第4話:王室の信書と、沈黙の応接間
大正八(一九一九)年、一月末。
ロンドンの冬の午後は、昼なお薄暗い。駐英大使館の応接間。高い天井から吊るされた瓦斯灯が、磨き抜かれた重厚な長卓に橙の光を落とし、壁一面に掛けられた欧州全図と極東海域図の縁をぼんやりと浮かび上がらせていた。暖炉の火は勢いよく燃えているが、煉瓦造りの堅牢な部屋の空気には、冷え切った冬のロンドンがそのまま沁み込んでいた。
上座に、駐英大使が背を正して坐していた。外交官ひと筋に生きてきた男の目は、微かな瞬きすら封じ、これから始まる会議の重圧を静かに肚の底へと沈めている。
その右隣、近衛文麿は、パリから汽車と渡船を乗り継いで到着したばかりで、背広の袖にはまだ海峡の潮風の匂いが微かに残っている。疲れを顔には出さない。ただ卓上の書類へと向けられた真っ直ぐな視線に、若き公爵の静かな決意が宿っていた。
近衛の斜め後ろに、外務省条約局の参事官が控えている。脇に置かれた分厚い条約集と講和会議の議事録草案は、小口を寸分違わず揃えられていた。政府の正式な議事録を担う者の、冷徹なまでの精緻さだった。
卓の中央よりやや下座に、新城康政が背を正している。卓上には劉銘哲が用意した資料、メソポタミア油田の分布図に高雄精油所の写真、新城型油槽船の船腹断面図が、整然と並べられていた。
その隣、瑞月は扇子をまだ帯に挿したまま、漆黒の和装で黙って目を落としている。伽羅の香りが、暖炉の薪の匂いに静かに溶け込んでいた。
窓辺の席には、頭本元貞がすでに煙草を一本、灰に変えていた。白髪混じりの眉の下の双眸は、冬の午後の薄明かりを受けて穏やかに細められている。その隣には空席がひとつ、設えられていた。イギリス側の記者を待つ席だった。
壁際の長椅子に、橘響子が膝を揃えて坐っていた。手には開かれた手帳。これから始まるものの気配に、胸の奥で密かな熱が渦を巻いている。顔には出さない。ただ指先が、万年筆の軸を白くなるほど強く握りしめていた。扉の脇に、燕が音もなく控えている。茶器の用意はすでに整えられ、湯気が一本、細く立ち昇っていた。
イギリス側の四名が到着したのは、午後二時を少し回った頃だった。廊下に複数の靴音が響く。重く、しかし無駄のない歩調。最初に扉をくぐったのはチャーチルだった。くたびれた灰色の背広、常の葉巻、そして書類を無造作に詰め込んだ革鞄。陸軍大臣の肩書きに収まらぬ、議会の修羅場や戦場を渡り歩いてきた男の、荒々しい熱量を纏っている。
「やあ、諸君。待たせたかね」
嗄れた声は重く響くが、口元には薄い笑みが張り付いている。
後に続いたのはイギリス外務省の極東課長だった。無駄な動作が一切ない。三番手の石油省次官は、地質調査報告書を小脇に抱え、現場を知る者特有の鋭く乾いた視線を卓上へ投げかけている。最後に、タイムズ紙の編集主幹が入室する。室内を一瞥するだけで空気の重さを値踏みするその目には、幾多の歴史的会談を最前線で見届けてきた新聞人の、冷徹な観察眼が光っていた。
着席の間、暖炉の薪が爆ぜる音だけが室内に響いた。チャーチルは上座の大使と向かい合うかたちで腰を下ろし、革鞄を足元に置く。外務省極東課長がその隣、石油省次官がさらにその隣。タイムズ紙の編集主幹は、窓辺の頭本の隣の空席へと歩み寄り、一礼して坐った。燕が音もなく茶を注いで回る。茶杯が置かれるたびの小さな陶器の音が、不思議と場の呼吸を整えていった。
駐英大使が、おもむろに口を開く。
「本日は、日英同盟協議会の設立に向けた実務協議の第一回会合であります。パリ講和会議の裏側で進むこの協議が、両国の未来にとって重要な布石となることを、私からも改めて申し上げます」
形式的な開会の辞だった。だが、それを口にする大使の声は、低く、少しの震えもない。外交官としての経歴のすべてをこの卓上に乗せる、静かな覚悟の響きだった。
「では、早速……」
大使が議題に入ろうとした、その時だった。
「大使、その前に」
チャーチルが、革鞄から厚手の封筒を取り出した。白い封筒。表書きはない。ただ、封緘に押された蝋の紋章、大英帝国王室の獅子と一角獣が、瓦斯灯の光を受けて鈍く輝いている。卓上のすべての視線が、その封筒に注がれた。
「新城君」
