第39話:海峡を渡る日
大正八(一九一九)年、一月も半ば。
新年の祝祭が終わったパリの街は、奇妙な静けさと熱気を同時に孕んでいた。市民は日常に戻り、パン屋の軒先にはいつもの行列ができている。しかし客舎や公館の窓という窓には連日のように灯りが増え、世界中から集まった代表団の姿が冬の石畳を忙しく行き交っていた。講和会議の開幕まで、あと数日。見えない糸が、この都のあちこちで張り巡らされようとしている。
滞在先の客舎の一室。康政は窓辺に立ち、朝の光を受けたセーヌ川の靄を静かに眺めていた。卓の上には、劉銘哲が深夜までかかって取りまとめた各国代表団の最新動向が積まれている。
そこへ、控えめなノックの音が響いた。燕が音もなく扉を開ける。
入室したのはチャールズ・アルフレッド・リスターだった。外套の肩に冬の冷気を乗せたまま、背筋を伸ばして一礼する。左腕の動きにわずかな不自然さがあるが、その立ち居振る舞いには大英帝国の貴族に育まれた品の良さが滲んでいた。
「閣下からの伝言を携えて参りました」
リスターは内懐から一通の封筒を取り出した。厚手の紙片に、洋墨の掠れが激しい手書きの走り書き。筆を走らせた本人の気性の激しさを、そのまま写し取ったような筆致である。
康政は文面に目を通し、そっと封を折り返した。
「『油田の調印準備、整う。君も、そろそろ海峡を渡る時だ』……と」
「はい。そして、もう一つ」
リスターは周囲をはばかるように声を潜めた。
「陛下が、お会いになる用意がございます」
室内の空気が、微かに張り詰めた。長椅子に座っていた瑞月が、手にしていた扇子をゆっくりと閉じる。壁際の一脚で手帳を開いていた響子の指も止まった。
「……場所は」
康政の落ち着いた問いに、リスターはさらに声を落とした。
「ノーフォーク。サンドリンガム。王室の私邸です。人目は確実に避けられます。閣下が直々にご同行くださる手筈となっております」
康政は窓の外へ視線を戻し、しばし沈黙した。いや、迷っているのではない。これから踏み出す一歩の重さを、ただ黙って噛み締めているようだった。
「承知いたしました。明朝、海峡を渡ります」
リスターは深く息を吐いた。橋渡し役としての責務を果たした安堵と、これからも続く底知れぬ綱渡りへの覚悟が、その吐息には混ざり合っていた。
リスターを見送った後、六人は広間の長椅子に席を移した。瑞月は扇子を膝の上に置き、落ち着いた口調で切り出した。
「サンドリンガム。王室の私邸ですわね。十二月の『もう一週間』の答えが、いよいよ出たということ」
康政が小さく頷く。瑞月は隣の劉へ視線をやった。
「私と劉は、ロンドンで足場を固めます。調印後の陸軍省から先は、あなたと響子さん、燕の三人で」
「お願いします。講和会議の情報集約も、ロンドンに拠点を置けばパリと変わりなく動けるはずです」
瑞月は微かに笑み、扇子を優雅に胸元で開いた。白檀の香りが淡く漂う。
「……陛下に、よい贈物を」
康政は短く頷いた。交わす言葉はそれだけで十分だった。
響子は長椅子の端で、手帳を膝に置き、じっと自分の指先を見つめていた。サンドリンガム。イギリスの国王。自分の書いた草稿と、自分が撮った写真。あの南国の庭園で、ロマノフ家の皇女たちがくすりと笑った瞬間を焼き付けた一枚が、いま国王の手に渡ろうとしている。指先は酷く冷たかった。だが、胸の奥底には、歴史の目撃者となる密かな熱が確かに燻っていた。
翌朝。ル・アーヴル港。
瑞長丸はすでにマルセイユから回航を終え、岸壁に巨体を横たえていた。冬の英仏海峡は灰色に曇り、水平線の彼方にはイギリスの影すら見えない。冷たい潮風が甲板を吹き抜け、太い係船索を軋ませる。
タラップを上がるのは六名だった。康政、響子、燕。瑞月と劉。そしてリスター。最小限の護衛と、財団の熟練船員があとに続く。パリの拠点は数名の通信要員に委ねてあった。燕はすでに船室の安全を確認し終え、音もなく康政の背後に控えている。瑞月は劉と言葉を少なげに交わし、ロンドン到着後の段取りを確認していた。扇子を閉じたまま、甲板の風に黒髪を遊ばせるその姿には、新しい盤面を前にした秘めた昂揚が漂う。
「響子さん」
康政の穏やかな声に、響子は手帳を胸に抱え、顔を上げた。
「大丈夫かい。」
響子は一瞬、冷たい潮風を深く吸い込んだ。
「大丈夫。私の仕事は、見たことを書くことよ。相手が誰であっても、それは変わらないわ」
自分でも驚くほど、その声に震えはなかった。
瑞長丸の太い汽笛が、ル・アーヴルの冬空を震わせる。ゆっくりと岸壁を離れる船体。甲板に立つ六人の視界から、フランスの海岸線が次第に遠ざかっていく。
海峡は凪いでいた。冬の海としては珍しいほどの静けさだった。それでも灰色の空と灰色の波がどこまでも続き、世界のすべてが鉛色に閉ざされているようだった。響子は甲板の手すりに手を置き、水平線を見つめていた。風は冷たいが、不思議と寒さは感じない。
「康政君」
潮風に髪を揺らされながら、響子はふと口を開いた。
「台湾を発つ前、あなたは言ったわ。『相手の弱みにつけ込み遺恨を残すのは、僕たちのやり方じゃない。僕たちが差し出すのは魂の救済という名の贈物だ』って。あの言葉、ずっと覚えている」
康政は海を見つめたまま、穏やかに口元をほころばせた。
「いよいよね。その贈物を、届けるのね」
「そうだ。響子さんの書いたものが、そのまま贈物になる」
その横で、瑞月もまた手すりに手を置いていた。扇子は帯に挿したまま、潮風に目を細める。その横顔を、響子はちらりと盗み見る。何かを考えている。いや、すでに考え終えている。その証拠に、彼女の口元には微かな笑みが浮かんでいた。
やがて水平線の彼方に、白い崖が浮かび上がった。ドーヴァーである。大英帝国という国が、初めてその輪郭を彼女たちの前に現した。断崖は冬の薄陽を受けて、幽霊のように白く輝いている。
「あれが……ドーヴァーの白い崖」
響子の呟きに、康政もまた、その白亜の断崖を黙って見つめた。燕は何も言わない。ただ、康政の背後で、迫り来る白い崖をじっと見据えている。かつて基隆の暗がりの中から救われた少女が、いま大英帝国の海岸線を前に、主の盾として立っている。
瑞長丸は滑るようにドーヴァーへと近づいていく。海峡を渡り終えるまで、あとわずかだった。
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