第41話:サンドリンガムの密かなる午後
冬の午後の陽が、ノーフォークの低い空を鈍く照らしている。御者の手によって馬車の重い扉が開かれると、凍てついた空気が静かに車内へ流れ込んだ。
チャーチルが最初に降りる。続いてリスター、康政、響子、燕。五人分の靴音が、冬の静寂のなかで思いのほか大きく響く。
目の前に広がるのは、尖塔を持たない煉瓦造りの館、サンドリンガム・ハウス。王室の狩猟用の私邸には、公式の宮殿のような華美な装飾はない。しかし、どっしりと大地に根を張ったようなその姿には、数世代の国王が獲物を追い、家族と過ごし、公務の疲れを癒してきた歴史が、静かな威厳となって刻み込まれていた。玄関扉の両脇には衛兵が立っているが、五人の到着を予め知らされていたのか、ただ無言で敬礼を返すだけだ。
リスターが玄関の重い樫の扉を押し開く。途端に、磨き込まれた床の微かな香りと、暖炉で焚かれている薪の匂いが、冷えた外気と混ざり合って五人を包んだ。
館の内部は、静謐そのものであった。壁には鹿の剥製や風景画が掛かり、狩猟の獲物をかたどった真鍮の燭台が、冬の昼の薄明かりを照り返している。廊下の床は長年の使用で程よく窪み、一歩ごとに異なる軋み音を立てた。王室の私邸というより、古くから続く地方貴族の田園の館に近い。しかしその空気には、公式の宮殿にはない種類の重みがある。ここは国王が、ただの一個人として過ごす場所なのだ。
リスターが先導し、五人は磨き込まれた階段を上がる。二階の廊下に出たところで、チャーチルがふと歩調を緩めた。それだけで康政は意図を察し、半歩遅れて並ぶ。響子と燕は自然に距離を取り、リスターもまた主の癖を知り尽くした従者のように、廊下の先へ進んで待った。
チャーチルは前を向いたまま、嗄れた声を廊下の床に落とすように言う。
「新城君。私は感傷で動かん」
康政は黙って、相手の横顔を見つめた。
「油田は、海軍省が喉から手を出していた。君の枠組みは渡りに舟だった。——それだけだ」
「ええ」
「パリでアメリカが、日英同盟の墓を掘っている。陛下の心が動けば、同盟は書類から強固な実体へと変わる。私は今日、君の『錨』とやらを制度に鍛える」
チャーチルはそこで指先の葉巻をくるりと回し、自嘲にも似た吐息を一つこぼした。
「……ガリポリで死なせた若者の数だ。たまには、生かすほうに回らねばな」
それからチャーチルは初めて康政に顔を向けた。鋭い目が、かすかに細められる。
「……以上だ。私は君を利用する。君も私を利用しろ」
康政は深く一礼した。その目には、相手への打算を越えた静かな敬意が宿っている。
「閣下。お互い様でございます」
チャーチルは小さく鼻を鳴らし、表情を引き締めて歩調を戻した。樫の扉の前で、リスターが静かに振り返る。チャーチルは無言で小さく頷き、それから康政に顔を向けて、低く囁いた。
「ここからは、君の場だ。私は君の後ろに控える」
康政は静かに一つ頷き、自らの手で扉をノックした。
「入れ」
嗄れた、しかしよく通る声が室内から返る。リスターが扉を開けると、暖炉の火の温もりが廊下へと流れ出した。
部屋は思ったより狭く、しかしその分、凝縮された親密さがあった。壁一面を埋める書架、磨き込まれた書き物机、猟犬をかたどった鋳鉄の火鉢。暖炉の前、革張りの安楽椅子の傍らに、ジョージ五世は立っていた。背が高く、痩躯。髪と髭には白いものが混じり、濃紺の、飾り気のない上衣を肩にゆったりと羽織っている。
その顔立ちに、響子は息を呑んだ。ニコライ二世と瓜二つだったのだ。同じ青い瞳、同じ髭の形、同じ痩せた頬の線。まるで従兄弟の皇帝が、衣装を変えてここに立っているかのようだった。しかし、違った。ニコライ二世の青い瞳が、台湾の南国の陽の下で見せた柔らかな諦念の色だとすれば、この国王の瞳には、北海の冬の海を思わせる厳しさがある。そしてその奥に、長いあいだ誰にも見せなかった、深い疲労の翳りがあった。
康政が深く一礼すると、国王は右手を軽く挙げて応じた。形式張った挨拶は、それだけで十分だとでも言うように。
「陛下。新城康政にございます。お目通り叶い、光栄に存じます」
国王の声は、チャーチルのそれよりもさらに低く、しかし不思議なほど柔らかかった。海軍軍人としての経歴を思わせる簡潔な口調だが、その一言一言に、この場が公式の謁見ではないことを自ら確認するような慎重さが滲んでいる。
