第36話:極東の手土産、帝国の重み
大正七(一九一八)年、十二月。
ラクロワが「一週間」と言い置いてから、二日目の朝だった。
フランス植民省からの正式な回答は、まだ届いていない。しかし、パリの政界を漂う空気は、あの日の交渉以前とは明らかに変わっていた。植民省の若手法務官が深夜まで劉銘哲のもとを訪れ、条文の細かな解釈を問い合わせてくる。議会関係者からは非公式の打診が相次ぎ、省内ではラクロワの主導で仮調印の批准に向けた根回しが始まっている。そうした情報の断片が、劉の机の上に少しずつ積み上がっていた。ラクロワは沈黙を守りながらも、「一週間」という自ら区切った期限の内側で、着実に地均しを進めている。
窓辺に立つ康政は、劉がまとめたそれらの中間報告にざっと目を通し、卓に置いた。
「急いてはいない。向こうの時計で動けばいい」
その声に高揚はない。フランスの一週間も、これから動かすイギリスの盤面も、すべては同じ手の中にある。冬の朝の空気のように凪いだ響きだった。瑞月は長椅子に腰掛け、白檀の扇子を静かに開いた。
「ええ。ラクロワは聡明な官僚ですもの。あの場でみずから期限を口にした瞬間、彼はすでにこちらの盤面の上にいるのですわ」
扉をノックする音。燕が告げる。
「リスター卿がお見えです」
康政は居住まいを正した。
入室したチャールズ・アルフレッド・リスターは、外套の肩にまだ冬の冷気を乗せていた。その手には一葉の封筒。暖炉の火明かりに照らされた顔には、安堵と強烈な緊張が入り混じっている。響子は無意識に手帳を閉じ、長椅子に座り直した。瑞月は扇子を膝の上に置き、リスターの手元を見つめる。
「チャーチル閣下が……」
リスターは封筒から一枚の厚手の紙片を取り出し、卓の上へ滑らせた。洋墨の掠れが激しい、書き殴るような筆致。走らせた本人の気性の激しさをそのまま写し取ったようだった。
「明朝、私邸でお会いになる。ただし条件が二つ。一つ、同席者は最小限に。もう一つ、会見の内容を、正式な外交の場には一切乗せないこと」
一瞬の沈黙。康政は紙片を一瞥し、無言で劉に手渡した。劉が文面に目を走らせて深く頷く。康政はそれを見届けてから、リスターに視線を戻す。
「お運びいただき、痛み入ります。明朝、参上いたします」
リスターは深く息を吐いた。強張っていた肩の線がわずかに下がる。しかし、その手はまだ、大英帝国の重鎮から預かった「橋渡し」の重みに微かに震えていた。恩人である康政の役に立てた安堵と、それ以上の責務を引き受けた自覚とを、同時に噛み締めているようだった。
翌朝、パリの冬の空気は前夜よりも冷え込みが強かった。
セーヌ川の水面には冷たい靄が漂い、市中の石畳は凍てつく白さに覆われている。康政は濃紺の外套に身を包み、瑞月はシルクハットと黒の外出着という、欧州の貴族社会に溶け込む洋装を選んだ。いつもの漆黒の和装ではない。むしろ欧州の貴族社会に自らを紛れ込ませる、狩人の装いだった。
同行するのは、瑞月、燕、劉、そして響子の四人。リスターが事前に用意した自動車が、ホテルの玄関先で待っている。車中で誰も口を開かない。窓の外を流れる凍てついた街並みと、時折、響子の膝の上で手帳が揺れる微かな音だけが車内を満たしていた。
車はパリの中心部からやや離れた静かな街区へと入り、やがて一軒の気品ある建物の前に停まる。外壁にツタの枯れ枝が絡みついた、二階建ての私邸。門をくぐると、使い込まれた革と、ウイスキーのような芳醇な匂いが混ざった葉巻の残り香が、かすかに漂っていた。
通された居間は、冬の朝だというのに妙に熱気を帯びている。暖炉の火が勢いよく燃え盛り、その上には真鍮の薬缶が湯気を立てていた。
中央の重厚な長椅子に腰を沈めていたのは、ずんぐりとした体躯の男だった。くすんだ灰色の背広の襟元はくたびれており、書類をしまい込んだ革鞄が足元に無造作に転がっている。
