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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第8章:条約の先へ

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第2話:パリへの訓令と若き公爵の決意

 大正八(一九一九)年、一月。

 

 パリ。冬の午後の陽が、セーヌ川の水面に細かく砕けている。日本代表団の宿舎は、講和会議を目前に控え、連日のように書記官や随員が出入りを繰り返していた。廊下には数カ国語の活字が散らばり、印字機の音が壁越しに規則的に聞こえる。会議の準備は大詰めを迎えていた。人種差別撤廃案の起草(きそう)に追われる近衛文麿も、連日ほとんど寝ていない。

 

 翌日、午後。二通の暗号電報が、西園寺公望全権の卓上に届けられた。一つは前夜のうちに着電していたが、西園寺はあえて一晩、腹の底で噛み砕いた。その上で、明くる朝、改めてもう一通の電報と併せて読み直し、直ちに近衛を呼び寄せたのである。

 

 一通は首相官邸からの公電(こうでん)。もう一通は、伊藤博文からの個人的な親電(しんでん)であった。西園寺は痩せた指でその文面を追い、盟友である伊藤特有の言い回しをなぞるように読み進めた。公爵の顔に、驚きの色はなかった。ただ、静かに状況を呑み込んでいるようだった。

 

「……これはまた、とんでもないことになった」

 

 西園寺の呟きに、傍らで書類を整理していた近衛が顔を上げた。

 

「どのような」

 

 西園寺は答えず、親電と公電を卓の上で滑らせた。近衛はそれを受け取り、目を落とした。油田共同開発。国王謁見。日英同盟協議会の国王内諾。そして、これらすべてを、新城康政という一人の民間人が、すでに成し遂げたという事実。

 

 近衛の指が止まった。いや、止まったのは指だけではなかった。彼の中で、何かが大きく揺らいでいた。つい数日前、パリの滞在先で康政と語り合った時のことが甦る。人種差別撤廃案に悩む自分に、康政は答えではなく視点を与えた。チャーチルへの橋渡しを申し出た。あの時は「なんという深謀(しんぼう)か」と思った。しかし。

 

 近衛は親電を握りしめたまま、しばらく動けなかった。自分の知る康政は、たしかに深謀を張り巡らせる男だった。しかし「深謀」の意味が、これほどまでに巨大なものだったとは。油田。王室。協議会。それらはすべて、自分たちがパリで講和会議の準備に追われている間に、康政が一人で。いや、たった数人の仲間と、築き上げていた布石だった。

 

 近衛の指が震えた。それは畏怖(いふ)だった。自分と同じ年若の男が、すでにここまで世界を動かしていた。その事実が、誇りや嫉妬を超えて、彼の全身を打っていた。

 

 長い沈黙の後、近衛は顔を上げた。その声は震えていなかった。

 

「……西園寺公。これはもはや、一介の民間が背負うべき領域を越えております」

 

 西園寺が黙って頷く。

 

「うむ。公の言う通りだ。これはもう、一人の若者の冒険ではない。大日本帝国の外交案件として、正式に取り組むべきことだ。チャーチル陸軍大臣との非公式会談を、私から打診しよう」

 

 近衛は外套を手に取った。迷っている暇はなかった。西園寺がその背中に声をかける。

 

「新城君のところか」

 

「はい。国家として正式にこの案件を引き継ぐ旨を、まずは私から彼に伝えてまいります」

 

 動き出す国家の最初の一手として、近衛はこの「民間の外交官」のもとへ向かう。それが礼儀であり、そして何より、彼自身が、康政の目を見て話したかった。

 

 

 

 翌日。ロンドンの夜は更けていた。パリを発った男が、海峡を越えてこの船室に辿り着くまで、あとわずかだった。

 

 瑞長丸の談話室。蒸気暖房の温もりが変わらず船室を包み、卓上には瑞月が淹れた新しい茶が湯気を立て、劉がまとめたロンドン拠点の整備報告がその傍らに積まれていた。巽と頭本もまた、この二日間、船を離れずにここに詰めていた。

 

