第38話:理想と現実の狭間
夕刻、冬の陽が早々に沈み、パリの街にガス灯が灯り始めた頃。ホテルの一室の扉が、控えめにノックされた。
燕が扉を開けると、そこには背の高い若い紳士が立っていた。濃紺の外套、手にはイギリス製の革鞄。年の頃は二十代半ば、顔立ちは貴族的に整っているが、その眉間には微かな疲れの影が刻まれている。講和会議の準備に追われる若者の表情だった。
「近衛公」
康政が立ち上がり、軽く会釈する。近衛文麿、公爵。西園寺公望全権の随員としてパリに滞在し、人種差別撤廃案の起草という重大な役割を担う身である。同時に、台湾で康政の構想に触れ、深い共感を抱いた数少ない理解者でもあった。
「新城君、夜分にすまない。少し頭を冷やしたくてね」
近衛の声には、育ちの良さがにじむ上品さがある。だが今日は、その奥に詰められた疲労が隠しきれていなかった。
通された長椅子に腰を下ろし、燕が運んだ紅茶に口をつけると、近衛はほっと小さく息を吐いた。
「君のところへ来ると、いつも不思議と落ち着く。台湾の迎賓館で藤棚の下に座った日を思い出すよ」
「ありがとうございます。近衛公が来られるなら、茶菓子を用意させたのですが」
「いいんだ、気を遣わないでくれ。……今日は、話したいことがあって来た」
近衛が革鞄から取り出したのは、一枚の草稿だった。細かな書き込みと消し跡が幾重にも重なった、何度も練り直した跡が痛々しいほどに残る英文の草案である。
「人種的差別の撤廃を、国際連盟の規約に明記する案だ。牧野伸顕全権と私が中心になって、今まさに練り上げている」
響子は壁際の一脚で、静かに息を呑んだ。国際連盟。大戦後に設立される史上初の国際平和機構。その根本規則に「人種の平等」を刻もうというのが、日本代表団の最大の理念的提案だった。そしてそれを起草しているのが、いま目の前に座るこの若き公爵なのである。
近衛は草稿を卓の上に置き、天井を仰いだ。
「内容は、至極まともなものだ。どの人種も等しく尊厳を持つ。国家間の不平等を、法の力で正す。……誰が聞いても、反対する理由などないはずだ」
「しかし」
康政の一言に、近衛は力なく笑った。
「そうだ。しかし、だ。アメリカのウィルソン大統領は、理想を掲げながら、国内では黒人差別と移民排斥に何も手をつけていない。イギリスは世界最大の植民地帝国だ。白人と非白人の間に線を引くことが、彼らの支配の前提になっている。オーストラリアのヒューズ首相に至っては、黄色人種の排斥を公約に掲げて選挙に勝った男だ」
近衛は言葉を切ると、紅茶を一口含み、深く息を吐いた。
康政はすぐには答えなかった。窓の外では、パリの冬の夜が深まっている。講和会議を待つ各国の思惑が、この街のどこかで密かに渦を巻いている。そして康政だけが知っている。この人種的差別撤廃案は、結局、否決される。過半数の支持を得ながら、全会一致という規約上の壁に阻まれて葬られる。その挫折が、のちの日本の国際的孤立への第一歩となることも。
しかし、それを今ここで言うことはできない。言うべきではない。未来を知る者は、未来を語るのではなく、現在を見る者の目を開くべきだ。
「近衛公」
康政の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「イギリスもフランスも、表向きは人道的な理念を掲げています。国際連盟の理想も、文書の上では美しい。しかし、彼らの植民地経営を支えているのは、人種による上下関係です。それを明文化して否定することは、彼ら自身の足元を崩すことに等しい」
近衛は黙って聞いていた。その目が、ゆっくりと細められる。
「つまり、彼らは到底呑めない、と」
「呑めるかどうかは、彼らが決めることです。我々にできるのは、彼らが何を守ろうとしているのかを、正確に見極めること。理想が正しいほど、現実は冷たい。そして、その冷たさに耐えることが、政治家の責務ではないでしょうか」
瑞月は長椅子の端で、黙って扇子を膝の上で回していた。彼女は口を挟まない。この会話は、未来を背負う若き男たちの対話だからだ。
近衛は長い沈黙のあと、草稿を鞄にしまった。その手つきは丁寧だったが、諦めとは違う。一度現実を見据えた者の、新たな覚悟が滲んでいた。
