第37話:結ばれた仮調印と、大英帝国の沈黙
大正八(一九一九)年、一月。
ラクロワが「一週間」と言い置いてから、半月が過ぎていた。年末の休暇で植民省の実務が滞り、条文の最終調整に思わぬ日数を要したのである。講和会議の開幕が目前に迫るなか、ようやく仮調印の日を迎えた。
パリの冬空は鈍色に曇り、セーヌ川の水面には冷たい靄が漂い、市中の石畳は凍てつく白さに覆われている。年が明けても寒さは変わらない。それでも街の空気には、降誕祭と新年の祝祭が過ぎたあとの、ひと息ついたような静けさがあった。教会の鐘が鳴り止み、市民が日常に戻るなか、講和会議を控えた各国代表団の動きだけが、その静けさの下で熱を帯びて加速している。
康政たちがこの異国の都で迎えた新年は、静かなものだった。大晦日の夜、遠くの教会から洩れる鐘の音を聞きながら、瑞月は「不思議な年明けですわね」と呟き、康政は茶杯を手にしたまま「世界中が、息を吐くのに精一杯なのでしょう」と応じた。響子はその横で、手帳に『一九一九年、パリにて年越し。戦勝の熱も祝祭もなく、ただ時が区切られた』とだけ記した。
そして、年が明けて最初の月曜日。ラクロワからの連絡が滞在先のホテルに届いた。
ホテルの一室。康政は窓辺に立ち、湯気の立つ紅茶を手にしていた。卓の上には劉銘哲がまとめた最新の報告書が整然と並べられ、その一枚一枚にフランス植民省内の動きが刻まれている。劉は早朝から植民省の若手法務官と連絡を取り合い、条文の最終確認を済ませていた。
「ラクロワ局長から、本日午後二時、植民省にて仮調印の用意が整ったとのことです」
劉の声はいつも通り静かだったが、その端にわずかな安堵が滲んでいるのを、響子は聞き逃さなかった。長椅子に腰掛けた彼女は手帳を膝に置き、万年筆の蓋を外したり嵌めたりしている。無意識の指先の動きが、この半月の張り詰めた待機を物語っていた。
瑞月は鏡台の前で、黒の外出着の襟元を整えていた。今日は和装ではない。パリの官僚社会に溶け込む、控えめながら仕立ての良い洋装である。鏡越しに響子と目が合うと、彼女はふっと微笑んだ。
「ラクロワも、年末の遅れを取り戻すように、よく動きましたわね」
「彼は彼で、省内をまとめるのに必要な時間だったのでしょう。こちらの予測通りに動いてくれて、何よりです」
康政は茶杯を卓に戻し、背広の襟を正した。その所作には昂りも焦りもない。ただ、今日という日に必要なものだけが、粛々と揃えられていく。
午後一時半。植民省の石造りの廊下は、前回訪れた時と同じく冷え切っていた。違うのは、案内する法務官の足取りである。あの日はどこか警戒を含んだ歩調だったが、今日は迷いがない。すでに省内の空気は「仮調印」という結論に向けて整えられていた。
通されたのは、前回と同じ執務室だった。重厚な樫の机、壁に掛かった植民地の地図、暖炉の火。だが室内の空気は、あの日の張り詰めた対峙とはまるで異なっている。ラクロワは机の向こうで立ち上がり、軽く会釈した。その顔には、初対面の時に見せた官僚的な鎧はなく、むしろ淡々とした実務家の落ち着きが浮かんでいる。
「よくお越し下さった。約束の期日より遅れたが、きっちり仕上げさせていただいた」
ラクロワの声には、かすかな誇りが混ざっていた。省内を説き伏せ、議会関係者に根回しをし、条文を詰め切った。それを成し遂げたのは自分だという、職業人としての自負である。
「賢明なご判断です」
康政は短く応じ、着席した。瑞月はその隣に、劉は条文を携えて康政の後ろに控える。響子は壁際の一脚を選んだ。前回、ラクロワの声が震えたその瞬間を目の当たりにした場所である。今日、同じ場所で彼は自ら万年筆を取ろうとしている。
ラクロワが卓上に広げたのは、フランス語と日本語で併記された仮調印書だった。マダガスカル島の鉱物資源開発権。黒鉛、稀少鉱物、その他地下資源の探査および採掘に関する、フランス政府と瑞長財団の共同事業。条文の細部は、劉と植民省の法務官たちが年末年始にかけて練り上げたものだ。
「批准までの間、フランス国内法に基づく手続きがいくつか残る。だが、この仮調印をもって、両者の合意は正式に成立したものとみなす。よろしいな」
ラクロワの視線は、マダガスカル島の開発に関する条文の一点に落ちていた。「利益の五割を地元へ還元する」という項目である。その目は実務家の落ち着きを装いながらも、内心の狡猾な計算を隠し切れていない。莫大な還元金は総督府の自由裁量となり、大戦で疲弊したフランス本国の復興資金としていくらでも流用できる都合の良い財源になるはずだった。
だが、その計算を遮るように、劉が音もなく一枚の書類を仮調印書の横に滑らせた。
「ええ。ただし、その還元方法について一つ付帯細則がございます」
無機質な声とともに示されたのは、『島嶼開発基金』の設立要項だった。
訝しげに目を落としたラクロワの眉が、一行読み進めるごとに微かに引きつっていく。
「還元分はすべて同基金にて一元管理し、港湾や路網の整備といった現物の基盤設備として地元へ供与する……と。」
「総督府の皆様に、煩雑な土木作業の負担をおかけするわけにはいきませんから」
瑞月が、交渉相手を気圧する魅力的な容姿のまま、膝の上の閉じた扇子にそっと指を添え、涼やかな微笑みを浮かべた。
