午後五時、もう一度
隼人たちは、再び病院へ向かう事になった。
***再び、病院へ***
翌日の午後四時。
新霊体験隊の五人と瑞希は、再び坂道を上っていた。
昨日までとは、空気が違っていた。
怖さがないわけではない。
だが、それ以上に、何か果たさなければならないことがある――そんな空気だった。
「みんな、本当にいいの?」
瑞希が、最後にもう一度尋ねた。
「危険かもしれない。」
「行きます。」
隼人が、迷わず答えた。
「瑞希姉さんだけの問題じゃない。俺たちも、あの部屋を見た。あの子を、放っておけない。」
美優も、夕子も、隆も、秀も、それぞれ静かに頷いた。
瑞希は、少しの間、五人の顔を見渡してから、小さく微笑んだ。
「……ありがとう。」
鍵を開ける。
ガチャリ。
昨日と同じ音。
だが、扉を開けた瞬間、院内の空気は、明らかに違っていた。
張り詰めているのに、どこか、待ちわびているような。
そんな気配だった。
***階段を上る***
受付の時計は、相変わらず十時十二分を指したまま止まっている。
「行きましょう。」
瑞希が先頭に立つ。
階段は、昨日と同じように軋んだ。
ギシ、ギシ、と。
だが、今日はもう、誰も振り返らなかった。
二階の廊下は、西日に照らされて、赤く染まっていた。
二〇一、二〇二、二〇三――。
昨日、片付けたばかりの部屋の前を、静かに通り過ぎていく。
東側の廊下、突き当たり。
二〇八号室の扉が、そこにあった。
瑞希は、扉の前で一度、深く息を吸った。
懐から、あの日拾った紙切れと、折り紙の鶴をそっと取り出す。
「持ってきたの。ここに、返しに来たわ。」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
隼人が、腕時計を確認する。
午後四時五十五分。
「そろそろだ。」
全員が、扉の前に並んだ。
二〇八号室、再び
瑞希が、扉に手を掛ける。
ギィ……。
軋んだ音とともに、扉が開いた。
中の様子は、昨日と変わっていなかった。
整えられたベッド。
壁の絵。
耳のちぎれたウサギの人形。
窓辺の椅子には、あの絵本が、まだそこにあった。
瑞希は、部屋の中央に立った。
時計の針が、じりじりと五時へ近づいていく。
「怖くない。」
瑞希は、誰にともなく、あるいは自分自身に、そう言い聞かせるように呟いた。
カチリ。
五時になった。
窓のカーテンが、大きく揺れる。
バサッ――。
空気が、粟立った。
そして、窓辺の椅子に――。
小柄な人影が、ゆっくりと浮かび上がった。
長い髪。
白い服。
俯いていた顔が、初めて、ゆっくりと上がった。
幼い、女の子の顔だった。
悲しそうでも、恐ろしそうでもない。
ただ、じっと、瑞希を見つめていた。
約束
「……ひなちゃん。」
瑞希の口から、その名前がこぼれた。
自分でも、驚いたような声だった。
「思い出した。あなたの名前、陽菜っていうのね。」
少女は、答えなかった。
だが、その目に、かすかな光が宿ったように見えた。
「ごめんなさい。」
瑞希の声が、震える。
「『また来る』って言ったのに、来なかった。ずっと、忘れていた。」
誰も、口を挟まなかった。
夕子でさえ、静かに見守っている。
「あなたが、ここでどれだけ待っていたか、私には分からない。」
瑞希は、一歩、少女に近づいた。
「でも、これだけは伝えたくて――遅くなって、本当にごめんなさい。」
瑞希は、鞄から折り紙の鶴を取り出し、そっと窓辺の椅子に置いた。
「これ、あなたが作ってくれたものよね。ずっと、大切に持ってた気がする。」
少女の輪郭が、わずかに揺らいだ。
まるで、微笑んだように。
窓の外から差し込む夕日が、部屋いっぱいに広がる。
その光の中で、少女の姿は、少しずつ、透けていった。
「もう、待たなくていいのよ。」
瑞希が、静かに言った。
「ありがとう、ずっと待っていてくれて。」
少女の姿が、光の中に溶けていく。
最後に、ほんの一瞬。
少女の唇が、小さく動いたように見えた。
声は聞こえなかった。
だが、隼人には、それが「ありがとう」と言ったように思えた。
やがて、光が収まる。
窓辺の椅子には、もう何もなかった。
十時十二分
部屋の中は、静かだった。
だが、もう、あの重苦しい気配はなかった。
ただの、古い病室だった。
「……終わった、のかしら。」
美優が、小さく呟く。
誰も、すぐには答えられなかった。
瑞希は、しばらく窓の外を見つめていた。
その頬に、涙が伝っていた。
「ありがとう、みんな。」
瑞希は、袖でそっと涙を拭う。
「一人だったら、ここまで来られなかった。」
「俺たちは、新霊体験隊ですから。」
隼人が、少しだけ笑って言った。
「困っている人――それに、困っている霊も、放っておけない。」
その言葉に、瑞希も、ようやく小さく笑った。
一階へ下りると、受付の時計が目に入った。
「あ……。」
隆が、思わず声を上げる。
止まっていたはずの時計の針が、今は、正しい時刻を指して、静かに動いていた。
午後五時十六分。
誰も、何も言わなかった。
ただ、その事実だけが、静かに胸に落ちていった。
エピローグ
一週間後、山崎医院の解体工事が始まった。
重機の音が、坂の上から町へ響く。
その様子を、新霊体験隊の五人と瑞希は、少し離れた場所から見守っていた。
「なんだか、寂しいな。」
秀が、ぽつりと言う。
「そうね。」
美優も、小さく頷いた。
瑞希は、瓦礫になっていく建物を、静かに見つめていた。
その手には、あの折り紙の鶴があった。
解体作業の間、瑞希が現場の人に頼んで、そっと譲り受けたものだった。
「陽菜ちゃん、これからは、ちゃんと私のそばに置いておくわ。」
瑞希は、そう呟いて、鶴をそっと鞄へしまおうとした。
その時だった。
折り紙の中から、小さな紙片が一枚、ひらりと落ちる。
「……あら?」
瑞希が拾い上げると、そこには、子どもの字で、こう書かれていた。
――ありがとう みずきちゃん
瑞希は、はっと顔を上げ、周囲を見渡した。
だが、誰も、それに気づいた様子はなかった。
風が、ふわりと吹き抜ける。
紙片は、瑞希の手を離れ、夏の青空へと舞い上がっていった。
やがて、光の中に溶けるように、見えなくなる。
瑞希は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
そして、静かに、微笑んだ。
夏の日差しが、五人と一人の背中を、あたたかく照らしていた。
坂の上から吹く風が、瑞希の手の中の折り紙の鶴を、そっと揺らす。
その風は、まるで――
「ありがとう。」
そんな声が、夏風に溶けていったような気がした。
それ以来、午後五時になっても、山崎医院で不思議な出来事が起こることは、二度となかった。
新霊体験隊の、廃病院編は、こうして幕を閉じた。
◆
だが――。
部室に戻った隼人のスマートフォンに、また新しい着信が入るのは、それから、そう遠くない日のことだった。
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