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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第8章:条約の先へ

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第3話:怒れる猛獣と瑞月の猛毒

 大正八(一九一九)年、一月。

 

 昨夜の熱気が嘘のような、冷たく静かな朝だった。テムズ川の霧はまだ晴れず、岸壁に繋がれた瑞長丸の舷窓(げんそう)からは、対岸の倉庫街すらぼんやりとしか見えない。

 

 卓の上座に康政が(すわ)り、その斜め後ろに響子が膝を揃えている。燕は茶の用意を終えて壁際に控え、劉は手元に分厚い鞄を置いて目を閉じていた。巽と頭本は卓を挟んで向かい合い、それぞれに煙草を(くゆ)らせている。そしてこの朝はもう一人、近衛文麿が、昨夜の熱の冷めやらぬ顔で康政の隣に坐り、茶を(すす)っていた。誰もがまだ、言葉少なだった。これから始まる協議会設立の作業を前に、それぞれが頭のなかで順序を整えている。そんな朝だった。

 

 それを破ったのは、甲板を荒々しく踏み鳴らす、遠慮のない靴音だった。燕が音もなく立ち、扉へ向かう。ノックもそこそこに、分厚い扉が押し開けられた。

 

 踏み込んできたのは三人の男たちだった。先頭は駐英大使館の一等書記官。金縁の鼻眼鏡の奥の目は、冷ややかな怒りに満ちている。続くのは陸軍駐英武官と海軍駐英武官。どちらも大佐の階級章を()き、鍛え上げた体躯(たいく)から発せられる威圧感を隠そうともしていなかった。三人の手には、東京から届いたばかりの解読電文が握られている。

 

「随分と大掛かりな越権行為をしてくれたものだ、新城君」

 

 書記官が電文を卓の上に滑らせた。その声は決して荒ぶってはいなかったが、高級官僚特有の陰湿(いんしつ)な棘があった。

 

「外務省が何年も培ってきた対英外交の地盤を、一民間人が飛び越える。これは国権の私物化に等しい」

 

「軍も同意見だ」

 

 陸軍武官が低い声で続けた。

 

「駐英武官の職務はイギリス陸軍との連絡調整にある。我々の頭越しに、民間の油田だの協議会だのといった絵空事に巻き込まれるいわれはない」

 

「八八艦隊の建艦計画で手一杯のこの時期に、帝国の秩序を乱すような真似は慎んでいただきたい」

 

 海軍武官の声もまた、抑えきれぬ怒気を帯びていた。三人の威圧感が、談話室の空気を冷たく縛り上げていく。

 

 康政は卓の上座で、ただ黙って彼らを見つめていた。釈明を挟むこともなく、最後まで聞き終えると、ゆっくりと立ち上がり、三人に一礼した。

 

「朝早くから、ようこそお運びくださいました。まずはお茶でもいかがですか」

 

 その声には、一片の敵意も、恐れもなかった。書記官が鼻白(はなじろ)んだように眉をひそめる。

 

「茶だと……。我々は君の非公式な遊びに付き合いに来たのではない」

 

「お茶です」

 

 康政は同じ言葉を、今度はもう少しだけ落ち着いて繰り返した。それが、不思議なほどに場の空気を変えた。激しい敵意をぶつけているにもかかわらず、相手が水面のように揺るがない。その不気味なほどの静けさが、かえって三人の勢いを削ぎ落としていく。

 

 陸軍武官が卓に両手をつき、康政を睨み下ろした。

 

「君は、自分が何をしているのかわかっているのか」

 

「もちろんです。日本とイギリスの未来のために、いま為すべきことを為しているに過ぎません」

 

「未来だと……」

 

 海軍武官が嘲るように笑みを浮かべかけた。その時だった。談話室の奥の扉が、音もなく開いた。

 

 

 

 現れたのは、漆黒の和装に身を包んだ一人の女性だった。過剰な装飾は一切ない。しかしその洗練された歩みと、朝の空気に密かに溶け出す伽羅(きゃら)の香りが、そこにいる男たちの視線を否応なしに引き寄せた。瑞月だった。

 

 彼女は三人の前で歩を止めると、深く、優雅に頭を下げた。相手を見下す色は微塵もない。ただひたすらに隙のない所作(しょさ)でありながら、この場の空気が一瞬で彼女のものになったことを、誰の目にも明らかにしていた。

 

「ようこそ、瑞長丸へ。私は財団の台湾代表を務めております、陳瑞月と申します」

 

 鈴を転がすような声音(こわね)だった。

 

「ご足労をおかけして、まことに申し訳ございません。お茶もまだでございましょう。……燕」

 

 燕がすでに新しい茶器を盆に載せて控えていた。瑞月は自ら茶杯(ちゃはい)をとり、書記官、陸軍武官、海軍武官の順に、音を立てずに茶を置いていく。三人は毒気を抜かれたように、ただその所作を見つめることしかできなかった。

 