チャーチルの声からは、先ほどまでの闊達さが消えていた。彼は立ち上がることなく、ただ真っ直ぐに康政へと封筒を滑らせた。
「陛下が、君に預けてほしいと。ある方への、私信だ」
室内の空気が、一変した。外務省極東課長の指が、卓上で止まった。石油省次官の眼鏡の奥の目が、微かに見開かれる。タイムズ紙の編集主幹が、思わずといったふうに息を呑み、隣の頭本へと一瞬だけ視線をやった。
「陛下が、直接……」
編集主幹の呟きは、ほとんど声になっていなかった。康政は恭しく封筒を受け取り、両手で支えた。その重みを確かめるように一瞬だけ指を止め、それから内懐へと丁寧にしまう。深く、一礼。言葉は何も発しない。
チャーチルは、もう一度、革鞄に手を入れた。
「それから、橘嬢」
彼の声からは、先ほどの重々しさが消えていた。代わりに、奇妙なほどに人間くさい、打ち解けた響きがあった。取り出したのは、先ほどより一回り小さな封筒。同じ王室の封蝋。同じ獅子と一角獣が、瓦斯灯の橙を浴びて鈍く輝いている。チャーチルは封筒を、今度は立ち上がることなく、卓の上を響子のほうへと滑らせた。
「陛下から、君への礼状だ。サンドリンガムでの君の草稿と写真に……」
チャーチルはそこまで言って、わずかに口元を緩めた。
「陛下は、たいそう心を動かされた。ぜひご自身の筆で礼を伝えたい、と。国王が一個人として、一記者に。こんな例は、まずない」
響子は、動けなかった。手帳の上に置かれていた万年筆が、かたん、と小さな音を立てて転がる。目の前の封筒。大英帝国の国王が、自分に。サンドリンガムで差し出した草稿と写真に、国王がみずからの筆で礼を認めてきた。彼女は指を伸ばした。封筒を取り、裏返す。封蝋の凹凸を指先でなぞる。それは冷たく、しかし不思議と、生きたもののように掌に伝わった。彼女は封を切らなかった。この場で開けるべきものではない。そう判断する冷静さだけが、かろうじて彼女を支えていた。ただ、封筒を両手で胸の前に抱く。その指は、先ほどまでとは違う震え方をしている。もはや冷静な観察者のそれではなかった。
康政は、そのすべてを温かく見つめていた。国王が響子に礼状を書く。そのことは、彼も知らされていなかった。響子という記者が言葉で紡いだ真実が、一国の王の心を動かした。康政の口元に浮かんだ微かな安堵は、己の外交的成果への誇りではなく、共に歩む者への限りなく温かい敬意の証である。
頭本が、茶杯を受け皿に戻した。かちり、という小さな音が、静まり返った室内にやけに大きく響く。彼はそれ以上は何も言わなかった。ただ、白髪混じりの眉の下の目が、響子の手にある封筒をじっと見つめている。その目は、記者としての修羅場を幾度もくぐり抜けてきた先達から、同じ道を往く後輩へと向けられた、無言の賛辞を孕んでいた。
近衛は、この二通目の封筒に、深く息を吐いた。国王が、みずからの筆で私信を綴り、一私人に託す。それだけで計り知れない重みがある。しかも、一記者にまで礼状が届く。王室の信書は、外交の場に同席する「記録者」にすら及んでいる。近衛は卓の上で指を組み直し、小さくかぶりを振った。その所作には、驚きを通り越し、呆れにすら似た深い感嘆が滲んでいる。
瑞月は、この間ずっと扇子を開かなかった。帯に挿したまま、響子が封筒を胸に抱くまでを、ただじっと見守っていた。彼女の唇が、ごく僅かに緩む。それは微笑みというには小さすぎたが、一人の女が「言葉」のみで王室の扉を開いたという事実への、密やかな誇りを孕むものだった。
イギリス側の三名もまた、言葉を失っていた。外務省極東課長の細い指が、議事メモの上で止まっている。石油省次官が眼鏡を外し、手巾で拭きながら、信じがたい事態を反芻するように目を細める。タイムズ紙の編集主幹だけが、響子の手にある封筒を凝視していた。王室が一記者に親書を送る。特報などという言葉では収まらない事実だ。
チャーチルは、場の空気が変わったことを確認すると、ゆっくりと葉巻を灰皿に置いた。そして、いつもの闊達な調子をあえて取り戻すように、卓の全員を見渡した。
「さて。この会議が、ただの実務協議ではないことは、これでおわかりいただけたと思う」
「……ええ」
駐英大使が、深く頷いた。
「では、議題に入りましょう」
読んで頂きありがとうございます。