ウィンストン・チャーチル。四十四歳。
かつて海軍大臣としてガリポリの敗戦を背負い、いまは軍需大臣の椅子で戦後処理に忙殺される身。だが、訪れた客人を迎えるその眼差しは、くたびれた外見とは裏腹に刃のように鋭い。一瞥しただけで、この中で誰がもっとも危険な相手かを直感的に見極めている。そんな目だった。
「よくいらした。さあ、座りたまえ」
チャーチルは立ち上がることもなく、太い指で向かいの長椅子を示した。嗄れた声が、室内の熱気を震わせる。口調は形式張っていない。これから始まる会話が社交ではないことを、最初から宣言しているかのようだった。
康政は一礼してから腰を下ろした。瑞月はその隣に、響子は壁際の一脚に控える。劉と燕は背後に立ったまま動かない。リスターはチャーチルの側に座ったが、どちらの側にも寄りすぎない位置を慎重に選んでいる。橋渡し役としての中立を、視覚的に示すかのように。
チャーチルは葉巻を灰皿に置き、康政を正面から見据えた。
「あの病院船の差配をしたのは、君なんだそうだな」
ガリポリ。彼にとって政治生命を暗転させた十字架の戦場。そこで味方の命を救った極東の船。その事実に触れるチャーチルの声は、探るように低い。
「橘少佐と高柳少佐の功績です。私はただ、彼らに船を与えたに過ぎません」
康政が短く応じると、チャーチルは微かに眉を動かし、鼻を鳴らして笑った。
「謙遜か。あるいは計算か。いずれにせよ、君の船が運んだペニシリンとやらは、私の友人を何人も救った。礼を言おう」
康政は落ち着いて頭を下げる。それ以上は何も言わない。チャーチルは葉巻を再び手に取り、火を点けるまでにたっぷりと間を取った。煙と暖炉の熱、そして見えない糸の張り詰めるような沈黙。響子は壁際の一脚で、指先が芯から冷えていくのを感じていた。この部屋は熱気に満ちているのに、康政とチャーチルの間に流れる空気だけが、別の温度を持っている。男たちの会話はまだ始まったばかりだ。なのに、この場で見逃せる一言などないことが、彼女の喉をじわじわと渇かせる。
「それで……」
チャーチルが葉巻の煙を吐き出し、視線を鋭くした。
「リスターから聞いている。私にしか扱えぬ『手土産』があるとか。出したまえ」
康政は外套の内側へ手を入れた。その動作が、室内の空気を一変させる。チャーチルの葉巻を持つ手が止まり、リスターの喉が微かに上下する。
取り出されたのは、一枚の桃色の封筒だった。厚手の紙質。蝋の色は赤黒く、押された印章は双頭の鷲。帝国の象徴が、暖炉の火明かりに鈍く光った。
チャーチルの顔から、余裕が消え去る。いまや血塗られた歴史の中に消えたはずの帝室の印。なぜ、極東の青年の手にあるのか。その視線が康政に突き刺さる。
「……君は、何を持ってきた」
康政は答えない。代わりに、外套のもう一方の内側から、二枚の写真を卓の上に置いた。
一枚目。台湾の陽光の下、白い鉄の椅子に腰掛ける婦人たち。真珠の首飾りをつけたアレクサンドラ皇后。その隣で穏やかに笑うオルガ、タチアナ、マリア、アナスタシア。四人の皇女たちの姿が、まぎれもなくそこにあった。
二枚目。書斎の窓辺でチェス盤を挟む二人の男。一人は髪に白いものが混じり、軍服を着ている。もう一人は痩せた頬の、目に穏やかな光を宿した紳士。ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ。最後の皇帝。
チャーチルは写真を手に取った。
「……本物か」
かすれた声が漏れる。その指先が、微かに震えを帯びている。
「ご覧の通りです」
康政の返答はそれだけだった。証明も、説得もしない。ただ、写真がそこにある。それで足りる——そう言外に告げている。
チャーチルは写真を裏返し、撮影者の署名と日付を確認した。現像紙の質、日光の角度、皇女たちの横顔に浮かぶ皺の入り方。どれもが、彼の知るロマノフ家そのものだった。