「大戦の傷跡を癒やす本国の復興こそが、フランスにとっての急務でございましょう。マダガスカルでの初期建設にかかる巨額の費用は、すべて我が財団が立て替えますわ」
相手を立てるような、甘い毒だった。すかさず、康政が落ち着いて言葉を引き継ぐ。
「そして、将来生み出される地元の還元分五割は、その立て替え費用の償還へと自動的に振り替えられる仕組みです。フランス政府には、一切の手間も財政負担もかけません」
ラクロワは奥歯を強く噛み締めた。これでは、現銀としての一フランたりとも総督府には落ちない。資金を着服する隙が、三人の息の合った連携によって塞がれていた。
「君たちは……」
ラクロワは思わず声を荒らげそうになり、すんでのところで息を呑み込んだ。ここで反論すれば、「最初から資金を流用するつもりだった」と自ら白状するようなものだ。しかも彼はすでに省内を説き伏せ、自らの成果としてこの仮調印の場まで整えてしまっている。もはや後戻りすることなど不可能だった。
渋々事実を受け入れ、ラクロワは喉の奥で呻き声を殺すと、無理やり実務家の仮面を被り直した。
「……よかろう。この細則を含め、すべての条件を呑もう。これで合意だな。」
「異存はございません」
康政が頷くと、ラクロワは万年筆を手に取った。その指先は、あの日、動揺を見せた時とは違い、観念したような重さで書類へと向かっている。彼は二通の書類に署名し、一方を康政の前へ滑らせた。
康政は書面の文言にざっと目を通し、それから落ち着いて署名する。ペン先が紙を擦る音だけが、暖炉の火の爆ぜる音に混ざって室内を満たした。
瑞月は隣で扇子を開くこともなく、ただ署名の流れを見守っている。あの日、同じ部屋で彼女が扇子の縁を撫でた時、ラクロワの手は震えた。今日、その扇子は膝の上で閉じられたままだ。開く必要がない。すでに勝負は終わっている。
響子は手帳を開き、万年筆を走らせる。指先が冷えているのは、廊下の寒さのせいだけではない。目の前で、一つの国との契約が密かに結ばれていく。その場に立ち会っているという緊張が、彼女の呼吸を浅くさせていた。
『フランス、仮調印。ラクロワの目論見を封じ、共同事業者へ』
署名を終えたラクロワは、書類を脇に置き、紅茶を一口含んだ。それから、ふと思い出したように顔を上げる。
「そういえば、君はチャーチルにも会ったそうだな」
室内の空気が、わずかに動いた。ラクロワの口調はあくまで世間話のようだったが、その目は笑っていない。フランスの重役として、海の向こうの動きを知らぬはずがない。
「はい。先日、私邸でお会いしました」
「あの男は油断ならん。ガリポリで躓いたが、決して終わった男ではない。……君のことだ、うまくやったのだろうな」
康政は答えず、ただ微かに口元をほころばせた。ラクロワはそれを見て、ふん、と鼻を鳴らす。それ以上追及はしなかった。彼もまた、この極東の若者がチャーチルと何を交わしたのか、正確に知る必要はないと判断したのだろう。
響子の手帳に、もう一行走る。
『ラクロワ、チャーチルを警戒。仏と英、同じ状況下にあり』
ホテルへの帰路、車中で誰も口を開かなかった。ただ瑞月が、そっと康政の腕に手を置く。康政はそれに短く頷き、窓の外へ目を向けた。パリの街並みが流れていく。講和会議の準備に沸くこの都で、彼らは密かに一つの契約を仕上げた。
ホテルに戻ると、一階の広間にある長椅子に一人の男が待っていた。外套の肩に冬の冷気を乗せたまま、紅茶にも手をつけずに腰掛けている。チャールズ・アルフレッド・リスターである。
「お待ちしておりました、皆様」
リスターは立ち上がり、まず瑞月に、次いで康政に軽く頭を下げた。その顔には、前回チャーチル邸への招待状を届けに来た時のような緊張はない。むしろ、伝えるべき情報を既に整理し終えた者の落ち着きがあった。
部屋へ移り、扉が閉められる。リスターは外套を脱ぐ間も惜しむように、口を開いた。
「チャーチル閣下から、伝言が二つ」
「伺いましょう」
「一つ。ロマノフの件について、閣下は外務省の報告書を精読され、ご自身の目で事実関係を確認されました。その上で、『約束は守る。この件について、イギリス政府が公に動くことはない』との確約をいただいております」
康政は黙って頷いた。口頭の確約である。だがチャーチルのような男が、外務省の記録まで精査した上でそう言ったのだ。その重みは、紙切れ一枚の契約書に勝るとも劣らない。
「もう一つ」
リスターはわずかに間を置いた。
「油田の共同事業について、閣下は海軍省および外務省と非公式な協議に入られました。まだ結論は出ておりませんが、閣下の伝言は『もう少し待て』です」
「それで結構です」
康政の返答は即座だった。むしろ、予想の範囲内であることを示すような落ち着きが、その声にはあった。
「彼が動けば動くほど、彼自身が周囲を説得してくれる。我々は待つだけでよろしい」
瑞月が優雅に扇子を開き、白檀の香りが部屋に淡く漂う。
「フランスとの交渉はまとまりました。イギリスの事情はまだ動いている。それでよいのですわ」
リスターは深く息を吐いた。橋渡し役としての責務を果たした安堵と、これからも続く綱渡りへの覚悟が、その吐息には混ざっている。
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