「楽にされたい。ここは宮殿ではない。私もまた、ただジョージという一人の男として、君たちを迎えたい」
リスターが五人分の席を整え、暖炉の火を確かめてから紅茶を給仕した。茶器の触れ合う微かな音だけが、室内の静寂を優しく破る。チャーチルは国王の左手、康政は暖炉をはさんで斜向かいに座り、響子と燕は康政の背後に控えた。リスターは扉の傍らに立ち、給仕と護衛の両方を兼ねる位置を取る。
国王は一瞥を暖炉の火に落とし、それから顔を上げて康政を真っ直ぐに見た。
「ウィンストンから話は聞いている。君が、ニッキーの手紙を預かってきていると」
場の空気が、かすかに引き締まった。ニッキー。従兄弟をそう呼んだ瞬間、国王の声からは先ほどの形式的な響きが消え、より私的な、ほとんど家族の者のような温度が滲み出た。
康政は内懐から、革の書類入れを取り出した。その中から、厚手の封筒を一層、丁寧に両手で差し出す。双頭の鷲の封蝋。ロマノフ家の紋章。暖炉の炎に照らされながら、皇帝が自ら滴らせた真鍮の匙の一滴。
国王は封筒を受け取ると、しばしその封蝋を見つめた。細長い指が、双頭の鷲の意匠をなぞる。その指先が、かすかに震えていた。
「……ニッキーの封蝋だ。間違いない」
国王は小声でそう呟き、封を切った。厚手の便箋が二枚。万年筆でぎっしりと綴られたロシア語の文字。国王はそれを読み始めたが、数行進んだところで、指が止まった。
国王は便箋から目を離し、窓の外を見つめた。冬の芝生が、午後の鈍い陽射しを受けて灰色に広がっている。その背中が、響子の目にはひどく小さく見えた。世界最大の帝国の主ではない。ただ、従兄弟の生死を案じ続けてきた、一人の老いた男の背中。
暖炉の火だけが、静かに爆ぜている。
長い、長すぎる沈黙だった。
やがて国王の肩が微かに震え、絞り出すような深く重い息が吐き出される。それは大英帝国の主としてではなく、長きにわたり癒えることのない悔恨を抱え続けてきた一人の男の、祈りにも似た吐息であった。
「……ニッキーは、生きているのだな」
康政の声は、静かだが確かだった。
「はい。この親書をしたためられた後も、台湾の地で健やかに」
国王は小さく頷き、再び便箋に目を落とした。読み進める。最後の行に辿り着き、便箋を膝の上で折り返す。その動作は、まるで壊れ物を扱うかのように慎重だった。
それから国王の視線が、自然に、康政の背後で手帳と写真の束を胸に抱える響子へと流れた。
「……その、後のことは」
「記者の橘が、ご家族の日々を記録いたしました」
康政が振り返る。響子は一瞬息を詰め、それからゆっくりと立ち上がった。指先は芯から冷え切り、掌にはじわりと冷たい汗が滲んでいる。それでも、手帳を胸に抱えて暖炉の前へと進み出る彼女の足取りに、微塵の迷いもなかった。
「橘響子と申します」
響子はそう名乗り、抱えていた草稿の束、写真、活動写真のリールを卓上に差し出した。
「皇帝陛下のご一家が台湾で過ごされた日々を、文章と写真に記録いたしました。この草稿は、まだ完成してはおりませんが、ありのままを綴りました」
国王は無言で、写真の一枚を手に取った。庭園の椰子の木陰。南国の陽射しが、白い洋装姿の少女たちの上に降り注いでいる。年嵩の娘が妹の肩に手を置き、末の少女が椰子の実を両手に抱えて笑っている。その隣で、痩せた少年が車椅子に腰掛け、眩しそうに目を細めていた。
国王の指が、写真の上をゆっくりと滑る。一人ひとりの顔を、なぞるように。
「……オリガだ」
国王の声がかすれた。
「タチアナ。マリア。アナスタシア……そしてアレクセイ」
その声には、戦場で何万もの命を失った男のものとは思えぬほどの、静かな優しさがあった。五人の名を、一人ずつ確かめるように口にする国王の横顔を、響子は言葉なく見つめた。
喉の奥がカラカラに乾く。目の奥が熱い。しかしこれは彼女の涙ではない。この場に立ち会う者として、ただ見届けなければならない瞬間だった。響子の声は、かすかにも震えていなかった。
「四姉妹は、互いに冗談を言い合っておりました。末の皇女は椰子の実を拾ってはしゃぎ、アレクセイ様は、車椅子のまま妹たちを微笑ましく見つめておられました」
国王は写真から目を離さない。
「……妃も、この写真を見たがるだろう」
その一言に、チャーチルが微かに眉を動かした。メアリー王妃。この場にはいないが、国王の口からその存在が自然にこぼれたということは、王室全体で、この「贈物」を待っていたのだ。
