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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第7章:欧州の火、極東の鉄

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第21話:地中海の悲鳴と、黒鉄の兵站線

 大正六(一九一七)年、二月。

 

 帝都(ていと)・東京の海軍省、その奥深くに位置する会議室には、重苦しい葉巻の煙と、誰の口からも吐き出されない沈黙が立ち込めていた。長机の上には、イギリスから届けられた一通の親電(しんでん)が置かれている。

 

 

『ドイツノ無制限潜水艦作戦ニヨリ、地中海オヨビ大西洋ノ輸送船団壊滅的打撃ヲ受ケツツアリ。同盟ノ情誼(じょうぎ)ニ基ヅキ、早急ナル駆逐艦(くちくかん)隊ノ派遣ヲ要請ス』

 

 

 海軍大臣をはじめとする首脳部にとって、この追加要請を退けるという選択肢は、もはや存在しなかった。先の第一特務艦隊の派遣によって、帝国海軍はすでに地中海への航路を開いている。同盟国からの信頼は、ガリポリの荒波の上で築かれた汗と血の結晶だ。これを裏切ることは、ただの外交問題では済まない。戦後における帝国の立場そのものを根底から揺るがす。

 

「第二特務艦隊を編成し、直ちに地中海のマルタ島へ向かわせる。巡洋艦『明石』を旗艦とし、最新鋭の駆逐艦八隻をもってこれに当たる」

 

 大臣の決定が下された。だが、実務を担う軍務局の幕僚(ばくりょう)たちは、誰一人として喜悦(きえつ)の表情を浮かべてはいない。一人の佐官が、絞り出すような声で海図を指さす。

 

「第一艦隊の派遣により、我が軍の遠洋航行可能な補給船はすでに底を突いております。シンガポールより先、アデンからスエズに至る海路において、新たな艦隊に給炭(きゅうたん)を行える拠点が著しく不足しております」

 

 問題は、第一艦隊の時から一貫して指摘され続けてきた。しかし、その度に場当たり的な手当てで凌いできたつけが、今、回ってきたのである。最前線で雷撃(らいげき)を行う駆逐艦の速力は申し分ない。だが、彼らの腹を満たすのは、燃費の悪い旧式な『石炭(せきたん)』だ。千海里(かいり)を超える荒波を越える間、随伴して石炭や真水を供給し続ける補給船が、帝国海軍には深刻なまでに足りていなかった。

 

 脂汗(あぶらあせ)を流す幕僚たちを前に、首脳部の老将が重い口を開いた。

 

「……台湾の秋山真之(あきやま さねゆき)中将へ暗号電報を打て。財団の総帥に、増援の兵站(へいたん)を要請せよ。既に借りある身とはいえ、問答をしている暇はない」

 

 海軍が、一介の民間組織に再び生命線を託す。それは、自らの足の短さを何度も突きつけられた軍人たちの、苦い現実を受け入れる決断であった。

 

 

 

 台湾・台北。瑞長財団本部、康政の執務室に、乾いた笑い声が響いていた。

 

「またか。一度教えた程度では、どうにも身につかぬらしい」

 

 海軍省から届いた暗号電報を放り投げ、秋山真之は呆れたように肩を揺らした。その表情には、同じ過ちを繰り返す頭の固い連中に対する、諦めにも似た嘲笑(ちょうしょう)が浮かんでいる。

 

「遠洋航行の難しさは、第一艦隊の派遣で十分に思い知ったはずなのですがね」

 

 執務机の向こう側で、康政は温和な笑みを浮かべて紅茶の杯を置いた。

 

「ならば、引き続き我が財団が彼らの足を支えて差し上げましょう。第一艦隊の支援で培った兵站の網を、さらに拡げるだけのことです。艦隊の腹を満たす台湾産の石炭も、乗員の食糧も、真水も、すべて我が方が手配します。第二特務艦隊の背後には、一万トン級の『新城型輸送船』群を随伴(ずいはん)させましょう」

 

 康政の落ち着いた提案に、秋山は面白そうに目を細めた。甘く、そしてもはや手放せぬ毒薬である。財団の無尽蔵の兵站に依存すればするほど、帝国海軍は自らの足で大洋を渡る術を失っていく。

 

「良いだろう。連中に、本物の『実務』というものを見せつけてやれ」

 

 師と教え子は、深い共犯の笑みを交わした。その直後であった。

 

「……ッ」

 

 立ち上がろうとした秋山の動きが、不自然に止まった。右下腹部を押さえ、彼の顔面から急速に血の気が引いていく。額に脂汗が滲み、荒い呼吸とともにそのまま絨毯(じゅうたん)の上へ崩れ落ちた。

 

 

 

 強烈な薬品の匂いと、真っ白な天井。秋山が重い(まぶた)を開けると、そこは台北帝大附属病院の特別病室であった。

 

「気がつかれましたか」

 

