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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第8章:条約の先へ

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第5話:協議会の骨格と、交わされた約定

 大正八(一九一九)年、一月末。

 

 ロンドン、駐英大使館。重々しい沈黙を破った駐英大使の言葉とともに、実務協議の幕が上がった。

 

 最初の議題は、日英同盟協議会の骨子(こっし)だった。チャーチルが口火を切る。その口調はもはや、公的な提案者のそれだった。

 

「国王陛下より、詳細の詰めは私に預けられておる。年次での首脳会談。開催地は東京とロンドンを当面の間交互とする。緊急時は、いずれか一方の要請により臨時の招集をかける」

 

 近衛が、静かに(うなず)いた。

 

「西園寺全権も、その骨子には同意しておられます。講和会議の随員(ずいいん)の一人として申し上げれば、両国政府が恒常的(こうじょうてき)に対話する枠組みは、同盟を単なる外交文書から、生きている約束に変えるでしょう」

 

 外務省極東課長が、細い指で議事メモをなぞりながら口を開く。

 

「議題の範囲について、イギリス外務省としては、極東の安全保障、通商航海、資源開発、そして情報共有。この四つを柱としたい。特に情報共有については、新設される国際連盟との関係も視野に入れる必要がある」

 

 駐英大使がそこで、康政へと視線を向けた。

 

「新城君。情報共有の柱について、極東公論のこれまでの活動はすでに一つの雛形(ひながた)と言える。君から、何かあれば」

 

 康政は一礼し、短く答えた。

 

「ロンドンにおける紙面の連携は、すでに一定の成果を挙げております。今後は、平時からの組織的な情報交換を協議会の枠組みに組み込み、有事に際して互いの世論を正確に把握できる仕組みが必要かと存じます」

 

 窓辺で、タイムズ紙の編集主幹が微かに身を乗り出した。その声は落ち着いていたが、目は真剣だった。

 

「その点、具体的に伺いたい。協議会の発表を、紙面でどう扱うか。公表の時期、内容の範囲。イギリスの大衆は、政府の密室協議に常に警戒的です。発表の仕方を誤れば、せっかくの枠組みが『秘密外交の産物』と叩かれる」

 

 頭本は、ゆっくりと新しい煙草に火を点けた。燐寸(まっち)の小さな爆ぜる音。紫煙(しえん)が窓辺に漂う。

 

「時期を誤らなければ、世論は自然と動く」

 

 嗄れた声が、低く、しかしはっきりと響いた。頭本はそれ以上は言わなかった。タイムズ紙の編集主幹は、その一言の重みを測るように数秒の間を置き、それから深く頷いた。彼はこの初老の日本人が誰かを、すでに理解している。日露戦争の時に欧米の世論を二分した「あの」頭本だと。

 

「協議会設立の発表は、講和条約の調印後……時期としては三月以降。条約批准(ひじゅん)と同時に発表すれば、『戦後秩序の一環』として受け取られる。タイムズは、その線で社説を用意します」

 

 チャーチルが満足げに頷き、次の議題へと移った。

 

「では、石油だ」

 

 石油省次官が、地質調査報告書を広げる。その手つきには、数十年を炭鉱と油田の現場で生き抜いてきた男の、無駄のない精緻さが宿っている。

 

「メソポタミア北部、モースル周辺の地質調査は、戦前のドイツ調査隊の資料も含めてイギリス側で把握しておる。有望な油層(ゆそう)が確認されているのは、キルクークから南西にかけての帯状の区域だ。ただ、現地にはまだ試掘井戸(しくついど)すら一本も立っておらん」

 

 次官は眼鏡を押し上げ、康政を見た。

 

「採掘を始めるとして、輸送の目処はついているのか。油田から港湾まで、そして港湾から消費地まで」

 

 康政は、卓上の資料のうち、高雄精油所の写真を次官のほうへと滑らせた。

 

「高雄には、年産五十万トンの精油所がすでに稼働しております」

 

 次官の指が、写真を引き寄せる。煙突群、蒸留塔、複雑に走る配管。それは単なる「工場」の写真ではなかった。東洋最大の精製能力を持つ一個の工業地帯を、上空から捉えた一枚だった。

 

「ここでメソポタミアの原油を受け入れ、重油と軽油に精製します。精油所は現在、倍の規模に拡張中です」

 

「輸送手段は」

 

「新城型輸送船を現在四十二隻運用しております。うち十五隻が油槽船仕様。さらに十隻が高雄の船渠(せんきょ)で建造中です」

 

 石油省次官は、地質調査報告書を卓の上で数秒、じっと見つめていた。四十二隻。十五隻が油槽船。十隻が建造中。それらの数字が意味する総輸送量を、彼は頭のなかで計算しているのだろう。次官が顔を上げた時、その目にはもはや「実現可能か」の疑念はなく、「いかに効率よく運ぶか」の技術的関心だけが浮かんでいた。

 

「ペルシャ湾岸の油槽所(ゆそうしょ)は」

 

「バスラ、またはアバダンに建設する計画です。油田から油槽所へは送油管(そうゆかん)敷設(ふせつ)します。イギリスの石油省には、資材と労務の現地調達でご協力を仰ぎたく」

 

「なるほど。資材調達はイギリス側で引き受けよう。労務についても、インド軍の工兵大隊がまだメソポタミアに展開しておる。解散前の部隊を活用できる」

 

 瑞月が、この時を待っていたように扇子をそっと開いた。白い指先が、扇子の骨を一本一本なぞるように揺れる。

 