 瑞月が卓の端に腰を下ろすと、康政は劉に軽く頷いた。劉は用意していた資料を卓上に広げる。イギリス海軍省の燃料年報、メソポタミアの油田分布図、そして艦艇の燃料消費量と航続距離の比較表。

 

「まず、海軍の重油転換について」

 

 康政は立ち上がることなく、穏やかな口調のまま語り始めた。

 

「帝国海軍が計画する八八艦隊。これを石炭ではなく重油で動かすことは、すでに軍令部でも既定路線(きていろせん)かと存じます。しかし日本には重油が産出しない。有事に際して、確実に供給を約束できる油田が不可欠です」

 

 海軍武官の表情が微かに引きつった。軍令部が最も頭を抱えている急所を、正確に突かれたからだ。

 

「メソポタミア北部の油田。ここの共同開発権を、イギリス政府はすでに我々に認めております。さらに戦時にあっても、油田からインド洋までの航路をイギリス海軍が防衛する。これを国王陛下が内諾なさいました」

 

 陸軍武官が、息を呑む音が聞こえた。

 

「……そこまで、話が」

 

「はい。あとは、海軍にこの油田の実務的な価値を検分していただくだけです」

 

 康政の声は、交渉ではなく、ただの事実確認に近かった。淡々と現実を並べ、相手の逃げ道を塞ぐ。武官たちが言葉を失い、互いに視線を交わしたその隙を、瑞月は見逃さなかった。

 

「……素晴らしい成果でございますわね」

 

 瑞月は扇子をそっと開き、胸元で揺らしながら、ため息をつくように言った。

 

「しかし、我々は一介の民間人に過ぎません。このような国家の命運に関わる莫大な成果を、帝都の政府や軍令部へ公式に報告する資格を持ち合わせていないのです」

 

 書記官の眉が、ピクリと動いた。

 

「……と、申されると」

 

「歴史の表舞台に立つことは、我々の本分ではございません」

 

 瑞月の微笑みは涼やかだった。だがその奥には、逃げ場のない毒が潜んでいる。

 

「大使館の皆様、そして武官の皆様。この『メソポタミア油田の共同開発権』と『イギリス海軍による航路防衛の確約』。これらをどうか、皆様方ご自身の『軍事・外交交渉の賜物(たまもの)』として、帝都へ公式に打電していただけないでしょうか」

 

 静寂が落ちた。陸軍武官の喉が、ごくりと鳴った。手柄をよこせと直接言ったわけではない。しかし、意味するところは明白だった。康政が用意した比類なき国益という「果実」を、瑞月は「公式報告」という名目で、そっくりそのまま彼らの手の中に差し出したのだ。

 

 海軍武官が何かを言い返そうと口を開きかけた。その時だった。窓際でずっと沈黙を守っていた初老の紳士が、ゆっくりとマッチを擦った。

 

 シュッ、という小さな音が、張り詠めた室内に響く。煙草に火を点けたその男の顔が、紫煙(しえん)の向こうに浮かび上がった。海軍武官がぎょっとして目を向け、その血色を瞬時に失った。書記官もまた、その男の顔に気づいて息を呑む。

 

 頭本元貞。日露戦争の世論戦を制した生ける伝説が、なぜこんな私的な船室にいるのか。隣に座る巽慎之介の手元には、極東公論の原稿用紙が束になって置かれていた。もしこの場での申し出を断れば、翌日のロンドンや東京の紙面がどう踊るか。「軍部、国益たる油田権益の確保を拒否」。言論(げんろん)という凶器が、無言のまま彼らの首元に突きつけられていた。

 

 康政の論理。瑞月の甘い毒。そして、頭本の無言の圧力。退路はすべて断たれていた。

 

 海軍武官が、深く、長く息を吐き出した。

 

「……詳細な資料を、拝見したい」

 

 その一言を皮切りに、陸軍武官もまた、ゆっくりと頷いた。

 

「兵站と輸送の観点から、陸軍としても協力の余地を検討しよう」

 

 書記官はすでに、瑞月の淹れた茶をゆっくりと啜り始めている。先ほどまでの怒声は嘘のように消え去り、彼らは我先にと、財団への実務的な協力を約束し始めた。

 

 

 

 三人が船を降りていく靴音が遠ざかると、それまでずっと沈黙を守っていた近衛が、感に堪えぬように呟いた。

 

「……まるで魔法だな」

 

 康政は答えず、ただ微かに頭を下げた。

 

 響子は長椅子の端で、手帳を開いたまま、小さく息を吐いた。目の前で繰り広げられたものは、交渉ですらなかった。康政が論理で逃げ道を塞ぎ、瑞月が相手の欲をくすぐる果実を差し出し、頭本が沈黙で背中を叩き落とす。三人の猛獣は、自ら喜んで首輪を受け取っていったのだ。

 彼女は万年筆を走らせた。

『論理と毒、そして言論の重圧。猛獣たちは、自ら首輪を()めていった』

読んで頂きありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
 うわぁ。陸軍は無意味なシベリア出兵、海軍は無駄な八八艦隊計画やってる。無能なまんまだな。。。史実より日本政府も軍も劣化してるな。
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