表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第7章:欧州の火、極東の鉄

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

119/139

第32話:同盟の天秤と、南風の便り

 大正七(一九一八)年、秋。

 

 帝都・東京。冷たい秋の雨が、議事堂の重厚な御影石(みかげいし)の外壁を絶え間なく打ち据えている。

 

 薄暗い石造りの回廊に、新城和也の静かな靴音だけが等間隔で響く。高い天井に反響するその音は、表通りの喧騒(けんそう)からすっかり切り離された、冷酷なまでの静寂を際立たせていた。

 

 壁面に並ぶガス灯の(ほの)かな明かりが、和也の胸元に新しく付けられた多額納税者議員の徽章(きしょう)を鈍く照らし出す。

 

 和也は歩みを止めず、指先でその冷たい金属の感触をそっと確かめた。

 

 一年以上も前から、身を削るような緻密な計算と資金を投じて巡らせてきた政治的布石。この夏の米騒動における内地の米蔵の掌握と、泥沼化する北の出兵における生命線を裏から握り込んだ、途方もない労力の集大成。

 

 彼の黒い瞳に、慢心や権力への執着は欠片も浮かんでいない。彼が欲したのは、名誉などという虚飾ではなく、国策という抗いがたい濁流から南の島で待つ家族と同志を守り抜くための、重く冷たい「鉄の盾」であった。軍部や旧体制の理不尽な要求を法的に撥ね退けるため、彼自身が帝都の暗がりの中でこの盾を背負う覚悟を決めたのだ。

 

 回廊の大きな窓から、雨に煙る帝都の鉛色の空を見上げる。これから対峙すべき幾多の壁を見据えるように、和也の視線はどこまでも深く澄み切っていた。

 

 

 

 同じ頃、台湾・台北。

 

 帝都の冷雨とは無縁の、暖かな秋の陽光が差し込む新城邸の居間。

 

 届けられたばかりの電信(でんしん)の紙片を見つめる和子の指先が、微かに震えていた。

 

「無事に、登院を果たせたそうです」

 

 和子の落ち着いた声に、広々とした居間の空気がふわりと緩む。

 

 彼女は目を伏せ、手元の紙片を胸元に抱くようにして、長く深い安堵の息を吐き出した。権謀術数(けんぼうじゅっすう)が渦巻く帝都で、夫がどれほどの重圧を抱え、幾重もの罠を潜り抜けてきたか。共に財団を支え続けてきた彼女の胸中で、一葉の紙片が確かな熱を帯びている。

 

 傍らに控えていたリンが、両手を前で重ね、深く恭しい一礼をする。

 

「和子様、おめでとうございます。旦那様の長きにわたるご計画、ついに結実なさいましたね」

 

「ありがとう、リン。ええ……本当に長かったわ」

 

 和子が目尻をそっと拭うのを、同席していた康政と瑞月が温かな眼差しで見守っている。

 

 瑞月は手にした白檀(びゃくだん)の扇子で口元を隠しながら、その漆黒の瞳に静かな喜びを湛えていた。

 

 康政は、窓の外に広がる抜けるような南国の青空へと視線を向ける。国家の歯車を自らの手腕でねじ伏せ、家族の頭上に確かな防壁を掲げてみせた父。その見えざる死闘に思いを馳せ、康政は膝の上で静かに拳を握り込んでいた。

 

 

 

 帝都・東京。伊藤博文が滞在する静謐な私邸の奥座敷。

 

 庭の木々を打つ雨音だけが響く静寂の中、上座の伊藤博文、その傍らの児玉源太郎、そして新たに宰相の座に就いた原敬が、重苦しい空気を纏って座していた。

 

 表舞台の議事堂を離れ、和也が向かったのはこの座敷である。

 

 新首相である原は手元の急須から白磁の茶碗へと湯を注ぎながら、伏せた目の端で、目の前に端座する若き当主をじっと値踏みしている。

 

 内地の米価高騰を沈静化させ、今や軍の兵站(へいたん)すら握る男。しかし、その佇まいに驕りは一切なく、少しの隙もない落ち着きを払っていた。

 

「陸軍の出兵は、もはや治安維持という建前を越えようとしております」

 

 原が茶碗を畳に置き、低く沈んだ声で切り出した。

 

