第35話:仮の約定と、新たなる盤面
大正七(一九一八)年、十二月。パリ。
ルーヴル美術館の近くに位置する最高級ホテルの特別室は、冬の朝の冷気が窓を伝って微かに滲み込んでいた。昨夜、暖炉で爆ぜていた火は一度鎮まり、分厚い窓掛けの向こうには灰色の曇り空が広がっている。遠くに霞むエッフェル塔は、停戦からひと月余りが過ぎた今も、静かに空に立っていた。
橘響子は窓辺の長椅子に腰掛け、手帳の上で万年筆を止めたまま、その情景を見つめていた。書きかけの一行があった。『パリ、十二月、曇り。街は戦勝の熱気と、疲弊の色が混ざる』。その一文を読み返し、やはり言葉が足りないと思いながら、小さく息をつく。
背後で、穏やかな気配がした。振り返ると、新城康政が湯気の立つ茶器を手に立っていた。彼は窓辺の小さな卓に一つを置き、向かいに腰を下ろす。その動作はゆっくりとしていて、無駄がなかった。
「パリを書こうと思うと、筆が止まるの」
響子の言葉に、康政は窓の外へと視線をやった。
「焦る必要はないよ。講和会議が本格化するまで、この街が抱える熱と毒をじっくりと見極めればいい」
その声音に、響子はいくぶんか肩の力を抜く。そうだ、まだ到着したばかりだ。卓の上には昨夜からそのままになっている書類の山があり、その一番上に桃色の封筒が一枚、双頭の鷲の封蝋に守られて横たわっていた。ニコライ二世がジョージ五世に宛てた親書である。その隣には活動写真の巻盤と、現像されたばかりの写真の束。皇帝一家が台湾の地で穏やかに過ごす姿を収めた、この世界でただ一組の証拠だ。
扉がノックされ、燕が室内へ入る。彼女の後ろに立つ瑞月の、漆黒の絹の和装に白い半襟が透き通り、伽羅の香りが朝の空気に溶けて室内へ広がった。昨夜から書類と向き合っていたらしい劉銘哲がその後ろに控えている。劉の目元にはうっすらと疲労の影が落ちているが、その口元には満足げな笑みが浮かんでいた。響子は無意識に背筋を伸ばしていた。瑞月がその場に立つだけで、パリの重苦しい冬の空気が、彼女の持つ静謐な空気に塗り替えられていく。
「片付きました」
劉は手にした革鞄から、分厚い書類の束を卓の上に置いた。羊皮紙の上に整然と並ぶ仏文の条文は、ところどころ朱書きの修正と細かな注釈で埋め尽くされている。
「フランス法務局が用意していた七つの『抜け道』、すべて国際法の鎖で幾重にも縛り上げております。これで、彼らは戦時の仮調印から逃れることはできません」
その言葉に、瑞月は白檀の扇子を優雅に広げた。
「ご苦労様。……あの時、我々の条件を慈善事業だと嘲笑った尊大な武官たちが、これを見てどのような顔をするか。楽しみですわね」
康政が茶器に手を伸ばした時、再びノックの音が響いた。燕が今度は別の来訪者を告げる。
「近衛様がお見えです」
扉の先に立つのは、昨夜の再会から一夜明けて早々に訪ねてきた近衛文麿だった。彼は外套の襟に朝の冷気を残したまま、一通の封筒を卓の上に置いた。
「イギリス大使館に顔を出したら、面白いものを預かってね」
取り出されたのは一枚の名刺と、短い手書きの書簡だった。名刺には家紋と氏名が控えめに刻まれている。『チャールズ・アルフレッド・リスター』。近衛が続けた。
「聞けば彼はガリポリで重傷を負い、橘少佐の船で命を拾ったそうだ。今はパリ講和会議のイギリス代表団の一員として参加している。君たちに会いたがっているよ」
手紙の文字は洋墨の掠れもなく整い、恩人との再会を望む旨が簡潔に綴られている。瑞月が扇子の陰から低く言った。
「どうやら、二つの盤面を同時に動かすことになりそうですね」
康政は名刺を手に取り一瞥した。それから胸の内ポケットに仕舞い、短く命じる。
「フランスは瑞月に任せる。……その後、チャールズ卿をここへ」
瑞月は黙って頷く。それだけで役割は決まった。
その午後、一行はオルセー河岸に建つフランス植民省を訪れた。石造りの重厚な建物は帝国の威容を今なお保っている。正面の大階段を上ると、左右に掲げられた国旗が風に揺れ、廊下の壁には北アフリカからインドシナに至る植民地の地図が並んでいた。応接室でしばし待った後、案内された執務室は高い天井と漆喰の装飾を持つ重厚な空間だった。壁の一面にはアフリカ大陸の西側を中心とした詳細な地図が掛けられている。机の後ろに立つ初老の紳士、植民省経済局長のラクロワは、皺の刻まれた顔に老練なしたたかさを隠そうともしていなかった。
着席するや否や、ラクロワは卓上に置かれた仮調印の写しを一瞥し、ゆったりと背もたれに体を預けた。
「率直に申し上げよう。この条件は、本国政府として到底呑み兼ねる」
室内の空気がわずかに張りつめる。ラクロワは余裕の笑みを浮かべて続けた。
「あの時は確かに軍部の要請があった。しかし、戦時中の非常措置を平時の契約として継続するなど、国内の産業界が許さない。五割の現地還元など言語道断だ。……無論、貴財団への代金はいずれ支払う。我々は敗戦国ドイツから莫大な賠償金を得るのだから、心配には及ばない」
その言葉を遮ったのは、瑞月だった。彼女は卓の上の書類に視線を落としたまま、ふと、柔らかな微笑みを浮かべた。
