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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第8章:条約の先へ

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第1話:帝都の決断と国家の意思

 大正八(一九一九)年、一月。

 

 ロンドンの冬の夜は、午後四時を過ぎればとっぷりと暮れた。瓦斯灯(がすとう)の橙が石畳を濡らすように照らし、霧とも煤煙(ばいえん)ともつかぬ(もや)が、街路のあちこちで街灯の光をぼんやりと滲ませている。

 

 テムズ川の岸壁に繋がれた瑞長丸の談話室。蒸気暖房の温もりが船室を満たし、磨き込まれた樫の長卓には七つの席が(しつら)えられていた。サンドリンガムから戻った康政を、瑞月と劉が待っている。二人はこの数日ロンドンに留まり、イギリス財界人との面談、情報網の整備、講和会議をにらんだ欧州拠点の土台づくりを進め、その足場には極東公論ロンドン支局も組み込まれている。卓にはもう二人——四十過ぎの壮年、巽慎之介と、白髪の紳士、頭本元貞。いずれも康政との初めての対面である。康政の隣には響子が手帳を開き、その後ろに燕が静かに控えていた。

 

 康政が静かに立ち上がり、二人に一礼した。

 

「巽さん、頭本先生。二年越しで、ようやくお目にかかれました。ロンドンでの紙面づくり、イギリスの世論を静かに動かしていただいていると聞いております」

 

 巽は卓の端に置いた葉巻をそっと灰皿に移し、居住(いず)まいを正して応じた。

 

「恐れ入ります。我々は現場で手を動かしたまで。すべては、あなたが敷かれた路線の上でのことに過ぎません」

 

 頭本は茶杯を受け皿に静かに戻す。(しわが)れた声が、船室の空気を微かに震わせる。

 

「……新城君。君には、我々の知らぬ海図が見えているらしい」

 

 それは問いでも称賛でもなく、ただの所見だった。康政は短く頭を下げる。

 

「もったいないお言葉でございます」

 

 頭本はそれ以上は言わなかった。白髪混じりの眉の下の双眸(そうぼう)がゆっくりと細められ、口元がごく僅かに動く。笑みとも感嘆ともつかぬかたちで。

 

 響子は長椅子の端で、その短いやりとりを息を詰めて見守っていた。膝の上の手帳を無意識に強く握りしめている。頭本が口にした「海図」の一言、かつて日露の戦局を情報戦という見えざる海図で制した男が、いま目の前の若者に同じ言葉を投げた。それは、この老練な言論人が与えうる最大級の挨拶である。いかなる為政者の嘘をも見抜いてきたその鋭い眼光が、いまは値踏みするように康政の横顔を射抜いている。だが康政は、それを誇りもせず、ただ「もったいない」とだけ返した。その静けさが、かえって響子の胸を強く打つ。

 

 頃合いを見計らい、瑞月は卓上に広げられた書類の束を、白い指先で静かに整えた。扇子は帯に挿したまま、珍しく手に取っていない。それだけで、彼女がこの場を「遊び」ではなく「仕事」として臨んでいることが伝わる。

 

「油田の共同開発、国王陛下への贈物、そして日英同盟協議会。三つとも、誰にも真似のできない成果ですわ」

 

 瑞月の声は穏やかだったが、その目は卓上の書類から離れない。

 

「けれど、このままでは瑞長財団とイギリス政府の約定に過ぎません。国家の契約に育てるには……」

 

「東京を動かす必要がある」

 

 康政が静かに言葉を継いだ。瑞月は小さく頷き、隣の劉へ視線をやる。劉はすでに、英字新聞と外交公電の分析をまとめた厚手の用紙を手にしていた。彼の几帳面な仕事ぶりは、ロンドンでも変わらない。

 

「イギリス側はチャーチル陸軍大臣が主導し、王室の内諾まで取り付けております。日本側の窓口が民間のままでは、協議会の実効性に疑義が生じましょう」

 

 劉の報告は抑揚を抑えたものだったが、その一言一言に、これから起こることの重大さが滲んでいる。康政は卓の端から一枚の紙片を手に取った。あらかじめ用意していた草稿。和也に宛てる暗号電報の文案である。彼はそれを静かに確認し、万年筆で二、三ヵ所に修正を加えると、改めて清書した。ペン先の音だけが、船室に規則的に響く。

