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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第7章:欧州の火、極東の鉄

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第33話:銀翼の軌道と、南風に託された筆

 大正七(一九一八)年、冬。


 台湾・台北、松山に拓かれたばかりの真新しい舗装滑走路(かっそうろ)


 初冬とはいえ肌寒さを感じさせない南国の陽光の下、空気を震わせる重低音が響き渡る。


 木骨布張りの複葉機が主流のこの時代にあって、その機体の姿は異彩を放っていた。空気抵抗を極限まで減らした単葉の主翼と、鈍い銀色に輝くジュラルミン張りの胴体。瑞長財団が総力を結集して生み出した双発機、『瑞式一型イ号』である。


 四百四十馬力の発動機が上げる咆哮(ほうこう)に包まれながら、新城康政はその銀翼を見上げている。


「各気筒の燃焼、油圧、すべて規定値で安定しております」


 片手に分厚い記録帳を持った二階堂隆臣が、風圧に負けじと声を張り上げた。作業着に油を滲ませたその顔には、身を削るような開発と、宮崎での過酷な試験飛行を乗り越えてきた技術者としての、確かな矜持(きょうじ)が刻まれている。


「台湾から沖縄、奄美、鹿児島、そして千葉に至るまで、列島を繋ぐ無線の塔はすべて正常に稼働(かどう)しています。雲の中であろうと夜間であろうと、電波が位置を見失わぬための指針となります」


「ありがとう、二階堂さん。皆さんの昼夜を問わぬ献身が、ついに空の道を拓いてくれました」


 康政は笑みを浮かべ、深く頭を下げる。


 機体の胴体横では、作業着姿の職員たちが手際よく貨物を積み込んでいる。帝都の議事堂にいる父・和也へと宛てた極秘の親書や、相場を左右する重要な手形、そして束ねられた郵便(のう)。船と汽車を乗り継げば一週間を要するそれらの紙の束が、わずか二日後には帝都に届くことになる。


 やがて機体の扉が閉ざされ、操縦席の窓越しに熟練の操縦士が短く敬礼を送ってきた。


 発動機の回転数が跳ね上がり、銀色の機体が滑走路を蹴る。重たい金属の塊がふわりと地面を離れ、南国の青空へと吸い込まれていく。車輪が滑らかに機体へと格納され、その姿が雲の彼方へ消えるまで、康政は静かに見送った。


「美しい離陸でしたわ。……ですが、ずいぶんと大食らいの鳥のようですわね」


 飛行場に隣接する控室。滑走路を見渡す大きな窓辺で、瑞月が白磁(はくじ)の茶器を傾けながら艶やかな微笑を向けた。


「一週間かかる情報を、わずか二日に縮める。それは確かに、帝都の商人どもを出し抜く強力な武器になります。ですが、台湾と帝都を往復するだけの定期便では、いずれ維持の費用が利益を食い潰すのではありませんか」


 康政は窓辺から離れ、用意された革張りの椅子にゆっくりと腰を下ろした。


「瑞月さんの仰る通りです。帝都は政治の街ですが、真の商いと物資の流れを支配しているのは別の場所ですからね」


「では、すでに次の一手を」


「ええ。採算を合わせ、この空の道を国家の商いを束ねる(かなめ)とするためには、どうしても天下の台所を組み込む必要があります」


 康政は手元の茶を一(すす)りし、穏やかな声で続けた。


「……大阪です。すでに密かに土地の買収を終え、大規模な飛行場の基礎工事に取り掛からせています」


 台湾、商都・大阪、そして帝都。その三点を銀翼で結びつけるという計画。瑞月は感嘆の息を漏らし、ふふっと楽しげに扇子で口元を隠した。


 空を飛ぶ機械を単なる早馬として終わらせず、国家の経済そのものを絡め取る見えざる網。その底知れぬ青写真に、瑞月は静かに息を呑み、己の仕える若き主へ向けて艶やかな視線を投げかけた。




 同じ頃、台湾・基隆(キールン)港。


 海風が吹き抜ける桟橋は、異様な熱気と喧騒(けんそう)に包み込まれていた。


「号外! 号外! 欧州の戦、終わる! ドイツが休戦条約に調印!」


 新聞売りの少年が声を張り上げながら、紙の束を撒き散らすように駆けていく。四年余りに及んだ混迷の欧州大戦が、ついに終結の時を迎えたのだ。


 その号外の紙片が一枚、内地からの定期客船から降り立ったばかりの女性の足元に舞い落ちた。


 橘響子は、長旅の(しわ)が刻まれた薄手の外套の裾を押さえながら、その見出しを見下ろした。そしてゆっくりと顔を上げ、南国の湿気を帯びた生ぬるい風を胸いっぱいに吸い込む。


 目の前に広がるのは、大戦景気を支え、さらなる復興の需要に向けて無数の物資を吐き出し続ける、見渡す限りの港湾施設群。幾基もの起重機(きじゅうき)が唸りを上げ、無数の輸送船が海原へと連なっている。