 燕が無線電信室から戻り、無言で一封の電文を康政に差し出した。東京からの返電である。康政は電文を開き、短い文言に目を通した。その横顔を、響子は手帳を胸に抱えながらじっと見つめていた。彼の表情はほとんど動かない。しかし響子にはわかった。康政の黒い瞳の奥で、何かがひそかに燃えている。

 

「……伊藤公、原首相、児玉大将。三者了承。パリの全権と、ここロンドンの駐英大使館、そして陸海軍の駐英武官宛てに、それぞれ至急電が発せられたそうです」

 

 康政の声には、安堵も昂揚(こうよう)もなかった。ただ、為すべきことの一つが為されたという、淡々とした確認だけがあった。瑞月が茶杯(ちゃはい)を手に取りながら、小さく笑んだ。

 

「これで、あなたの約定は国のかたちになりますわね」

 

「まだです。パリの代表団が動き、チャーチル閣下と西園寺全権が会談し、協議会の枠組みが正式に文書となる。そこまでが、僕たちの仕事です」

 

 康政は窓辺に立ち、冬のロンドンの街を見下ろした。瓦斯灯(がすとう)の灯りが、霧のなかで滲んでいる。遠くで馬車の車輪が石畳を(きし)ませる音が聞こえた。

 

 

 

 そこへ、扉のノックが響いた。燕が無言で扉を開ける。通路に立っていたのは、冬の外套に身を包んだ近衛文麿だった。パリから汽車と渡船(とせん)を乗り継ぎ、半日がかりで駆けつけたのだろう。肩にはまだ、ドーヴァー海峡の潮風の冷たさがべったりと貼りついている。外套の裾は跳ねた土に汚れ、いつもは整った髪が崩れていた。

 

「新城君」

 

 近衛の声は、()れていた。疲労のせいだけではない。彼はこの数日、パリで人種差別撤廃案の起草に苦闘し、そして今日、東京からの訓令に衝撃を受けた。そのすべてが、声の奥深くに沈んでいた。

 

 康政は振り返り、軽く一礼した。

 

「近衛公。パリは動きましたか」

 

「動いた。西園寺全権が、正式に動く。日英同盟協議会。これからは国家の案件だ」

 

 近衛は一歩踏み出し、それから深く息を吐いた。その吐息には、驚きと、畏怖と、そして確かな決意が混ざっていた。

 

「君は、どこまで見通していたんだ」

 

 康政はその問いに直接答えず、卓上の電文をそっと指し示した。

 

「見通すのではなく、ただ、必要なことを必要な順に。それだけです」

 

 近衛はしばらく康政の目を見つめ、それから微かに笑った。それは、かつて台湾で康政の構想に触れた時に見せた、若々しい共感の笑みに近かった。

 

「……君という男は」

 

 それ以上は言わなかった。代わりに近衛は、外套を脱ぎ、卓の席に着いた。

 

 その時、ずっと沈黙を保っていた頭本が、懐から銀の煙草入れを取り出しながら、初めて低く(しわが)れた声を落とした。

 

「……全権が動いたのなら、我々『極東公論』の出番も近い。欧州の世論をどう切り開くか、お手並み拝見といこうか、新城君」

 

 近衛はハッとして、卓の端に座る老紳士を見た。彼もまた、この船室に集う異様な顔ぶれに今さらながら気づき、息を呑む。これから話すべきことは山ほどあった。チャーチルとの会談の段取り。西園寺の意向。協議会設立文書の(たた)き台。だがその前に、瑞月が優雅に茶器を差し出した。近衛は一瞬驚き、それから深く礼を言って茶杯を受け取る。茶の香りが、凍えた室内にほのかに広がった。

 

 

 

 響子はその光景を、長椅子の端から黙って見つめていた。ロンドンの冬の夜。船室のあたたかな灯。動き出す国家。そしてその中心に、相変わらず凛とした背筋で座る、一人の若者がいる。彼女は手帳を開き、万年筆を走らせた。

 

『ロンドン。すべての線が、この船室に集う』

『民間の約定は、いま国家の意思とならんとす』

 

 響子は万年筆を置いた。

 

 窓の外、テムズ川の霧が深まる。大正八年、一月。日英の絆は、音もなく、しかし着実に、国家という巨きな船の(いかり)へと鍛えられようとしていた。

読んで頂きありがとうございます。

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