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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第7章:欧州の火、極東の鉄

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第20話:熱砂の帰還と、ロンドンの言論城塞

 大正六(一九一七)年、初頭。

 

 冬の海風が吹き抜ける台湾・基隆(キールン)港の岸壁に、長く重い汽笛が響き渡った。接岸作業を進める二万トン級特設病院船『美麗丸(みれいまる)』。中東・バスラの熱砂と泥濘(ぬかるみ)から帰還したその巨大な船体は、かつての眩いばかりの威容(いよう)を失っていた。乾いた砂嵐に削られた外板は生々しく傷つき、潮風に晒された鋼鉄には薄く赤錆が浮いている。過酷な撤退戦の中で、数え切れないほどの命を飲み込み、そして吐き出し続けてきた消耗(しょうもう)の痕跡が、無言のうちに船の来歴を物語る。

 

 舷梯(タラップ)が降ろされ、医療陣が次々と土を踏む。軍服や白衣には、何度洗濯しても落ちない中東の細かい砂が繊維の奥に染み付いていた。誰の頬もこけ、目の下には濃い隈が落ちている。激しい下痢と脱水に苦しむ異国の兵士たちを、灼熱の天幕(てんまく)で救い続けた日々。極限の疲労に足取りを重くしながらも、彼らの顔にはイギリスの兵士を救い抜いたという、確かな誇りが滲んでいた。

 

 出迎えに立った康政と、財団の医療部門を統括する白石医師の前に、医療大隊の医師が歩み寄る。

 

「新城理事。そして白石先生……無事に帰還いたしました」

 

「ご苦労様でした。激しい消耗戦だったようですね」

 

 康政の労いに、医師は深く頷き、次いで悔しそうに唇を噛んだ。

 

「ええ……。我々の持ち込んだ薬で赤痢やコレラの菌は叩けましたが、問題は『脱水』でした。激しい下痢を起こした兵士は、水をいくら飲ませても腸で吸収できず、衰弱していくのです。あれに対抗する手段が、我々にはありませんでした」

 

 現場の悲痛な報告に、康政は静かに目を伏せ、やがて隣の白石へと視線を向けた。

 

「白石先生。人間の体液に近い塩分濃度と、水分の吸収を助ける糖分。これらを最も効率よく人体に吸収させる比率を弾き出し、『飲む点滴』を開発することは可能ですか?」

 

「……塩と糖の配合ですか。理論上は可能ですが、正確な吸収比率の算出と臨床試験には、かなりの時間を要します」

 

「構いません。どれだけ時間と資金をかけてもいい。直ちに研究開発に着手してください」

 

 康政の言葉は静かだが、絶対の命令であった。

 

「わかりました。直接血管に打ち込む無菌の点滴と、飲むだけで体液を補う飲む点滴。これらを早期に実用化させましょう」

 

 医療大隊員に康政は、労いの言葉を過剰に並べることはしなかった。ただ歩み寄り、医療陣の列の先頭に立つ者たちへ向けて深く一度だけ頭を下げる。彼らが流した汗と血の重みは、分厚い報告書の束となってすでに康政の手元に届いている。熱砂の地獄で同盟国の兵士を一人でも多く生還させた事実。それこそが、言葉よりも雄弁な実務の結晶であった。

 

 

 

 美麗丸の帰還からほどなくして、台湾本島に設けられた瑞長財団の工房では、薬品とは違う乾いた匂いが立ち込めていた。蒸し上げられた青竹の匂いと、樹脂の香り。

 

「少し、歩いてみてちょうだい。……足の付け根に、痛みはない?」

 

 アリス・ミラーは、片足を失った若い傷痍軍人(しょういぐんじん)の歩行を支えながら、静かな声で問いかけた。男の失われた脚の先には、金属の代わりに、台湾に自生する強靭な孟宗竹(もうそうちく)を薄く削り、幾重にも積層(せきそう)して作られた真新しい義足(ぎそく)が取り付けられている。

 

「驚きました。以前の木造のものより、ずっと軽く……それに、歩くたびに少しだけ跳ね返るような、妙な柔らかさがあります」

 

