表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第7章:欧州の火、極東の鉄

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

127/139

第40話:ロンドンの密約と、サンドリンガムの重圧

 大正八(一九一九)年、一月。

 

 ロンドン、ヴィクトリア駅。ドーヴァーの白い崖を背にイギリスの冬野を横断してきた一行は、夕刻の冷たい空気に降り立った。

 

 石炭の燃える匂いが低く這う霧に混じり、アーチ型の重厚な鉄骨が支える駅舎に、行き交う人々の足早な靴音が反響する。パリの華やぎとは質の違う、大洋を支配する帝国の都が放つ、重く沈んだ覇気がそこにあった。

 

 駅舎の外には、リスターが手配した二台の黒塗りの馬車が待機している。

 

「お二人の宿舎は、外務省に近い区域に手配済みです。まずはそちらへ」

 

 リスターの言葉に、瑞月は優雅に頭を下げる。そして、傍らに立つ康政へ向き直った。

 

「私たちはここで。ロンドンにおける財団の足場を、徹底して固めておきます」

 

 瑞月の声は静かだが、その目には決して退かぬ決意が宿っている。

 

 康政は深く一つ頷いた。

 

 瑞月と劉銘哲を乗せた馬車が、夕闇のせまる霧の街へと走り去っていく。過酷な交渉の場に常に並び立ってきた二人が、視界から消える。だが、響子の胸に不安はない。ここから先は、武力でも金力でもなく、歴史の真実という重すぎる手札だけを懐に忍ばせて踏み込むべき、後戻りのきかない暗野なのだ。

 

「閣下がお待ちです。こちらへ」

 

 リスターに導かれ、康政、響子、燕の三人はもう一台の馬車へと乗り込んだ。向かう先は陸軍省。十二月にパリの私邸で会談した時とは違う。今度は、大英帝国の陸軍大臣としての公式の場であった。

 

 

 

 陸軍省の建物は、ヴィクトリア朝の重厚な石造りである。

 

 高い天井の廊下にはすでに瓦斯灯(ガスとう)が点り、磨き込まれた大理石の床が冷たい光を反射している。リスターが衛兵に短く名乗り、三人を最奥へと導いた。

 

 執務室の重い(オーク)材の扉が開かれる。

 

 暖炉で爆ぜる薪の音。壁一面を覆う広大な世界地図。深い革張りの長椅子。そして卓の向こうに、葉巻をくわえたチャーチルが立っていた。今日はくたびれた灰色の背広ではない。大英帝国陸軍大臣としての、威圧感すら漂う濃紺の三つ揃えに身を包んでいる。

 

「よく来たな、新城君」

 

 (しわが)れた声が、室内の重い空気を震わせた。

 

「閣下。このたびは陸軍大臣へのご就任、心よりお慶び申し上げます」

 

「外交の辞令はいい。君との約束を果たすのに、この椅子が必要だっただけだ」

 

 チャーチルは短く鼻を鳴らし、卓の上に二通の分厚い書類を広げる。英語と日本語で併記された契約書。メソポタミア未開発鉱区(こうく)の共同探査、および採掘に関する事業合意書である。

 

「戦勝の熱に浮かれた奴らに、極東の得体の知れない組織と中東の利権を分け合う理屈を呑ませるのだ。ずいぶんと骨が折れたぞ」

 

 チャーチルは葉巻の煙を細く吐き出し、探るような鋭い視線を康政へ向けた。

 

「君の提案した『利権の独占ではなく、新規開発の協業』という枠組みが、連中の体面を保つ格好の隠れ蓑になったわけだ」

 

「すべては、閣下のご裁量の賜物でございます」

 

 康政の温和な微笑みは、大英帝国の重鎮を前にしても一片の揺らぎも見せない。

 

 チャーチルは万年筆を手に取り、無言で二通の書類に署名を書き殴った。そのうちの一通を、机の滑らかな表面を滑らせて康政の前へ押し出す。

 

