解放
悪霊と対峙する隼人と瑞希、これで解放されるのだろうか?
*** 開いた瞳***
老婆の赤い瞳が、じっと瑞希を捉えていた。
崩れゆく集落の中で、瑞希は足を止めなかった。
「怖くないの」
老婆の声が、初めて瑞希にだけ向けられた。
「怖いわ」
瑞希は正直に答えた。
「でも、あなたを放っておくことはできない」
老婆の姿が、大きく波打つように揺れた。
周囲の家々が、さらに激しく軋み始める。
「隼人君、あの子と一緒に下がってて」
瑞希が振り返らずに言った。
隼人は少女を抱きかかえたまま、後ずさった。
*** 拒絶***
――ワカッタフリヲ、スルナ
老婆の声が怒りに満ちていく。
――オマエニ、ナニガ、ワカル
「分からない」
瑞希は静かに認めた。
「あなたの悲しみの深さは、私には分からない」
「でも――」
瑞希は一歩、また一歩と老婆に近づいていく。
「このまま時間を止め続けても、あなたは救われない」
――ダマレ
老婆の姿が瑞希に向かって大きく広がった。
黒い霧のようなものが瑞希を飲み込もうとする。
「瑞希姉さん……!」
隼人が叫んだ。
***護符***
瑞希は懐から一枚の護符を取り出した。
祖母が最後まで手放さなかったという、古い護符だった。
「これは、あなたを封じるためのものじゃない」
瑞希は護符を静かに掲げた。
「あなたの悲しみを鎮めるためのもの」
護符が淡い光を放ち始める。
その光が老婆を包み込んでいった。
――ヤメロ
――ヤメテクレ
老婆の声に、初めて弱さが滲んだ。
***記憶の中の子ども***
光が、老婆を包み込んだ、その時だった。
老婆自身の中から、いくつもの記憶が、溢れるように蘇り始めた。
雪の降る日、赤子を、懸命に抱きしめる、若い女性の姿。
村人たちから、心無い言葉を、浴びせられる姿。
それでも、最後まで、我が子を、守ろうとする姿。
老婆は、その、記憶の一つ一つを、まるで初めて見るかのように、見つめていた。
――コレハ……ワタシノ……
「思い出したのね」
瑞希が、静かに言った。
そして、光の中で、あの失われた赤子の姿が、もう一度浮かび上がった。
赤子は穏やかに眠っているように見えた。
苦しんでいる様子は、どこにもなかった。
「見て」
瑞希が静かに言った。
「あなたの子は、もう安らかに眠っている」
「あなたが、いつまでもここに囚われていることを望んではいないはずよ」
老婆の姿が震えた。
――ホントウニ……
その声は、もう憎しみではなく、ただの母親の声だった。
――ホントウニ、コノコハ……
「ええ」
瑞希は優しく頷いた。
「安らかよ」
***子どもたちの解放***
その瞬間だった。
囲炉裏を囲んでいた子どもたちの影が、一斉に光を放ち始めた。
薄く透けていたその姿が、次第にはっきりとした輪郭を取り戻していく。
「あれは……」
隼人が息を呑んだ。
子どもたちは一人一人、静かに立ち上がり、まるで長い眠りから覚めたかのように周囲を見渡した。
そして一人ずつ、光の中へと溶けるように消えていった。
「解放されていく……」
隼人が呟いた。
少女も、その光をじっと見つめていた。
***少女の順番***
最後に残ったのは、あの少女だけだった。
「あなたも」
瑞希が少女に向き直った。
「もう行っていいのよ」
少女は隼人の腕の中で、小さく身じろぎした。
――ホントウニ……?