 傍らには、白衣姿の白石医師と、穏やかな佇まいの康政が立っていた。

 

「急性蟲垂炎(ちゅうすいえん)でした。手遅れになれば腹膜炎(ふくまくえん)併発(へいはつ)し、間違いなく命を落としていたでしょう。すぐに開腹し、病巣(びょうそう)は切除しました」

 

 白石の淡々とした報告に、秋山は自らの腹部に巻かれた厚い包帯へ視線を落とした。内臓を切り刻まれたはずなのに、熱もなく、死の淵を覗き込んだようなあの凄まじい激痛は嘘のように消え去っている。

 

「白石先生の腕と、ペニシリンの賜物(たまもの)です。感染症の恐れはもうありません」

 

 康政の言葉に、秋山は背筋に冷たいものが走るのを感じた。軍の病院に担ぎ込まれていれば、自分は間違いなく死んでいた。これまで多くの兵士の命を奪ってきた病魔すら、この財団はあっさりとねじ伏せてしまう。戦術家の心に冷たい畏怖(いふ)が過ぎる中、康政は寝台の傍らに座り直し、身内に向ける柔らかな声色で微笑んだ。

 

「早く良くなってください、先生。退院の暁には、先生が大好物のカツカレーが待っていますよ」

 

「ふっ……言うようになったな、康政」

 

 秋山は苦笑し、静かに目を閉じた。冷徹な実務の奥底にある確かな温度。この男に海軍の未来を預けるのも悪くないと、彼は心の中で深く頷いた。

 

 

 

 夜の台湾・基隆(キールン)港は、真昼のような喧騒(けんそう)と光に包まれていた。財団専用の埠頭(ふとう)では、無数の起重機(きじゅうき)が重低音を響かせながら稼働している。岸壁に横付けされているのは、漆黒の塗装が施された一万トン級の『新城型輸送船』群であった。船上に備えられた独自の荷役(にやく)設備が滑らかに動き、広大な船倉(せんそう)へと、基隆の炭田から掘り出されたばかりの台湾産動力炭が滝のように流し込まれていく。帝国海軍の駆逐艦の命綱となる、膨大な量の石炭である。

 

 一方で、輸送船自身の機関部へは、太い耐圧管を通じて『重油(じゅうゆ)』が猛烈な勢いで圧送されていた。石炭を燃やし、黒煙と灰を浴びながら走る古い時代の海軍と、重油を燃焼させ、無煙のまま大洋を駆け抜ける財団の新鋭船。港湾の照明に照らし出された二つの燃料の対比が、極東における技術の主従関係を無言のうちに物語る。

 

 

 

 その兵站の威容(いよう)が物理的に組み上げられていた頃。遠く離れたイギリス・ロンドンのフリート街は、冬の霧を吹き飛ばすような熱狂の渦の中にあった。

 

「号外! 号外だ! 同盟国より、大艦隊出撃!」

 

 新聞売りの少年たちが配り歩く『極東公論』の紙面には、波を切って進む日本の駆逐艦群と、その後ろに従う補給船団の姿が刷り出されていた。雑踏を見下ろす支局の窓辺で、巽慎之介(たつみ しんのすけ)が葉巻の煙を(くゆ)らせる。背後の長椅子(ソファ)では、頭本元貞(ずもと もとさだ)がゆっくりと紅茶の香りを味わっていた。

 

「潜水艦の恐怖に怯える市民にとって、軍艦だけでなく、それを走らせるための補給船団まで連れてきてくれる同盟国は、もはや神の使いに等しい」

 

「ええ。これでイギリス政府は、自国民の世論の(おり)から逃れられなくなりました」

 

 二人の老獪(ろうかい)な実務家の視線の先で、ロンドンの市民たちが紙面を掲げ、歓喜の声を上げていた。

 

 

 

 数日後。シンガポール沖へと至る洋上。軍艦旗を(ひるがえ)して南下してきた帝国海軍の第二特務艦隊の将兵たちは、甲板に整列したまま、呆然と水平線の彼方を見上げていた。合流地点で彼らを待ち受けていたのは、自分たちの乗る駆逐艦を遥かに(しの)ぐ巨体を誇る、一万トン級の漆黒の輸送船群であった。

 

 黒煙をもうもうと吐き出しながら走る海軍の艦艇とは異なり、財団の船団は煙突から一切の黒煙を出さず、不気味なほど滑らかに波を切っている。その巨大な船腹には、艦隊が地中海で戦い抜くための石炭と水、そして弾薬が満載されていた。やがて、軍艦と輸送船群は一つの陣形に溶け合い、海面を覆い尽くすほどの鋼鉄の群れとなる。極東の海軍をすっぽりと包み込んだ巨大な盾は、一隻として陣形を乱すことなく、十五ノットの速力で地中海へと向けて抜錨(ばつびょう)していった。

読んで頂きありがとうございます。

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