 康政は文言の要所のみを静かに確認し、自らの万年筆を抜いた。ペン先が紙を擦る音だけが、暖炉の火の音に混ざって響く。十二月、パリの私邸で突きつけられた二つの要求。今日、その一つが極東の組織がイギリスの喉元に深く食い込む確かな楔として打ち込まれた。

 

 署名を終えたチャーチルは書類を脇へ退け、ゆっくりと葉巻を灰皿に置いた。組んだ両手の上に顎を乗せる。その目が、一転して底知れぬ真剣な色を帯びた。

 

「ところで、新城君。もう一つ、話がある」

 

 康政は背筋を正し、無言のまま相手の言葉を待つ。

 

「十二月。君はパリで、私に『手土産』を見せたな。ロマノフ皇帝の親書と、ご家族の写真、そして……彼女が書いた記録を」

 

 響子は壁際の一脚で、手帳を抱くようにきつく握りしめた。

 

「……あの事実は、しかるべき方へ通してある」

 

 チャーチルの声が一段低く沈み、室内の空気が鉛のように重くなった。

 

「先方は、ぜひ直接お会いしたいと仰せだ。君のその手で、直接渡してほしい、と」

 

 大英帝国の国王、ジョージ五世。

 

 響子の指先から血の気が引き、万年筆を持つ手が微かに震えた。パリの客舎で、可能性としては聞かされていた。しかし、大英帝国の陸軍大臣の口から直接それを告げられた瞬間、自分たちが踏み込もうとしている底知れぬ領域の深さが、物理的な重さとなってのしかかってくる。手帳の白い頁の上で、万年筆のインクが微かに滲んだ。

 

「場所はノーフォーク。サンドリンガム・ハウスだ。明日、私も同道する。ただし——」

 

 チャーチルは太い指を一本、静かに立てた。

 

「最小限の人数で来い。これは公式の拝謁(はいえつ)ではない。イギリス政府としても王室としても、記録には一切残さない。存在しない時間だ。……承知の上で、受けるか」

 

 

「承知いたしました」

 

 

 康政の返答に、一瞬の躊躇(ためら)いもない。最初から、この瞬間だけを見据えていたかのように。

 

「連れて行くのは、ここにいる二名です。記者の橘響子と、護衛の燕。この二名のみで参ります」

 

 チャーチルは目を細め、壁際で顔色を失いながらも真っ直ぐにこちらを見つめ返す響子と、扉の傍らで影のように微動だにしない燕を順番に一瞥(いちべつ)した。十二月のあの日と同じ、揺るぎない陣立て。

 

 

「いいだろう。君が選んだ眼と盾なら、私がとやかく言うことではない」

 

 

 チャーチルは深く息を吐き出し、重い身体を椅子に沈めた。

 

「リスターも同行させる。橋渡し役として、最後までな。明朝、リヴァプール・ストリート駅で落ち合おう」

 

 

 

 翌朝。どんよりと低い雲が垂れ込めるリヴァプール・ストリート駅。

 

 ホームにはすでにチャーチルの姿があった。濃紺の背広の上に黒の外套(がいとう)を羽織り、葉巻をくわえたまま、新聞を畳んで脇に置くところだった。

 

「新城君。少しは眠れたかね」

 

 チャーチルの低い問いに、康政は穏やかに首肯(しゅこう)する。

 

「おかげさまで」

 

「私は駄目だった。陛下に拝謁する前は、陸軍大臣の椅子に座った今でも腹の底が冷える」

 

 自嘲するように唇の端を歪め、チャーチルは列車の個室へと歩き出した。

 

 五人が乗り込むと、重々しい汽笛が鳴り響く。ロンドンの煤けた街並みが、ゆっくりと窓の外へ後退していく。

 

 車窓には、イギリス特有の冬の田園風景が広がっていた。なだらかな丘陵、石積みの塀、裸の枝を空に伸ばす並木。すべてが静かで冷たく、絵画のような端正さを保っている。

 