長い沈黙。暖炉の薪が爆ぜる音だけが、場を満たした。
チャーチルは写真を卓に置き、背もたれに深く凭れた。葉巻を灰皿に押しつけ、ゆっくりと揉み消す。その眼の奥で、大英帝国の巨大な天秤が軋みを上げて揺れ動いていた。王室はどう動くか。議会は。新聞は。ロイド・ジョージ首相は何と言うか。ジョージ五世が最初に発する言葉は、安堵か、それとも恐怖か。それを響子は手に取るように感じた。
「いや。まず訊くべきことは一つだけだ。陛下は、ご存命か」
「存命です。家族全員、我が財団の保護下にございます」
天気を語るかのような康政の静かな声に、チャーチルは目を閉じ、深く重い息を吐き出した。その吐息の意味を、響子は正確に読み取れない。安堵か、あるいは、これから自分が背負わされる重荷への覚悟か。彼女の掌は、手帳の表紙の上でじっとりと汗ばんでいた。
次に目を開いた時、くたびれた男の面影はない。極度の緊張を強いられる盤面で、冷徹に数字を弾く政治家の顔がそこにあった。
「して、君は私に何を求める」
康政は陶器の茶杯を手に取り、一口含む。その所作は、この場が自分の手中にあることを静かに示していた。
「何も。ただ、陛下が安全な地で静養されていることだけを、閣下にご承知いただきたいのです」
「黙っていろ、ということか」
「それを決めるのは私ではございません。閣下です」
チャーチルはしばし黙り、やがて皮肉とも感嘆ともつかない笑いを漏らした。
「なるほど。フランスをああも手酷くやったわけだ」
康政は答えない。ただ茶杯を卓に戻し、背筋を伸ばしてチャーチルを見返す。瑞月も隣で扇子を開くことなく、じっとチャーチルの眼の動きを追っている。その沈黙こそが、何より雄弁だった。
チャーチルは立ち上がり、暖炉の前まで歩いた。薬缶の湯気が彼の横顔を揺らめかせる。
「……一週間、猶予をくれ」
響子の背筋が跳ねた。ラクロワと同じ言葉。フランス植民省の局長が、あの執務室で折れた時と、寸分違わぬ猶予期間。そして、その言葉の意味を、チャーチルは知らない。大英帝国の重鎮が今、自らの意思で、ラクロワと同じ土俵に立ったのだ。
「承知いたしました」
康政は立ち上がらないまま、背筋を伸ばしてチャーチルを見上げる。
「もうひとつ、別件でございますが」
チャーチルが暖炉の前で振り返る。葉巻の灰が、指先からはらはらと敷物の上にこぼれた。その顔にはまだ、ロマノフ家の衝撃が色濃く残っている。
「今度はなんだ」
「事業の取引についてでございます。我が財団は、スイスおよびアメリカ系の金融機関を通じまして、イギリス政府発行の戦時公債を相当額、引き受けております」
暖炉の火が爆ぜた。チャーチルの眉が、ゆっくりと持ち上がる。
「……続けたまえ」
「戦後、公債を現金にて償還する余力は、貴国には残されていないと拝察いたします。つきましては、代物弁済として、我が財団がメソポタミアで独自に探査し有望と判断した未開発の鉱区について、イギリス政府との共同開発事業を提案いたしたく存じます」
チャーチルは低く唸った。既存権益の割譲ではない。自らの探査で見つけた未開発の鉱区を、イギリスとの共同事業として差し出してきたのだ。奪われる話ではなく、持ちかけられた話である。ロマノフ家の生存という情理の絡む重みとは違う、血の匂いのする現実の取引。その事実が、彼のなかで慎重に計量されている。
「油田の共同事業、か」
「はい」
「本気で言っているのか」
「本気でなければ、この場で口にいたしません」
チャーチルは新しい葉巻を手に取ったが、火は点けなかった。暖炉の火が、彼の横顔の半分だけを赤く照らしている。
「もう一週間だ。こちらは、ロマノフの件より時間が要る」
「承知いたしました」
今度こそ、康政は立ち上がった。深く一礼し、扉へと向かう。