「軍の一部は、シベリアの凍土に反革命の将軍を擁立し、独自の傀儡(かいらい)政権を打ち立てようと息巻いている。補給の限度も、国家の金庫の底も顧みずにな」

 

 児玉が苛立たしげに、真鍮の灰皿へ葉巻(はまき)の灰を押し付けた。煙草の煙が奥座敷の淀んだ空気に溶けていく。

 

「戦の引き際を知らん青二才どもが。輜重(しちょう)を軽視した軍隊など、雪原を彷徨う亡霊に等しいというのに。しかも最近、連中は南を向いて鼻をひくつかせとる」

 

 児玉の鋭い視線が和也に向いた。

 

「軍の特務や諜報(ちょうほう)の人間が、台湾で妙な探りを入れているようだ。確証は掴んでおらんようだが、我々が何か隠し持っていると疑っておるな」

 

 和也は手元の扇子を膝に置いたまま、二人の言葉を黙って受け止めた。

 

「そのために、私自身が貴族院の議席という法的な盾を得ました。我々が握る補給の要と合わせ、彼らの目隠しは盤石に保ちます」

 

 和也の落ち着き払った声に、原がわずかに眉をひそめた。

 

「新城君。君の手腕は頼もしいが、それだけで軍の暴発を確実に防げるのかね」

 

「彼らに、火種となる大義名分を与えなければ良いのです。仮に軍部が、かの国で散り散りになった旧体制の象徴を旗印として担ぎ上げれば、局地的な戦意高揚をもたらすでしょう。しかし、結果として列強諸国からの猜疑(さいぎ)を招き、我が国は対米、対英関係において決定的な亀裂を生むことになります」

 

「大義名分を与えなければ良いと言うが……」

 

 原は短く息を吐き、探るような視線を向けた。

 

「どうやって列強、特に同盟国たるイギリスの動きを縛るつもりかね」

 

 和也は即答せず、春に横浜沖で直接会談を果たしている伊藤と児玉へ視線を移し、小さく頷きを交わしてから、再び原へと向き直った。

 

「原首相。我が財団は今日に至るまで、大英帝国に対して決して無視できぬ『貸し』を積み上げてまいりました。辛亥の動乱に始まり、ガリポリや中東の戦火における決死の支援。現在も悲惨な戦場と化している欧州戦線への病院船の派遣。そして……ドイツの潜水艦の脅威を振り切る十五ノットの巡航速度を備えた高性能輸送船の優先販売と、長年にわたり恩義を売り続けてまいりました」

 

 和也の静かで重い言葉に、横で聞いていた児玉が低く笑い声を漏らした。

 

「ロンドンの海軍省は、今や新城の船団なしでは夜も眠れんそうだからな」

 

 原が思わず沈黙する中、和也が再び口を開いた。

 

「それらすべての恩義と実績を土台として、今、我々の手元には、大英帝国の首根っこを掴む最高の外交の切り札がございます」

 

 雨の音が、不自然なほど際立って響き渡る。

 

 

「……ロシア皇帝ニコライ二世とそのご家族は、現在、台湾の奥深くで我々の庇護(ひご)下にあります」

 

 

 原の息がぴたりと止まった。

 

 微かに肩を震わせ、言葉を失う原の姿が、その事実の持つ国際政治上の質量の重さを物語っている。

 

「無傷で救い出していた事実を、ロンドンの喉元へ突きつけるのです。陸軍には一切伏せたまま、我が国からイギリス王室への切り札として。……ニコライを見捨てたというイギリス国王の消えることのない強烈な()い目を突き、日英の同盟を、いかなる嵐にも耐えうるより強固な鎖にするために」

 

 沈黙ののち、上座の伊藤がゆっくりと重い瞼を開いた。その瞳には、春に横浜沖で面会を果たした日の記憶が、鋭い光とともに宿っている。

 

「軍の青二才どもには、過ぎた玩具だ。局地の(ふか)みで使い潰させるわけにはいかん」

 

 伊藤が低く喉を鳴らす。

 

「極東から見えない(やいば)を突きつけ、世界の覇権の天秤を我が方に傾けるか。……貴様ら瑞長財団の深謀遠慮(しんぼうえんりょ)、恐れ入るわ」

 