 チャーチルは向かいの席で、葉巻の煙を細く吐き出した。それから顔を上げ、康政を真っ直ぐに見据える。

 

「新城君。陛下は、君の話を聞きたがっている。皇帝が従兄弟に何を綴ったのか。ご家族が異国の地でどのように生きておられるのか。そして、君が、なぜこの『贈物』をイギリスに届けたのか、をな」

 

「私は、ただの使者です。皇帝の親書を預かり、記者の記録と写真を携えてきただけの」

 

「それでもだ」

 

 チャーチルは窓の外に目をやる。流れる冬の田園を、その鋭い眼差しが追った。

 

「陛下は、ロマノフ家の血を引く者として、長いあいだ『棘』を抱えておられた。君の持ってきたものが、それを抜くやもしれん。その時、陛下は君に何かを問うだろう。イギリスとの絆を。極東の未来を。私は、その場に立ち会う。……陛下が『絆』を問うた時、君は何と応える」

 

 康政は静かに車窓へ視線を転じる。

 

「言葉だけでは、絆は続きません。持続させる仕組みが必要です」

 

 チャーチルは葉巻の煙を細く吐き、低く笑った。

 

「……日英の戦略対話の場、か」

 

 康政は、静かに一つ頷く。十二月、この男にロマノフの親書を見せた時から、ここに至る道は見えていた。いや、台湾を発つ前から、康政の中には一つの確信があったのだ。日英の絆こそが、来るべき時代の嵐を乗り切るための、唯一の錨になる。

 

「響子さん」

 

 康政の温和な声に、響子は顔を上げた。

 

「響子さんの書いた草稿と、響子さんの撮った写真。それが今日、国王陛下の手に渡る。君は、記録者としてこの場に立ち会う資格がある」

 

 響子は手帳を胸に抱え、深く息を吸った。指先は冷え切っている。だが、その瞳には確かな熱があった。

 

「ええ。書くわ。この目で見たことを、全部」

 

 燕は黙って康政の背後に控えている。その瞳は、窓の外の冬景色を真っ直ぐに見据えていた。

 

 

 

 列車がノーフォークの小さな駅に滑り込むと、待機していた黒塗りの馬車が五人を無言で呑み込んだ。

 

 のしかかるような低い灰色の空の下、車輪が硬い砂利道を(きし)ませる音だけが続く。車内には息の詰まるような沈黙が降りていた。チャーチルは葉巻に火を点けもせず、太い指でそれを(もてあそ)びながら窓の向こうをじっと見据えている。その横顔には、これから自国の王に突きつける現実の重さが、深い皺となって刻まれていた。

 

 やがて冬の木立を抜け、重厚な鉄柵の門をくぐる。

 

 窓の向こうに、尖塔を持たない煉瓦造りの館が姿を現した。王室の狩猟用私邸、サンドリンガム・ハウス。公式の宮殿ではないからこそ選ばれた、歴史の裏側を動かす舞台である。

 

 逃げ道など、とうに絶たれていた。深く冷たい冬の夜気とともに、逃げ場のない重圧が響子の華奢な両肩へ静かにのしかかる。

 

 康政は、車窓の光を受けて静かに背筋を伸ばした。その横顔に気負いはなく、これから為すべきことの果てを見据えるように、黒い瞳の奥に静かな火が灯っている。背後の燕もまた、黒い外套の襟を正し、窓の外の館をただ静かに見据えていた。

 

 チャーチルが、ふと葉巻を弄ぶ手を止める。

 

 

「……着いたな」

 

 

 低く絞り出されたその一言には、一国の運命を背負う男の重々しい覚悟が込められていた。

 

 康政は言葉を返さず、目を伏せて静かに一つ頷く。

 

 冬の静寂の中、馬車の外で御者が重い扉の取っ手に手をかけた。微かな金属音が、静けさを裂く。康政はゆっくりと顔を上げ、歴史の扉が開かれるその瞬間を待った。

ここまで読んで頂きありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