「ええ」
隼人が少女を、そっと地面に下ろした。
「もう独りじゃないって、みんなに伝わったよ」
「君のことは、絶対に忘れない」
少女の輪郭が、柔らかく光を帯び始めた。
――アリガトウ
初めて、はっきりと聞こえた、その一言。
少女は微笑んでいるように見えた。
その、視線の先――。
光の中心で、変わりゆく、老婆の姿を、少女は、じっと見つめていた。
――オカアサン……
少女の、小さな声が、静かに、響いた。
その、声に応えるように、若い女性の姿に戻った、老婆が、少女の方を見て、優しく微笑んだ。
二人の間に、言葉は、それ以上、必要なかった。
少女にとって、その存在は、いつしか、恐怖だけではなく、母親に似た温もりも、持つものになっていたのかもしれない。
***母子***
その時、光の中心で、老婆の姿がゆっくりと変わり始めた。
曲がっていた腰が伸び、しわがれていた顔が、若い女性のものへと戻っていく。
その腕の中には、小さな赤子が、静かに眠っていた。
女性は、赤子をそっと抱きしめると、瑞希へ一度だけ頭を下げた。
「……ありがとう」
その言葉とともに、母子の姿は柔らかな光となり、空へと昇っていった。
隼人はその光景を、ただ静かに見つめていた。
もう、そこに憎しみはなかった。
ただ、一組の母と子が、ようやく安らかに旅立っていく姿だけがあった。
霊とは、ただ恐れるものではない。
そこには、生きていた頃の想いや、届かなかった願いが、今も残っているのだと――。
隼人は、そう、静かに、思った。
***崩壊する集落***
だが、その瞬間――。
集落全体が大きく揺れた。
「まずい……!」
瑞希が叫んだ。
「老婆の力が抜けたことで、この場所自体が崩れ始めてる……!」
「どうすれば……!」
隼人が少女を抱き上げながら叫んだ。
「橋へ戻るのよ……!」
瑞希が隼人の腕を掴んだ。
崩れゆく集落の中を、二人は必死に橋へと駆け出した。
背後で家々が次々と光の中に溶けて消えていく。
だが、足元に広がっていた霧が、まるで、まだ何かを引き止めようとするかのように、二人の足に、静かに絡みついてきた。
「離れないで……!」
瑞希が、隼人の手を、強く握り直した。
消えかけていた、家の一つが、最後に、大きく傾き、二人の頭上に、崩れ落ちようとする。
だが、それも、間もなく、光の粒子となって、静かに、宙へと溶けていった。
激しさよりも、むしろ、静けさを帯びた、崩壊だった。
その光景は恐ろしくもあり、同時にどこか美しくもあった。
*** 橋の上で***
橋のたもとにたどり着いた瞬間だった。
白い霧が再び二人を包み込んだ。
「隼人君、目を閉じて……!」
瑞希の声が聞こえた。
隼人は言われた通り、目を閉じた。
身体がふわりと浮くような感覚があった。
そして――。
次に目を開けた時。
隼人は見慣れた夜の住宅街の橋の上に立っていた。
***日常のなかで***
橋の事件から、一週間が過ぎた。
優花はすっかり元気を取り戻し、春樹も以前のように明るい様子で部室に顔を出すようになっていた。
「今日は材料の追加分、持ってきたぞ」
春樹が木材の切れ端を抱えて部室に入ってくる。
「棚、もう少し増やそうかと思って」
「ありがとう、春樹」
隼人が笑顔で迎えた。
部室にはいつもの穏やかな時間が流れていた。
「あれから、何も変わったことない?」
美優が心配そうに尋ねる。
「ああ、全然」
春樹が頷いた。
「優花も、毎晩ぐっすり眠れてるよ」
*** 瑞希の様子***
放課後、瑞希が部室を訪れた。
「みんな、元気にしてる?」
「はい」
隼人が答える。
「瑞希姉さんは、最近忙しそうですね」
「ちょっとね」
瑞希は少し曖昧に笑った。
夕子がその様子に気づいたように、瑞希を見つめる。
「瑞希さん、何かあったんですか」
「……ううん」
瑞希は首を振った。
「大丈夫」
だが、その声には、どこか隠しきれない疲労の色があった。
*** 気づく者***
隆が瑞希の鞄に目を留めた。
鞄の隙間から、古い地図のようなものが覗いている。
よく見ると、地図の一部には、赤い印がいくつも書き込まれていた。
その中の一箇所だけ、まるで、意図的に、黒く塗りつぶされているようだった。
「瑞希さん、それ……」
瑞希は慌てて鞄を閉じた。
「何でもないわ」
「隠さなくても……」
隼人が心配そうに言う。
「俺たちで、力になれることがあるなら」
瑞希はしばらく隼人を見つめていた。
やがて小さく息を吐く。
「実は……」
瑞希は少し迷った様子で続けた。
「個人的に、調べていることがあるの」
「個人的に……?」
美優が尋ねる。
「昔、師匠から聞いた話に、関係することなの」
瑞希は静かに答えた。
「でも、まだ確かなことは分からなくて」
***頼りにされる***
「瑞希姉さんが、そこまで悩むなんて珍しいですね」
夕子が静かに言う。
「よっぽど、大きなことなんですか」
瑞希は少し間を置いてから頷いた。
「多分ね」
「俺たちも手伝います」
隼人がまっすぐ瑞希を見た。
「今度は、俺たちが瑞希姉さんの力になる番です」
瑞希は少し驚いたように目を見開いた。
それから優しく微笑んだ。
「ありがとう」
瑞希は、何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「でも、今はまだいいの」
「もう少し、私だけで調べてみる」
「本当に危なくなったら、必ずみんなに相談するから」
***見守る五人***
瑞希が部室を後にすると、五人はしばらく無言だった。
「……大丈夫かな」
美優が心配そうに呟く。
「瑞希さんが、そこまで言うんだ」
夕子が静かに続けた。
「相当なことなんでしょうね」
「俺たちに、できることはないのか」
秀が腕を組んで言う。
「今は待つしかないと思う」
隼人が静かに答えた。
「でも――」
隼人は窓の外、夕暮れの空を見つめた。
「もし本当に困った時は、必ず力になろう」
誰も異論はなかった。
窓の外、夕暮れの光が部室を静かに照らしていた。
夕暮れの空を、一羽の黒い鳥が、西へと飛んでいった。
瑞希が見つめていた、あの地図の先にも、同じ空が広がっているのだろうか。
その場所で待つものが何なのか、この時の五人は、まだ知る由もなかった。
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