国王は写真を膝の上に置き、響子を見上げた。
「あなたは、なぜこれを」
「私は記者です。見たことを書く。ただそれだけでございます。誰に読まれるためでもなく、ただ、真実を書き留めることが、私の仕事でございます」
国王はしばし響子の目を見つめ、それから深く一つ頷いた。その仕草には、記者という職業への敬意よりもむしろ、一人の人間としての信頼が滲んでいる。
康政が静かに口を開いた。
「陛下。もう一人、ご家族と同じ屋根の下で過ごした者がおります」
燕が、康政の背後から一歩前に出た。黒い外套の襟を正し、深々と一礼する。その動作には、わずかな音さえなかった。
「燕と申します。台湾にて、皇女様方にお茶を給仕し、ロシア語で言葉を交わしておりました」
国王の目が、燕に向けられる。燕は背筋を伸ばし、必要なことだけを淡々と語った。その声は低く、しかし澄んでいた。
「オリガ様は、いつも妹君たちを気遣っておられました。タチアナ様は読書をお好みで、アナスタシア様は、笑い声の絶えない方でした。マリア様は、庭園の椰子の木陰で水彩を……」
燕の声の温度が、ほんの一瞬だけ揺らぐ。それは単なる護衛の報告ではなく、同じ空気を吸い、同じ時間を生きた者だけが持つ、偽りなき響きであった。
「アレクセイ様は、体調の優れぬ日もございました。しかしオリガ様が傍らで本を読み聞かせますと、少年のような笑顔を見せられました」
国王は目を伏せ、長く沈黙した。猟犬をかたどった鋳鉄が、暖炉の爆ぜる音を静かに吸い込む。響子は、自分の息遣いが異様に大きく感じられた。しかしそれは恐怖ではなく、歴史の結節点に立っていることの証のように思える。
国王の口から、ただその一言だけが絞り出された。
「……ありがとう」
燕は言葉を返さず、ただ深く一礼する。顔を上げた時のその瞳は、為すべきことを為し終えた者の、底知れぬ静けさに包まれていた。
三つの贈物が、いま国王の手に届けられた。親書。記録。証言。一人の皇帝が従兄弟に綴った魂の言葉と、記者が書き留めた家族の日々と、護衛の少女が記憶した皇女たちの生の声。それらは重なり合い、国王の胸の奥深くで疼き続けていた痛みを、静かに解きほぐしていく。
長い沈黙の後、国王はゆっくりと顔を上げた。その表情は、先ほどまでの「従兄弟を喪った男」のものではなかった。背筋は伸び、両の肩には再び大英帝国の主としての重みが戻っている。しかし、その瞳の奥だけは、何かが確かに変わっていた。北海の冬の海のような厳しさはそのままに、そこに見えない光が差し込んだかのようだった。
国王の声は、低く、落ち着いていた。
「新城殿」
「あなたは、なぜこの『贈物』をイギリスに」
康政は背筋を伸ばし、国王の目を真っ直ぐに見つめた。
「日英の絆は、来るべき時代の嵐を乗り切るための錨となります」
国王はその言葉を、しばし噛み締めるように沈黙した。
「……錨。それはすなわち、新たな同盟の形、か」
国王はそう呟き、視線をチャーチルへと移した。チャーチルはその言葉を待っていたとばかりに、口を開いた。その声は、陸軍大臣としての重みを帯びている。
「陛下。新城君が申す『絆』は、言葉だけではございません。メソポタミア未開発鉱区の共同開発、昨日、陸軍省で調印を済ませました。利権の奪い合いではなく、新規開発の協業として」
国王は小さく頷いた。チャーチルは続ける。その声が、一段と深くなった。
「して、この『絆』を持続させる器として、日英同盟協議会の設立を提案いたします。この男が示す無形の錨を、書類から強固な制度へと鍛え上げるための機関であります」
国王はその名を、ゆっくりと口の中で転がすように繰り返した。
「日英同盟協議会」
「ウィンストン。卿はすでに、新城殿とこの話を」
「車中にて。陛下が真の絆を問われる時が来ると、予見してございました」
チャーチルの言葉に、国王はかすかに口元を緩めた。それは笑みと呼ぶにはあまりに微かだったが、この場で初めて見せた、国王の人間らしい表情だった。
「ウィンストン。卿に預ける。詳細を詰めよ」
「仰せのままに」
康政は深く一礼した。
台湾を発つ前から彼が抱いてきた確信。日英の絆こそが、来るべき嵐を乗り切る唯一の錨になる。その遥かなる設計図は、いまこのサンドリンガムの私室で、歴史を動かす確かな種として蒔かれた。
読んで頂きありがとうございます。
第7章完。