「イギリス海軍による航路防衛の範囲について、改めて確認をお願いできますか」

 

 石油省次官が外務省極東課長へと視線を送る。課長が手元の覚書(おぼえがき)を繰った。

 

「ペルシャ湾の出口からインド洋を横断し、マラッカ海峡を抜けてシンガポールまで。この航路の安全は、イギリス海軍が平時・戦時を問わず保障する。その旨、海軍省とすでに調整済みです」

 

「重油の供給数量と価格については」

 

 瑞月の扇子が、今度はゆっくりと閉じられた。その所作(しょさ)には、無言の計算があった。彼女は何も急かさない。ただ相手が自ら条件を提示するのを、涼やかな微笑みとともに待っている。

 

「そちらの巨大な設備投資に見合うだけの、長期的な供給枠は約束しよう。詳細な数字と価格帯は、来月までの実務者協議で確定させる。ここまでは合意しておるな、新城君」

 

「はい。異存はございません」

 

 このやりとりの間、近衛は終始、卓上の議事メモに目を落とし、時折、参事官に短い指示を飛ばしていた。パリの西園寺全権への中間報告を作成しているのだろう。条約局参事官は、一字一句を正確に書き留めている。

 

 外務省極東課長が、最後の議題を提示した。

 

「協議会を外交文書上、どのように位置づけるか。日英同盟の付属協議機関とするか、独立の枠組みとするか。これについては、パリ講和会議の決議との整合性を確認する必要がある」

 

 駐英大使が、落ち着いて答える。

 

「日本側としては、日英同盟の精神を発展的に具体化する枠組みとして、同盟の付属機関たる位置づけが適当と考えます。条約改正の手続きは不要であり、両国政府の閣議(かくぎ)決定と、パリ講和会議における全権の了解があれば設立は可能。いかがか」

 

 外務省極東課長が、隣のチャーチルに目配せをした。チャーチルは無言で頷く。

 

「イギリス側も、その線で異存はない。ただし、イギリス議会への報告は必要だ。議会に(はか)る以上、枠組みは透明でなければならぬ」

 

「もちろんです」

 

 近衛が顔を上げた。その声には、公爵としての教養と、パリの講和会議で培われた政治家としての冷静さが同居していた。

 

「協議会の議事録は、両国政府がそれぞれ保管し、要約を公表する。秘密外交の(そし)りは受けぬよう、透明性を担保(たんぽ)します。この点は、西園寺全権からも強い希望が出されております」

 

 暖炉の火がまた一つ、爆ぜた。場の空気は、もはや緊張ではなく、着実な合意へと向かっていた。

 

 

 

 時計の針が午後四時を指す頃、駐英大使がおもむろに立ち上がった。

 

「本日の協議は、ここまでといたしましょう。協議会の骨子、石油供給の枠組み、情報共有の方法、外交上の位置づけ。いずれも概ねの方向性は固まりました。今後は事務方で細部を詰め、パリ講和会議の進捗(しんちょく)と歩調を合わせて最終化する」

 

 チャーチルが葉巻を灰皿でもみ消し、立ち上がった。

 

「大使の言う通りだ。骨組みはできた。あとは肉付けだな」

 

 彼は革鞄を手に取り、それから康政のほうへと向き直った。嗄れた声が、しかし不思議とよく通って室内に響く。

 

「国王の信書(しんしょ)、一本でこの会議の重みは決まった。君は、陛下から預かるに値する男だと、そういうことだ、新城君」

 

 康政はゆっくりと立ち上がり、一礼した。

 

「もったいないお言葉でございます。信書は、必ずお届けいたします」

 

 チャーチルは満足げに一つ頷き、振り返ることなく扉へと歩き出した。外務省極東課長、石油省次官、タイムズ紙編集主幹がそれに続く。編集主幹は扉の前で一度だけ立ち止まり、窓辺の頭本に向かって短く会釈(えしゃく)した。頭本は煙草を燻らせたまま、ただ微かに目を細めて応じた。イギリス側の靴音が廊下に遠ざかる。

 

 応接間に、静けさが戻った。暖炉の火だけが、かすかに(うな)っている。近衛が、深く息を吐いた。椅子の背に身を預け、天井を見上げる。

 

「ここまで来たか……」

 

 その呟きは、畏怖と、共感と、そして同じ時代に生まれた者としての密かな興奮を孕んで、薄暗い室内に溶けていった。瑞月が扇子を閉じ、帯に挿す。ようやく茶杯を手に取り、ひと口含んだ。窓辺の頭本は新しい煙草に手を伸ばすことなく、ただ冬の薄暮(はくぼ)に沈みゆくロンドンの街並みを黙って見つめている。

 

 響子は手帳を開き、迷うことなく万年筆を走らせた。

 

『国王の信書は、ひとつの帝国の命運を若き実業家に託した。』

 

 短く、一行。万年筆を置く。窓の外ではロンドンの冬の陽がすでに傾き、街路の瓦斯灯(がすとう)に橙が滲み始めている。大正八年、一月。日英の絆は、王室の信書という最も私的な形で裏打ちされ、協議会という最も公的な形で確かな骨格を得た。響子は手帳を閉じると、そのひそやかな熱を革表紙の奥へと収めた。

読んで頂きありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
親書?信書? 今話(第8章第5話)と第7章第1話では信書のみ、前話(第8章第4話)では信書と親書両方あって、それ以前では親書がほとんどだったかな? 使い分けているのでなければ、統一した方が良いかと。
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