている。
「すでに手配済みの医療物資です。見返りは求めません。信じる者の命を救いたい。それだけです」
山本の目が、目録の数字をなぞる。軍人として、これが単なる見積もりではないことを、彼は数字の具体性から瞬時に見抜いた。康政はさらに、内懐から一通の厚い封筒を取り出した。中から現れたのは、十数通の手紙。いずれも黄ばんだ便箋に、達筆なフランス語でびっしりと綴られている。
「これは……」
「極東や大陸の奥地で、我が財団が長年にわたり保護してまいりましたフランス人宣教師の方々からの、感謝状でございます。法王庁に宛てたものです」
山本は一通を手に取り、黙読した。読み進めるうちに、ロザリオを握る指の力が、かすかに緩んでいく。迫害を逃れ、言葉も通じぬ異境の地で、この極東の財団だけが自分たちを守ってくれた。そう綴られた宣教師たちの筆跡には、誇張も偽りもなかった。
「……あなた方は、ずっと、このようなことを」
「私どもの信条に過ぎません」
康政は短く頭を下げた。山本はしばし瞑目し、それからロザリオを軍服の内ポケットにそっとしまった。顔を上げた時、その目にはもはや警戒の色はなかった。
「特使への紹介状を、私の名で書こう。ボナヴェントゥーラ・チェレッティ枢機卿、今はパリのサン・シュルピス教会に滞在しておられる。法王庁でも最も信頼の厚い外交官のお一人だ」
「山本大佐……」
「ただし、あなた方は、信仰を守る者ではなく、信仰の『盾』になろうとしている。そう見える。その道は、あなたが思うより険しい」
「承知しております」
康政の声に、山本はただ一度、深く頷いた。
数日後。パリのサン・シュルピス教会。冬の午後の陽が、高い穹窿天井のステンドグラスを抜けて、石造りの回廊に青く淡い光を落としている。教会の空気はひんやりと静まり返り、靴音だけが長い廊下に規則的に響いた。劉銘哲が事前に整えた手筈により、康政、瑞月、響子の三人は待たされることなく応接間へと通された。劉自身は廊下の長椅子に控え、教会の若い司祭から欧州各地の教区の現状について、丁寧に聞き取りを続けている。彼の几帳面な事前調整がなければ、枢機卿との面会は一週間は遅れていたはずだった。
響子は、教会の静謐な空気に胸の鼓動が早まるのを感じていた。石の壁、蠟燭の匂い、遠くから聞こえる聖歌隊の微かな練習の声。そのすべてが、彼女にとっては未知の世界だった。手帳を開く指が、無意識に強張っている。応接間の扉が開き、チェレッティ枢機卿が入室した。知性的な顔立ちの、痩せた老神父だった。深紅の縁取りが施された黒衣を纏い、静かな足取りで卓の向かいに腰を下ろす。だが、その目の奥には、世界中の教区から連日届く悲報と、スペイン風邪による司祭・修道女たちの殉職報告に苛まれてきた、深い心労の色が滲んでいた。
「山本大佐からの紹介状は、確かに拝読しました。あなた方は、医療物資を無償で提供したいと。しかし、まずお聞きしたい。今、欧州の修道院や教会は、例外なく物資の枯渇に苦しんでいます。薬どころか、清潔な水すら不足している教区も少なくない。なぜ、極東の民間組織が」
「なぜ、異教徒の我々が、カトリックの信徒を救おうとするのか。そういうお尋ねでございますね。人が人を救うのに、信仰の別はないと考えております。ただ、死の淵にある人々を前に、手を拱いていることができない。それだけのことでございます」
枢機卿は答えず、卓上の医療物資目録へと視線を落とした。そして、見慣れぬ品目の名にわずかに眉をひそめる。
「解熱鎮痛剤や点滴はわかる。だが……この特殊な水溶液というのは」
「私どもが開発した『経口補水液』という薬水でございます。今回の悪性の風邪は、高熱による急激な脱水症状で多くの命を奪います。これは、失われた水分と塩分を、衰弱した人体へ最も効率よく吸収させるよう特別に調合されたものです。点滴などの医療器具がなくとも、司祭や修道女の手でただ患者に飲ませるだけで、数え切れないほどの命を救うことができます」