「局長。お忙しいところ、お時間を頂きありがとうございます」
その声は鈴を転がすように澄んでいた。ラクロワの眉が微かに動く。一呼吸置いて、瑞月はそっと茶器に手を伸ばし、紅茶を一口含んだ。その所作には一切の隙がない。やがて彼女が茶器をゆっくりと受け皿に戻す。その小さな音が、室内の空気を一変させた。
「ドイツからの賠償金。……それは、いつ貴国の金庫に入るのでしょうか。」
ラクロワの表情がわずかに強張る。瑞月は、劉が徹夜で仕上げた分厚い書類の束を、音もなくラクロワの目の前へ滑らせた。
「お読みになって。戦場での命の対価を、平時の法でどう裁くのか、我々の法務担当が整えましたわ」
ラクロワの視線が書類に落ちる。そこには、フランス側が用意していたはずの逃げ道が、国際法の厳密な解釈によって一つ残らず見事に塞がれている事実が記されていた。
瑞月は、扇子を卓上に置き、両手を組みながら相手の目をまっすぐに見返す。
「局長。もしこの条約が白紙に戻れば、我々も株主に対し『フランスという国は投資に値しない』と報告せざるを得ません。……悲しいことですわ。明日から、ヴェルダンの空を飛ぶ発動機の予備部品も、野戦病院へ向かうはずの薬も、すべて行き先を変えなければならないのですから」
「それは……脅しかね」
ラクロワの声が低く沈んだ。
「事実を申し上げているだけです。この書類をパリ講和会議の席上に提出すれば、どうなるか。戦火の中で交わした契約を、戦後に平然と反故にする国家に対し、果たして他国は新たな融資を行うでしょうか」
響子は、壁際の椅子でその一瞬を見逃さずにいた。瑞月の声は終始静かだった。語調を荒げることはない。それなのに、一言ごとにラクロワの立場が確実に削り取られていく。ドイツからの賠償金など、いつ入るか分からない。今この瞬間、財団が投資と特許技術を引き上げれば、戦後のフランス経済は復興前に立ち行かなくなる。書類を読み進めるにつれ、ラクロワの額にじっとりと冷や汗が滲み出た。瑞月の微笑みの裏にある冷徹な事実が、長年培ったラクロワの自信を、音もなく崩していく。
暖炉の薪がぱちりと爆ぜる。長い沈黙の末に、彼が絞り出すように言った。
「一週間だ。一週間で、本国議会との調整を行う」
響子は息を呑んだ。勝った、そう確信した。いや、確信したのは結果だけではない。瑞月という一人の女性が、声を荒げることなく、相手に自らの急所を悟らせるだけで、列強の局長を屈服させた事実そのものだった。
冬の日は傾き、セーヌ川の水面が茜色に染まり始めていた。建物の重厚な扉をくぐり、冷たい外気が頬を打つ。
「見事な手際だった。これで、フランスの喉元は確実に押さえたね。ご苦労だった、瑞月。彼らもようやく、我々の流儀を理解したはずだ」
隣を歩く康政は、外套の襟を直しながら穏やかに労いの言葉を口にした。瑞月は艶やかに微笑み、小さく首肯した。
夜に入り、一行は再びホテルの一室に集まっていた。今度は近衛が一人のイギリス人を連れてきている。チャールズ・アルフレッド・リスター。傷の後遺症か左腕の動きにわずかに不自然さが残っているが、その立ち居振る舞いには大英帝国の貴族に育まれた品の良さが滲んでいた。彼は康政の前に立つと、背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「あなたが新城康政様ですね。橘少佐から、あなた方がいなければ私は今ここにいないと、何度も聞かされました」
リスターの言葉はゆっくりと、一言一言を確かめるように紡がれる。
「あの船の医療隊は私の腕と脚を救っただけではない。自分が何のために生きるのかを、取り戻させてくれた。何か私にできることがあれば、何なりと申し付けてください」
その眼差しには偽りのない真摯さがあった。康政はしばし黙っていた。それから卓上の茶器に手を伸ばし、新しい茶器に紅茶を注ぐ。湯気の立つそれをリスターの前にそっと置いてから、口を開いた。
「リスター卿。貴方に一つ、大英帝国の命運に関わる『手土産』をお見せしたい」
康政は外套の内側から一通の封筒を取り出した。暖炉の灯りを受けて、双頭の鷲の封蝋が赤黒く浮かび上がる。しかし、康政は決してその中身を見せようとはしなかった。リスターはその意匠を見て、ハッと息を呑んだ。康政は穏やかな、しかし底知れぬ凄みを帯びた声音で続けた。
「イギリスが抱える『ある深い傷』を癒すためのものです。……ただし、これは決して表の外交ルートには乗せられぬ代物。まずは、今もなお貴国の海軍と政界に睨みを利かせる、あの猛将にのみお伝え願いたい」
チャーチル。その名を口にせずとも、リスターには誰のことか分かっていた。命の恩人である極東の青年の瞳の奥に宿る、歴史を動かす重圧。リスターは封筒の輪郭を一瞥し、深い敬意と共に深々と頭を下げた。
「分かりました。私の名誉にかけて、非公式な面会を準備いたしましょう」
その応えには一切の迷いがなかった。
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