約束
廃病院の謎は、深まって行く様だった。
***日記の切れ端***
病院を出た五人は、そのまま近くの公園のベンチに座り込んだ。
誰も、しばらく口を開かなかった。
夕暮れの空に、蝉の声だけが遠く響いている。
「……これ。」
瑞希が、鞄から先ほどの紙切れをそっと取り出した。
黄ばんだ紙は、端がひどく破れている。
隆がライトを近づけると、かすれたインクの文字が、少しだけ浮かび上がった。
「読める……のか?」
秀が覗き込む。
夕子が慎重に紙を受け取り、目を細めた。
「所々しか読めないわ。」
小さく息を吸って、続ける。
「……『午後五時』。」
全員の背筋が伸びた。
「『二〇八号室』。」
夕子は文字を追いながら、ゆっくりと読み上げていく。
「そして……『約束』。」
その一言で、ベンチの空気が変わった。
「約束……って、誰との?」
美優が呟く。
「名前の部分は、破れて読めない。」
夕子は紙を裏返した。
「誰かが、わざと破ったみたいに。」
瑞希は、その紙をじっと見つめていた。
何かを言いかけて、やめる。
その繰り返しだった。
「瑞希姉さん。」
隼人が声を掛けた。
「何か、知ってるんじゃないですか。」
瑞希は少しの間、黙っていた。
「……分からない。」
やがて、そう答えた。
「でも、この文字を見て、胸がざわつくの。まるで、知っているはずのことを、忘れているみたいに。」
それ以上、瑞希は何も語らなかった。
***元看護師***
翌日、隼人たちは学校が終わると、瑞希の車で町の外れにある老人ホームへ向かった。
「山崎医院で働いていた看護師さんが、今はここにいるそうよ。」
瑞希がそう説明した。
「昨日のうちに、依頼主から連絡先を教えてもらったの。」
施設のロビーで待っていたのは、白髪の小柄な女性だった。
「山崎医院の話、ですか。」
女性――田中と名乗った元看護師は、懐かしそうに目を細めた。
「もう、四十年近く前になりますかね。」
「当時のことを、少し伺いたくて。」
瑞希が丁寧に頭を下げる。
田中は、しばらく窓の外を眺めていた。
「あの病院には、長く入院していた女の子がいましてね。」
その一言に、全員が息を詰めた。
「体が弱くて、ほとんど病室から出られない子でした。でも、明るい子でね。折り紙が得意で。」
美優が思わず、隣の隆と目を見合わせた。
「その子は……。」
隼人が尋ねかけたところで、田中は静かに首を振った。
「ある時期から、急に記録が途絶えているんです。」
「途絶える?」
「カルテも、日誌も。まるで、その子が最初からいなかったみたいに。」
田中の声が、わずかに低くなった。
「私たちも、聞いてはいけない気がして、誰も聞かなかった。院長先生も、その話になると、いつも口を閉ざしていましたから。」
「その子の、名前は……。」
隼人が尋ねる。
田中は、少し考えるように目を伏せた。
「たしか……。」
その名前が、田中の口から告げられた瞬間だった。
瑞希の反応
隣に座っていた瑞希の肩が、はっきりと震えた。
誰の目にも分かるほどに。
「瑞希姉さん?」
隼人が驚いて声を掛ける。
瑞希は、田中の言葉を、もう一度確かめるように聞き返した。
「……今、何と?」
田中がもう一度、同じ名前を口にする。
瑞希の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「瑞希さん、大丈夫ですか。」
美優が心配そうに手を伸ばす。
「……大丈夫。」
瑞希は、その手を軽く握り返した。
だが、声はわずかに掠れていた。
「知って、いるんですか。」
夕子が、静かに、しかしはっきりと尋ねた。
瑞希は、しばらく答えなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……分からない。」
それだけを、繰り返した。
「でも、その名前を聞いた瞬間、頭の奥で、何かが動いた気がしたの。」
誰も、それ以上、瑞希を問い詰めることができなかった。
田中は、そんな五人の様子を、不思議そうに見ていた。
「何か、心当たりでも?」
「……いいえ。」
瑞希は、静かに首を振った。
その横顔は、いつもの彼女とは、どこか違って見えた。
古い写真
老人ホームからの帰り道、車の中は静かだった。
瑞希は、ハンドルを握りながら、ずっと何かを考えているようだった。
「瑞希姉さん、家まで送っていくよ。」
隼人がそう申し出ると、瑞希は少しだけ迷ってから頷いた。
「……少しだけ、寄っていってくれる?」
瑞希の部屋は、いつも通り整然としていた。
だが、彼女は迷わず、本棚の奥から一冊の古いアルバムを取り出した。
「これ、私が子どもの頃のものなの。」
瑞希は、震える指でページをめくっていく。
やがて、その手が止まった。
一枚の写真。
幼い頃の瑞希と、その隣に、もう一人。
長い髪の、小さな女の子が写っていた。
顔ははっきりしないが、笑っているように見える。
「……この子。」