「君は、ロシア皇帝をどうするつもりだ」
康政は振り返らない。ただ、扉に向かいながら、落ち着いた声で落ちた。
「陛下は、すでに余生を穏やかに過ごされております。我々はそれを、見守るだけです」
チャーチルはそれ以上、何も訊かなかった。
康政が扉に手をかけた、その時である。
「そこの君」
響子の足が、床に縫い付けられたように止まった。チャーチルの視線が、壁際に控えていた彼女を真っ直ぐに射抜いている。
「記者だな」
問いではなく、断定だった。手帳を抱えた女がこの場に同席している理由など、彼には最初からわかっていたのだろう。チャーチルは葉巻を指先でもてあそびながら、低く笑った。皮肉と、警戒と、そしてかすかな疲れが混ざった笑みだった。
「今日のことは、記事にするなよ。どちらの話もだ」
響子は青ざめた顔のまま、言葉を発さない。ただ、抱え込んだ手帳の表紙に食い込むほど指先を立て、深く頭を下げる。諾とも否ともとれぬ、沈黙の礼。記者としての矜持が、その場で「はい」とは言わせなかった。
チャーチルは短く鼻を鳴らし、それ以上は追及しなかった。彼もまた、この東洋の女記者がただの傍観者ではないことを、本能的に見抜いていたのだろう。
廊下に出た響子の掌は、じっとりと汗ばんでいた。冷や汗だった。それと同時に、胸の奥で小さな火が灯るのを感じている。自分はこの場に立ち会った。大英帝国の重鎮が、極東の若者に「一週間」を乞い、さらに「もう一週間」を求めた。ロマノフ家の生存と、中東の油田。ふたつの重みを、この目で見たという事実が、彼女の背骨をしゃんと伸ばさせた。
チャーチルは明朝、ロンドンへ発つと聞いている。年明けの内閣改造を見据え、軍需大臣としての戦後処理に目処をつけねばならないのだろう。自動車に戻った途端、響子は大きく息を吐いた。窓ガラスに手を当てると、指先は氷のように冷え切っているのに、背中には汗が伝う。熱に満ちたあの部屋で、自分は張り詰めた空気に凍えていたのだ。
隣で瑞月が、そっと響子の手に自分の手を重ねた。
「お疲れ様。あなたがいてくれて助かったわ」
響子は小さく頷く。修羅場をくぐり抜けてきたはずの瑞月の手は、静かで、確かな温もりを持っていた。
その夜、ホテルの一室で、康政は窓辺に立ち、瑞月が淹れたお茶を手にしていた。
リスターからの報告によれば、チャーチルはその足で外務省へ向かい、二つの記録を請求したという。一つは、過激派によるロマノフ家処刑に関するイギリス諜報部の報告書。もう一つは、イギリス政府発行の戦時公債の海外保有状況に関する財務省の集計資料。前者を読み直して初めて、彼は今朝見たあの写真の重みを骨の髄まで理解するだろう。後者は、確認するまでもなく、彼自身が一番よく知っているはずの数字だった。イギリスの首が、どれほど回らなくなっているかを。
響子は長椅子に腰掛け、手帳を開いた。万年筆が、ゆっくりと紙を走る。
『チャーチル……』
そこまで書いて、筆が止まる。彼のことを何と書けばいいのか。大英帝国の重鎮か。ガリポリの敗将か。それとも、ロマノフ家の秘密を預かり、油田の交渉相手にもなった男か。
彼女は、一行目を線で消した。そして、新しい二行を書きつける。
『チャーチル、動く。ロマノフ黙認、猶予一週間』『油田、猶予もう一週間。』
もう一文字書き足そうとして、やはり筆を置いた。
窓の外では、パリの冬の夜が深まっていく。セーヌ川の水面に映る街灯の明かりは、朝に浮かんでいた薄氷の下で、ゆっくりと揺れていた。瑞月は窓辺に立ち、茶杯を手にしたまま、動かない。その背中が暖炉の灯りに淡く浮かび上がり、漆黒の和装が闇に溶けていく。響子はその背中を一瞬見つめてから、手帳を閉じた。
続く言葉は、まだ紙に落ちない。歴史はまだ、動き始めたばかりなのだから。
読んで頂きありがとうございます。