枢機卿は小さく息を呑み、再び目録の数字の一つひとつを、噛み締めるように追った。
「……莫大な量だ。これだけの物資を、どのように」
「そこが、枢機卿様にお伝えしたい最も重要な点です」
康政は、瑞月が差し出した別の書類を広げた。世界各地の主要港と修道院網を結ぶ航路図。描き込まれた線が、欧州の端からアジアの奥地まで、幾筋もの細い水脈のように走っている。
「現在、欧州の物流は戦争の爪痕と船不足によって麻痺しております。辺境の修道院へ安全に物資を届ける手段を持つ組織は、世界中のどこにもありません。我が財団には、それを可能にする輸送船団がございます」
康政は航路図の上に指を走らせた。枢機卿は、愕然としたように航路図を見つめた。それは単なる物流の提案ではなかった。パリ講和会議に集う列強のいずれも持ち得ない『兵站網』そのものを、この極東の若者は提示している。
「あなた方は、これほどの支援に対して、いったい何を見返りに求めるのですか」
枢機卿の声が、わずかに震えた。それは恐れだった。これだけのものを差し出す裏には、必ず計り知れない要求が隠されている。教会と権力の長い歴史を生き抜いてきた老神父の、本能的な警戒だった。瑞月が、この時初めて口を開いた。
「領土も、条約上の利権も、一切求めません。私どもがお願いしたいのは、ただ一つ。極東のこの財団が、見返りを求めず、良き隣人として手を差し伸べた。その事実だけを、法王庁の記録に留め、世界中の教会と信徒の皆様に向けて、ありのままに発信していただきたいのです」
枢機卿は息を呑んだ。瑞月の言葉を、康政が落ち着いて引き継ぐ。
「信仰を理由に迫害されている無数の人々にとって、法王庁と協力して医療支援を行うという事実そのものが、見えざる『盾』となります。それこそが、私どもの求めるすべてでございます」
応接間に、深い静寂が落ちた。枢機卿は、ゆっくりと目を閉じた。そして長い沈黙ののち、卓上の鈴をゆっくりと鳴らした。控えていた侍従が、分厚い便箋と封蝋一式を運んでくる。
「あなた方の支援は、神の恩寵として、謹んで受け取りましょう」
枢機卿は自らの筆で、ローマ法王ベネディクトゥス十五世に宛てた正式な紹介の書簡を綴り始めた。万年筆の先が紙を擦る音だけが、高い天井に吸い込まれていく。響子は、その光景を息を詰めて見つめていた。手帳を開く。万年筆を握る指に、不思議と震えはなかった。
『サン・シュルピス教会。枢機卿、自らの筆を執る。』
短く、それだけを記した。この厳かな場に、余計な言葉は必要なかった。
教会の重い扉を抜け、夕闇のパリへと足を踏み出す。弔いの鐘は、相変わらず鳴り続けている。だが、その音はもはや絶望だけのものではないように、響子には感じられた。康政は、内懐に納めた枢機卿の書簡の重みを確かめるように、そっと胸に手を当てた。それから、隣を歩む瑞月に、ぽつりと呟く。
「これで欧州の用は済みました。次はローマです」
「法王陛下とのお目通りを、取り付けるのですわね」
「ええ。枢機卿のこの書簡があれば、道は開けるはずです」
瑞月は小さく頷き、帯に挿した扇子を抜いて、胸元でそっと開いた。冬の街路に、伽羅の香りがほのかに漂う。
「パリ講和会議の行方、人種差別撤廃案のゆくえ。それらはすべて、近衛公爵と西園寺全権にお任せする。我々は我々の道を。この世界に、もう一本、細くて強い糸を通しておく。切れそうで切れない、そんな糸です」
響子は数歩後ろでそれを見つめながら、そっと手帳を開いた。万年筆が迷いなく動く。
『法王庁。また一つ、彼は無形の盾を編んだ。』
『パリの鐘は、まだ鳴り止まない。』
響子は手帳を閉じ、康政の背中に歩調を合わせた。夕闇に浮かぶサン・シュルピス教会の二つの塔が、彼らの後ろ姿をひっそりと見送っていた。
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