「竹の繊維が持つ、自然な弾力よ。これなら、長く歩いても接合部の皮膚が擦り剥けにくいはずだわ」

 

 アリスの傍らでは、父であるサミュエルが細かな(やすり)掛けの手を止め、満足げに頷いていた。男が何度も頭を下げ、涙ぐみながら工房を後にする。その背中を見送りながら、サミュエルは娘の肩にそっと手を置いた。

 

「立派になったな、アリス。お前はもう、ただ傷を塞ぐだけでなく、彼らのその先の人生を造り上げている」

 

「……ええ。パパの技術のおかげよ」

 

 アリスは微かに微笑んだが、すぐにその視線を窓の外、遠い海の方角へと向けた。彼女の瞳に、暗い焦燥の影が落ちる。

 

「でも、失われた手足は竹で補えても、焼かれた肺は二度と元には戻せない。欧州の戦場は今、見えない毒の霧が広がる新しい地獄に変わろうとしているわ」

 

 

 

 その日の午後。工房の裏手に広がる、日差しの強い中庭。穏やかな空気は一変し、肌を刺すような緊張感が場を支配していた。真新しい白衣に身を包んだ若い看護婦の候補生たちが、整然と列をなしている。その前を歩くアリスの顔には、かつて海岸で泣き崩れていた少女の面影はない。

 

「装着!」

 

 アリスの鋭い号令とともに、数十人の少女たちが一斉に、首から下げていた異様な形の袋を頭から被った。視界を覆う丸い硝子玉(ガラスだま)と、口元から伸びる円筒形の濾過缶。台湾の竹を高温で蒸し焼きにした「活性炭」をぎっしりと詰め込んだ、財団独自の新型防毒面(ガスマスク)である。

 

「遅い。敵の毒ガス弾が炸裂(さくれつ)してから、息を止めていられる数字は五つまでよ。髪の毛が少しでも隙間に入れば、そこから死の霧が入り込む。……もう一度!」

 

 防毒面越しに響くアリスの声が中庭に響く。最前線へ向かう次代の医療陣に、一秒でも早く確実な防護手順を叩き込むこと。これから死地へ赴く者を守るための、それが彼女の新たな戦いであった。

 

 

 

 同じ頃。冬の重い霧に包まれた、イギリス・ロンドン。古くからの新聞社や印刷所が(のき)を連ねるフリート街の一角に、ひっそりと、しかし確かな存在感を放つ真新しい看板が掲げられていた。

 

 

『極東公論 ロンドン支局』

 

 

 石造りの建物の前で、数人の新聞売りの少年たちが、刷り上がったばかりの英語の紙面を抱えて霧の街角へと散っていく。紙面を飾っていたのは、粗い網点(あみてん)で刷られた数枚の写真と、翻訳された従軍記者たちの手記だ。灼熱の砂漠で、乾ききったイギリス兵の口元に水筒を当てる東洋人の看護婦。泥濘の海岸で、砲弾の破片を浴びた兵士を担架で運ぶ白亜の船の乗員たち。それは、政府の公式発表では決して知ることのできない、遥か遠い戦線で血を流す「息子たち」の生々しい現実であった。

 

「支局長。今朝の配給分、すでに手持ちが尽きたと売り子から報告が入りました。現地の有力紙の記者たちも、うちの建物の周りをうろついています」

 

 インクの匂いに塗れた局員からの報告に、支局長の巽慎之介は窓辺から霧降る街路を見下ろし、静かに葉巻の煙を吐き出した。

 

「構わん。刷れるだけ刷って、街頭へ流し続けろ」

 

 完璧な仕立ての背広を着こなす巽の背後、部屋の奥の革張り椅子には、初老の紳士が深く腰を下ろしていた。かつて日露戦争において欧米の世論を真っ二つに割り、日本を勝利へと導いた国際情報戦の怪物、頭本元貞である。頭本は手元の紅茶を一口(すす)り、低く(しゃが)れた声で呟いた。

 