 帝都の新聞社という男たちの社会で、どれほど真実を追い求めても「女の感傷」と切り捨てられ、紙面の隅で埃を被っていた日々。息が詰まるような閉塞感の中で、幾度となく折れかけた彼女のペン。


 だが今、彼女の目の前には、幼馴染が実際に回している「世界の歯車」の底知れぬ広がりが横たわっている。


「橘様。長旅、誠にお疲れ様でございました」


 背後から掛けられた声に振り返ると、そこには隙のない仕立ての背広を着こなした阿長が、恭しく一礼して立っていた。


「康政様が、お待ちでございます。お車の手配が済んでおりますので、どうぞこちらへ」


 財団の守りを束ねる者としての、隙なく洗練された所作。響子は手にした鞄の持ち手をぎゅっと握り直し、「ありがとう」と短く応えた。


 車窓から流れる台湾の活気に満ちた街並みを眺めながら、響子は膝の上で冷えていた万年筆の軸を、両手で強く握りしめた。




 その夜、新城邸の書斎。


 開け放たれた窓から入り込む南風が、卓上の洋灯(ランプ)の炎を微かに揺らしている。


 遠く離れた貴賓棟からは、皇女たちが奏でる穏やかなピアノの旋律が、夜の静寂に溶け込むように聞こえていた。


「……ずいぶんと、頬が痩せたね。帝都の空気は、君には少し冷たすぎたようだ」


 康政が差し出した温かい紅茶の杯を、響子は両手で包み込むようにして受け取った。


「康政君こそ、少し見ない間に、すっかり手の届かない世界の住人になってしまったみたい」


 響子は自嘲気味に微笑み、視線を落とす。


「手紙に書いた通りよ。私がどれだけ足掻いても、帝都の男たちは私の書くものに真実など求めていなかった。……私は、自分のペンの意味を見失いそうになっていたの」


 康政は哀れむことも、慰めることもせず、ただ真っ直ぐに幼馴染の顔を見つめ返した。


「響子さん。あの日、言葉で世界を変えると誓った君のペンが、誰かの偏見で折られていいはずがない」


 康政の声の温度に、響子が顔を上げる。


「今、この敷地の奥で平穏な夜を迎えているのは、シベリアで行方不明とされているロシアの皇帝一家だ。僕たちは彼らを、極寒の地から救い出した」


 響子は息を呑み、目を見開いた。世界中が躍起になって探し求めている歴史の真実が、今、自分と同じ屋根の下で息をしている。背筋を強烈な衝撃が駆け抜けた。持っていたティーカップが微かに鳴り、波立つ水面が彼女の動揺を静かに映し出していた。


「父上たちは今、この事実を大英帝国の喉元に突きつけ、同盟の鎖を縛り直す外交を進めている。……しかし、政治の駆け引きの道具として数字と理屈を並べるだけでは、彼らの良心を真に動かすことはできない」


 康政は卓に置かれた真新しい原稿用紙の束に、そっと手を添えた。


「極北で彼らがいかに理不尽に命を脅かされ、そしてこの南の島で、どれほど温かな安寧を得たのか。それを人々の心を打つ美しい『物語』としてロンドンへ届ける必要がある。帝都のしがらみに染まっていない、君の純粋な魂とペンだけが、海を越えて人の心を動かすことができるんだ」


 ピアノの音色が、夜の闇に優しく響いている。


 響子は震える指先で、自分の鞄から長年使い込まれた万年筆を取り出した。冷たい帝都で、何度も洋墨(インク)を涸らしかけたそのペンを、両手で包み込むように握りしめる。


「実はね……私、帝都の新聞社、辞めてきたの」


 退路を断ってきたという響子の言葉に、康政は目を見張った。しかし、すぐにその不退転の覚悟を重く受け止め、穏やかな声で応じる。


「ならば、財団の傘下にある『極東公論社』に席を置かないか。専属の記者として、君が思う存分に筆を振るえる環境は僕が保証するよ」


 その温かい申し出に、響子は唇を強く噛み締めた。


 財団が命懸けで守り抜いた歴史の真実を取材する以上、彼らの傘下に入るのが筋であることは痛いほど理解している。しかし、行き場を失った自分がいきなり幼馴染の力に(すが)り、用意された安全な椅子に座ることは、冷たい帝都で歯を食いしばりながら守り抜いてきた己の矜持がどうしても許さなかった。


 彼女の視線が、手元の万年筆から康政の顔へとゆっくりと上がる。


「……少しだけ、考えさせて。当分はどこの社にも属さない、一人の記者として密着取材をさせてほしいの」


 幼馴染への甘えを断ち切るような、不器用なほどに真っ直ぐな言葉。


 康政はそれ以上何も言わず、ただ深く、温かく一つ頷いた。彼女の内に秘められた痛切な矜持を、言葉よりも深く理解した無言の肯定であった。


 大戦という狂乱の時代が終わりを告げた夜。南の低い空にかすかに瞬く星の下で、新しい歴史の扉をこじ開けるためのひとつの筆が、誰の庇護も受けず、静かに、そして力強く息を吹き返していた。

読んで頂きありがとうございます。

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