 

 響子は長椅子の端で、その横顔をじっと見つめていた。康政の指先に迷いはない。しかし今夜のその静けさには、サンドリンガムとは違う種類の重さがある。あの場は「贈物を届ける」個人の使命だった。今夜からは「国を動かす」局面に変わる。その境界線を、いま彼は越えようとしている。

 

 電文は短かった。油田調印の完了。国王謁見と贈物の受納。日英同盟協議会。同盟の維持継続を主軸に、戦略の常時共有と国民交流親睦を旨とする常設機関設立への国王内諾。これらを国家の枠組みへ引き上げるため、伊藤博文・原敬・児玉源太郎各氏への連絡と、パリ日本代表団への訓令発信を仰ぐ。その旨が、飾らぬ文面で綴られている。

 

「燕」

 

 康政が名を呼ぶと、燕は音もなく一歩前に出た。

 

「無線電信室へ。通信士に至急、暗号化して発信するよう」

 

 燕は電文を受け取ると、黒い外套の襟を正して一礼し、扉の向こうへ消えた。彼女の足音は最後まで聞こえない。瑞月はようやく扇子を手に取り、静かに胸元で開いた。

 

「帝都は、動きますわね」

 

 その声には、確信があった。響子は新しい頁に万年筆を走らせる。

 

『ロンドン、打電。民間の約定を、国家の意思へ』

『同席は巽慎之介、頭本元貞。頭本、極東の若き当主を値踏みす』

 

 

 

 東京。麹町の新城邸。

 

 帝都の冬の朝は、ロンドンとはまた違う種類の冷たさを持っていた。空気は乾き、路地の霜柱を踏む下駄の音が、遠くまで澄んで響く。空は広く、雲ひとつない冬晴れ。庭の松の雪吊(ゆきづ)りに、朝陽が静かに差し込んでいた。

 

 和也は朝餉(あさげ)の席で、霧島誠一郎が差し出した解読電文を読んだ。箸が止まる。汁椀から立ち昇る湯気だけが、動かぬ和也の前でゆらゆらと揺れている。二度読んだ。三度読んだ。

 

「代表……」

 

 霧島が声をかけるより早く、和也は立ち上がっていた。椅子が畳を擦る音が、静かな朝の座敷に大きく響く。

 

「……康政が、やった」

 

 絞り出したその声には、父としての震えと、財団代表としての昂奮が同時に宿っていた。和也はすぐに外套を手に取る。霧島が「どちらへ」と問うより早く、答えは出ている。

 

「大磯だ。伊藤公のところへ。すぐに車を」

 

 霧島は一言「承知いたしました」と応じ、静かに退出した。廊下を早足で去る霧島の靴音を聞きながら、和也はもう一度、電文に目を落とす。油田。国王。協議会。どれもが途方もない。だがそれらは、遠い欧州の地で、自分の息子がたった数人の仲間と為し遂げたことだった。

 

 和也は電文を丁寧に折り畳み、内懐にしまった。その手は震えていない。自動車の後部座席で、和也は書類を広げる。車窓の外、帝都の空はどこまでも高く、冬の朝陽が街並みを白く照らしていた。

 

 

 

 大磯。伊藤博文の邸は、海を見下ろす高台に静かに佇んでいた。

 

 波の音が、開け放たれた障子を通して座敷に届いている。松林を抜けた潮風が、庭の梅の蕾をかすかに揺らす。伊藤は縁側に立ち、冬の海を眺めている。和也が通された時も、しばらくはそのまま、水平線の彼方を見つめている。

 

「新城君。朝早くから、穏やかではないな」

 

 振り返った老政治家の顔には、柔和な笑みが浮かんでいた。しかしその目は、和也の内懐にあるものを見抜いている。和也は一礼し、解読電文を両手で差し出した。

 

 伊藤は電文を受け取ると、縁側の籐椅子に腰を下ろし、ゆっくりと読み始めた。皺の刻まれた指が、一行一行をなぞるように進む。読み終えると、伊藤は電文を膝の上に置き、再び海へと視線を戻した。

 

 長い沈黙だった。潮風が座敷を抜け、掛け軸の紙をかすかに揺らす。

 

「……康政君は、また一つ、誰も為し得なかったことを為したか」

 