「密室で政府の高官たちが何を語ろうと、この国を根底で動かしているのは大衆の感情だ。……巽よ。極東からの献身を、イギリス市民がどう受け止め、いかなる声を上げるのか。その世論の脈動を正確に測れ」

 

「承知しております、頭本先生。……我々の同胞が流した血の対価は、必ずや彼らの心に深く刻み込まれるでしょう」

 

「うむ。ここの足場が固まれば、いずれはアメリカにも拠点を築く。極東の若き総帥が描く盤面は、我々の想像以上に巨大だぞ」

 

 二人の老獪(ろうかい)な実務家の瞳の奥で、霧の都から世界へと広がる言論の網が、静かに編み上げられていた。

 

 

 

 一九一七年、二月。台湾、瑞長財団本部。康政の執務室は、冷ややかな静寂に支配されていた。机の上には、ロンドンから打電(だでん)された一枚の暗号電報が置かれている。

 

 

『ドイツ、無制限潜水艦作戦ヲ宣言。指定航路外ノ全船舶ヲ無警告ニテ撃沈ス』

 

 

「ついに、海が本当の地獄になりますね」

 

 壁際に立つ霧島が、眼鏡の奥の目を細めて呟く。

 

「赤十字の標章(ひょうしょう)も、もはや魚雷の前には的でしかありません。潜航中の潜水艦(Uボート)の速力は、せいぜい八ノット。対して、我が財団の新城型輸送艦と病院船は、巡航(じゅんこう)十五ノットを維持できます。大洋を移動している間は、彼らに追いつかれる道理はありませんが」

 

「ええ。だが、海峡のような狭い海域や、傷病兵を収容するために船足を止めた瞬間……その時こそが、最も無防備な死の隙となります」

 

 康政は海図に視線を落とした。そこには、すでに欧州の地中海方面で稼働を続けている第一船『蓬莱丸』の位置が記されている。

 

「欧州で最も兵士が傷つき、血を流しているのはどこか。それは、フランスの沿岸からイギリス本土へと続く海路……『英仏海峡』です」

 

 康政の指先が、海図の上で最も危険な海域をなぞる。

 

「蓬莱丸には、地中海を抜けて北上し、英仏海峡での負傷兵輸送に当たらせます。同時に、新城型輸送艦を走らせ、財団の技術者たちが作り上げた『竹炭の防毒面』を前線へ急送してください」

 

 それは、ただの機械的な配置転換ではない。潜水艦が牙を剥き、見えない毒ガスが漂う最悪の死地へ、自らの手足とも言える者たちを送り込む決断であった。イギリスとの関係を未来永劫のものとするための、康政の眼差しは揺らぐことのない冷徹な実務家のそれであった。

 

 

 

 数週間後。欧州の海は、鉛色の空と冷たい波に閉ざされていた。地中海を抜け、英仏海峡へと向かう途上、フランス西部の港湾都市ブレストに、蓬莱丸は静かに滑り込んだ。大戦の激震からは幾分か外れたこの古い軍港には、すでに数隻の漆黒の船が先着している。新城型輸送艦だった。インド洋を十五ノットで横断し、蓬莱丸より二日早く到着していたのである。

 

 岸壁ではただちに積み降ろし作業が始まった。輸送艦の艙内(そうない)から降ろされた無数の木箱。台湾の工廠でアリスたちが組み立てに携わった竹炭の防毒面である。同時に、輸送艦の燃料槽からは蓬莱丸への重油補給も並行して行われた。

 

 補給を終えた輸送艦は、短い汽笛を一つ(のこ)して岸壁を離れた。蓬莱丸もまた、舳先(へさき)を英仏海峡へと向ける。高柳少佐は艦橋の窓から、鉛色の海を見据えていた。船には、台湾でアリスたちが訓練を施した看護婦たちが乗りこんでいた。

 

 荒れ狂う冬の海へ、白き巨船は十五ノットの巡航速力で迷いなく進んでいく。極東の島が叩き上げる医療と兵站の力が、暗い欧州の海を静かに切り裂いていった。

読んで頂きありがとうございます。

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