「……君と話すと、いつも世界が広がる。ありがとう、新城君」
康政は茶杯を手に取り、口元でかすかに笑んだ。
「ところで、イギリス代表団との非公式な感触が必要でしたら」
「なに」
近衛の顔が上がる。康政は茶杯を置き、落ち着いて続けた。
「チャーチル閣下とは、すでに面識があります。表向きの外交とは別に、イギリス側の空気を探る必要がおありでしたら、私から橋渡しをいたしましょう」
近衛は一瞬息を呑み、それから低く笑った。大英帝国の元海軍大臣に、すでに強い繋がりがあるのか。この男は。
「……君は、どこまで深謀を張り巡らせているんだ」
「必要な縁は、必要になる前に作っておくものです」
近衛は立ち上がり、外套を手に取った。来た時よりも確かな生気が顔に戻っている。理想に燃えるだけではない、現実を見据えた者の確かな強さが。
「いずれ、この講和会議が終わったら、また台湾を訪ねたい。君の飛行場も、発動機工場も、まだ見せてもらっていないものがたくさんある」
「いつでも。こちらこそ、講和会議での近衛公のご活躍を、遠くから見守らせていただきます」
康政は立ち上がり、深く一礼した。近衛はそれに軽く手を挙げて応え、扉へと向かう。
去り際、近衛はふと足を止め、振り返らずに言った。
「新城君。君は、政治家にはならないのか」
「私は、縁を作るだけで十分です。それを使うかどうかは、あなた方の役目だ」
近衛はしばし黙り、それから微かに笑ったようだった。扉が閉まり、廊下の足音が遠ざかっていく。
響子は手帳に万年筆を走らせていた。指先が熱い。近衛という若き公爵が背負う理想と現実の重さ。そして康政が彼に与えたのは、答えではなく視点だった。そのことがどれほど深い助けであるかを、彼女はこの目で見た。
『近衛公、人種差別撤廃案を起草。康政、助言のみ。答えは与えず』
『「理想が正しいほど、現実は冷たい」。康政、公爵に「見るべきもの」を示す』
『チャーチルへの橋渡しを申し出。近衛、深謀の深さに驚く』
その夜、ホテルの一室で、康政は窓辺に立ち、瑞月が淹れた新しい茶を手にしていた。卓の上には劉がまとめた仮調印の控えと、リスターからの報告書が並んでいる。
瑞月は長椅子に腰を下ろし、扇子をゆっくりと開いた。
「ラクロワは、よく動きましたわね。あの日の場で、自ら一週間と言い置いた。その言葉が、彼自身を縛ったのでしょう」
「彼は有能だ。省内をまとめ、条文を詰め、議会の根回しも一人でやり切った。フランスにとって、これ以上の相手はいない」
康政の声には、単なる評価以上のものがあった。敵だった相手を、対等の契約者として認める。それが彼の流儀だった。
「近衛公も、お疲れのご様子でした」
「理想と現実の板挟みだ。若い頃にそれに耐えるのは容易ではない。だが、彼なら大丈夫だ」
瑞月はそれ以上何も言わず、ただ茶杯を手に取った。その目は「あなたも十分若い」と語っていたが、口には出さなかった。
響子は長椅子の端で、手帳を開いた。今日一日で書き留めたことを、もう一度ゆっくりと読み返す。フランスの仮調印。イギリスの黙認確約と油田の検討中。そして、近衛文麿という若き公爵の憂鬱と決意。
彼女は新しい頁を開き、三行を書きつけた。
『フランス、仮調印完了。ラクロワ、敵から共同事業者へ』
『イギリス、ロマノフ黙認を確約。油田は「もう少し待て」』
『近衛公、理想と現実の狭間に立つ。康政は答えを与えず、ただ「見るべきもの」を示した』
そして最後に、一言だけ。
『二つの約束。一つの友情。歴史はまだ、動き始めたばかり』
窓の外では、パリの冬の夜が深まっていた。講和会議を前に、この都には数十の国の思惑が渦巻いている。そのなかで、極東から来た若者たちは、ひそかに、しかし着実に、自らの影響力を広げていた。
フランスの鉱物。イギリスの黙認と油田。そして日本代表団を支える見えざる後ろ盾。それらが交差する場所に、新城康政は立っている。
瑞月が立ち上がり、康政の隣に歩み寄った。二人は並んで窓の外を見つめている。言葉はない。ただ、同じ方向を見ている。
響子はその背中を一瞬見つめてから、手帳を閉じた。今日の記録はここまででいい。歴史が次の頁をめくるのは、また明日だ。
読んで頂き感謝です。