 その声は静かだった。しかし和也にはわかる。この老政治家は、いま自分の知るすべての外交案件を頭の中で検め、この電文がどこに位置するかを測っている。

 

「国家の契約に育てるには、元老のお力が……」

 

 和也が言いかけると、伊藤は静かに手を挙げて制した。それ以上は不要だとでも言うように、老いた政治家はすでに立ち上がり、座卓の硯へと歩み寄っている。

 

「西園寺には、儂から直接電信を打つ」

 

 ぽつりと、それだけだった。伊藤は筆を執り、暗号局へ託すための文案を一字一句、ゆっくりと綴り始めた。元老から全権へ。その親電の一文字一文字が、民間の冒険を国家の意思に変える。和也はただ、その背中を見つめていた。明治の元勲(げんくん)が、いま自分の息子の未来のために筆を執っている。その事実が、和也の胸の奥に熱いものを込み上げさせる。

 

「和也君」

 

 書き終えた伊藤が、封蝋を溶かしながら振り返らずに言った。

 

「原首相には、君から話してくれ。儂は老体だ。政権の重みは、現役の宰相が背負うべきことだ」

 

「承知いたしました」

 

 和也は深く頭を下げた。伊藤の言葉には、単なる役割分担以上の意味があった。原敬。平民宰相。この国をいま実際に動かしているのは彼だ。元老の権威だけでは足りない。政権の実行力が必要なのだ。

 

 

 

 首相官邸。応接室の暖炉には火が入っていたが、部屋の空気はどこか張り詰めていた。卓の上には幾重もの書類が積まれ、壁には大日本帝国全図が掛かっている。

 

 原敬は電文を読み終えると、煙草を灰皿に置き、しばし天井を見つめた。煙草の煙が、冬の陽に照らされて細く立ち昇る。和也と伊藤が並んで座る長椅子の向かい、首相は一人、肘掛け椅子に深く身を沈めていた。

 

「……新城君。これは、どこまで進んでいる」

 

「油田は調印済み。国王陛下への謁見は昨日。日英同盟協議会の設立は、国王陛下の内諾を得て、チャーチル陸軍大臣が詳細を詰める段取りです」

 

 原はゆっくりと煙草を揉み消した。その指の動きは、百戦錬磨の政治家の思考をそのまま映したかのように、無駄がない。

 

「日英同盟協議会。同盟の維持を主軸に、戦略を常時すり合わせる常設の場か。これがあれば、同盟は単なる外交文書ではなくなる。そして——」

 

 原はそこで初めて口元をかすかに緩めた。

 

「陸軍の暴走を抑える楔にもなる」

 

 和也は息を呑んだ。大陸への単独行動を模索し始めている軍部の独走を、外交の網で封じ込める。原はすでに、この協議会が持つ国内政治への『劇薬』としての効用まで見抜いている。

 

「西園寺全権に訓令を出します。日英同盟協議会の設立、日本政府として正式に受諾する用意がある、と」

 

 原は新しい煙草を指の間で弄びながら、淡々と続けた。

 

「同時に、ロンドンの駐英大使館にも、全権の指示の下で新城君の事業を公式に支援するよう、外務大臣から至急電を打たせましょう。伊藤公の親電と併せて、本日中の発信とします」

 

 原の声にはすでに迷いがない。伊藤が静かに口を開いた。

 

「原君。あとは、軍部だ」

 

「児玉大将には、私から話を通します。駐英武官たちにも、参謀本部と海軍軍令部からそれぞれ直接の通達を出させましょう。軍部の取りまとめは児玉大将の手に委ねるのが適当です」

 

「……とはいえ、参謀本部の全員がこれで喜ぶわけではない。面白く思わぬ者も、少なからずいるでしょう」

 

 その一言は、伊藤にも和也にも、重く響いた。日英の絆を深めることと、軍の大陸志向との間には、いつか必ず訪れるであろう亀裂の影が、すでにこの時から差している。

 

 それでも原は、訓令の文案を自ら机に広げた。迷ったのではない。必要なものを見定めた上で、なお進む。それがこの男の政治だった。

読んで頂きありがとうございます。


構成整理とペース維持のため、更新を三日おきへ変更いたします。


次話は6月21日10時10分になります。


完結まで続けていきますので、引き続きお付き合いいただければうれしいです。

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