美優が、思わず声を漏らした。
その姿は、あの窓辺で見た人影と、どこか重なって見えた。
「誰なの、この子は。」
隼人が尋ねる。
瑞希は、写真を見つめたまま、長い間、何も答えなかった。
やがて、絞り出すように言った。
「……思い出せないの。」
「思い出せない?」
「でも、この子のことを、私はきっと知っている。」
瑞希は、写真をそっと胸に抱いた。
「忘れているだけで、確かに知っている気がするの。」
窓の外では、いつの間にか日が沈みかけていた。
部屋の隅の時計が、静かに時を刻んでいる。
その針が、まもなく午後五時を指そうとしていた。
「これ……。」
隼人が覗き込む。
瑞希は、その写真から目を離せずにいなかった。
部屋の中の空気が、わずかに冷たくなった気がした。
窓のカーテンが、風もないのに揺れる。
バサッ――。
昨日、二〇八号室で見たのと、同じ揺れ方だった。
「みんな、下がって。」
夕子が短く言い、全員をドアの方へ促す。
だが、それ以上、何も起こらなかった。
カーテンは、すぐに静かになる。
部屋には、いつもの穏やかな夕方の光が戻っていた。
「……今の。」
美優が、掠れた声で言う。
「病院の外でも、起こるのね。」
瑞希は、写真を握りしめたまま、動けずにいた。
「私、思い出したくないことを、忘れているんだと思う。」
その声は、今にも消え入りそうだった。
「でも、思い出さなきゃいけない気がする。あの子のために。」
図書館にて
翌日の放課後、隼人たちは町の図書館へ向かった。
「山崎医院について、古い新聞記事が残っているかもしれない。」
夕子の提案だった。
郷土資料のコーナーで、隆と夕子が古い縮刷版をめくっていく。
埃っぽい紙の匂いが、狭い書庫に満ちていた。
「あった。」
隆の声に、全員が集まる。
三十年以上前の地方紙の片隅に、小さな記事があった。
山崎医院、入院患者の女児、行方不明――。
「行方不明……?」
美優が声を落とす。
記事は短く、詳しいことはほとんど書かれていなかった。
夜間、目を離した隙にいなくなった、とだけある。
その後の続報は、探しても見つからなかった。
「見つかった、っていう記事もない。」
隆が首を振る。
「じゃあ……。」
秀が言葉を濁す。
誰も、その先を口にしなかった。
夕子が、別の縮刷版を手に取る。
「この年の少し後に、山崎医院は診療を縮小しているわ。」
「関係あるのかしら。」
美優が呟いた。
「分からない。でも、無関係とも思えない。」
夕子は、静かにページを閉じた。
断片
その夜、隼人のスマートフォンに、瑞希から着信があった。
「もしもし。」
『隼人君……。』
瑞希の声は、いつもと違っていた。
どこか、遠くを見ているような響きがあった。
『さっき、少しだけ思い出したの。』
「何を?」
『昔、私、あの病院に行ったことがある。子どもの頃。』
隼人は息を呑んだ。
『多分、親戚か誰かのお見舞いで。よく覚えていないけれど……そこで、あの子と遊んだ記憶がある。』
「その子と、何を話したか、覚えてますか。」
『……約束をしたの。』
瑞希の声が、震えていた。
『「また来る」って。指切りをした気がする。』
「それで……。」
『でも、私、それきり行かなかった。多分、引っ越して、忘れてしまったんだと思う。』
電話の向こうで、瑞希が小さく息を吐く音がした。
『あの子は、ずっと待っていたのかもしれない。私が、戻ってくるのを。』
隼人は、しばらく言葉が出なかった。
「瑞希姉さんのせいじゃない。」
やっと、それだけを言った。
『……そうだといいけど。』
瑞希の声には、自分を責めるような響きが滲んでいた。
『でも、もしそうなら、私が、あの子にちゃんと会いに行かなきゃいけない気がする。』
「五時に、ですか。」
『ええ。』
瑞希は、静かに、しかしはっきりと言った。
『明日、もう一度、病院へ行くわ。今度は、私一人で。』
一人では行かせない
「駄目です。」
隼人は、思わず声を強めた。
「一人で行かせるわけにはいかない。」
『でも……。』
「瑞希姉さんが言ったんです。危険だと判断したら、すぐに中止するって。」
隼人は、スマートフォンを強く握った。
「それに、俺たちは新霊体験隊です。仲間が危ないところへ、一人で行かせるわけにはいかない。」
電話の向こうで、瑞希が小さく笑ったような気配がした。
『……ありがとう。』
その声は、少しだけ、いつもの瑞希に戻っていた。
『分かったわ。明日、みんなで行きましょう。』
「はい。」
『午後五時に――あの子に、ちゃんと会いに行く。』
電話が切れた後も、隼人はしばらくスマートフォンを見つめていた。
窓の外には、静かな夜が広がっている。
だが、その静けさの奥に、何かが待っているような気がしてならなかった。
明日の午後五時。
新霊体験隊は、もう一度、あの廃病院の扉を開けることになる。
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