 児玉が小さく息を吐き出し、原もまた、額に滲んだ冷や汗を拭うことなく深く頷いた。

 

 雨音に包まれた奥座敷で、沈黙の裡に視線を交わす男たち。局地的な野心に囚われた陸軍を蚊帳の外に置く、見えざる共犯関係が結ばれた夜であった。

 

 

 

 台湾・台北。新城邸の書斎。

 

 南国の生ぬるい夕風が開け放たれた窓から吹き込んでいる。

 

 窓を隔てた貴賓棟からは、皇女たちが奏でる穏やかなピアノの旋律が、秋の虫の音に混じって微かに聞こえていた。凍土での過酷な日々を経て、彼女たちがこの極東の地でようやく取り戻した、温かで柔らかな日常の調べである。

 

 静謐な書斎の扉がノックされ、財団の警備を束ねる阿長が、規律正しい足取りで入室してきた。

 

「康政様。夜分の報告をお許しください」

 

 阿長は隙のない一礼をし、落ち着いた声で口を開いた。

 

「北からの客人たちへの日用品の搬入、および敷地外縁の夜警の配置、すべて滞りなく完了いたしました。港湾部で陸軍の諜報の者が探りを入れているようですが、当邸の周囲は厳重に警護しており、特段の異常はございません」

 

 机上の書類に目を通していた康政は、持っていた万年筆を置き、温和な笑みを浮かべた。

 

「ありがとう、阿長。今日も一日、ご苦労様だったね」

 

「帝都より、康政様宛ての郵便が届いております」

 

 阿長が手にした革製の(ふくろ)から取り出した一通の封筒。差出人には、橘響子の名が記されていた。

 

 康政は封を切り、折り畳まれた便箋を開く。

 

 視線が文字の上を滑る。そこに綴られているのは、単なる旧友への挨拶ではなかった。

 

 紙面に食い込むような強い筆圧、そして便箋の端についた微かな(しわ)。帝都の言論界で息を潜めるように生きる彼女の、閉塞感と魂の痛みが、その乱れたインクの滲みから生々しく伝わってくる。

 

『帝都の新聞社という男たちの社会で、私の書く記事は常に「女の感傷」と一蹴され、紙面の隅へと追いやられています。真実をえぐり出そうとする私の筆は、彼らの古びた矜持(きょうじ)の前に、いとも容易く折られてしまう。時折、ひどく息が詰まります』

 

 文面の後半には、財団が極北の地で成し遂げた偉業の気配を察知し、自らの記者としての魂を救うために見出した一筋の光への渇望が、痛いほどに綴られていた。

 

『私は諦めたくない。康政君、どうか私をその地へ呼んではくれないでしょうか。私の命であるこのペンに、君たちが護り抜いたものを託してほしいのです。あの日誓った通り、私に真実を書かせてください』

 

 康政は便箋を机に置き、窓辺へと歩み寄った。

 

 夕風に運ばれてくるピアノの音色は、どこまでも優しく、そして(はかな)い。

 

 父たちが帝都で進めている対英外交。イギリス王室の良心を深く(えぐ)るには、単に「ニコライ一家は生存している」という事務的な通達だけでは足りない。極寒の地で彼らがいかに過酷な逃避行を強いられ、今この南国でいかに穏やかな安寧(あんねい)を得ているか。その事実を、人々の心を打つ「物語」としてロンドンへ届ける必要がある。

 

 その重い物語を紡ぎ出し、国境を越えて人々の心を動かすことができるのは、あの日、幼いながらも「言葉」で世界を変えると誓った橘響子ただ一人しかいない。

 

 

「……阿長」

 

 

 康政は夜空を見上げたまま、穏やかな声で呼びかけた。

 

「はい」

 

「帝都から、響子さんをこの家へ迎えるための手配をしてください。……彼女の魂を込めた筆が、海を越えて僕たちの道を拓く鍵になるよ」

 

 阿長は一切の疑問を差し挟むことなく、「承知いたしました。至急、手配を進めます」と深く一礼し、音もなく退室していった。

 

 康政は、南天の星々が輝く夜空を見つめながら目を細めた。

 

 遠く離れた帝都の冷たい雨の中で苦闘する幼馴染が、やがてこの南風の吹く地へ降り立つ日を、彼は静かな確信とともに待ちわびていた。

読んで頂きありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