二日目の作業
翌日は、病棟の二階の片付けを行う事になっており、メンバーたちが集合していた。
***二日目の朝***
翌朝も、空は雲一つなく晴れ渡っていた。
学校の前に集まった五人の顔には、昨日までとは違う緊張があった。
「よく眠れた?」
隼人が尋ねると、秀は苦笑いを浮かべた。
「あんまり。」
「私も。」
美優が小さく頷く。
「昨日のこと、考えちゃって。」
誰も、あの人影のことを口にはしなかった。
だが、全員がそれを見ていた。
瑞希だけが、いつもと変わらない様子で笑った。
「今日で片付けは最後よ。二階を終わらせれば、明日から解体に入れる。」
「二階、か。」
隆が呟く。
昨日、搬出業者の男が残した言葉が、全員の頭に残っていた。
――二階の東側だけは、近づかない方がいい。
――時計だけは見ておけ。五時を回ったら、この病院は別の顔になる。
「大丈夫。」
瑞希は全員を見渡した。
「今日は、五時になる前に作業を終わらせるわ。」
その言葉に、少しだけ空気が緩んだ。
「よし、行こう。」
隼人の声に、全員が歩き出した。
***二階へ***
病院に着くと、瑞希が鍵を開ける。
昨日と同じ、錆びついた音。
だが、扉を開けた瞬間の空気は、昨日とは明らかに違っていた。
「……重いな。」
秀が呟く。
夕子も足を止めた。
「昨日より、はっきりしてる。」
瑞希は静かに院内を見渡す。
受付の壁時計は、相変わらず十時十二分を指したまま動かない。
「私も一緒に二階へ行くわ。」
瑞希がそう言った。
階段は木製で、上るたびに軋んだ音を立てた。
ギシ、ギシ、と。
まるで誰かが後ろをついてくるような錯覚に、美優は何度も振り返った。
だが、そこには誰もいない。
二階に上がると、細い廊下が奥へと続いていた。
窓から差し込む光は弱く、廊下の先は薄闇に沈んでいる。
病室の扉が、左右に等間隔で並んでいた。
どの扉にも、色あせたプレートが掛かっている。
二〇一、二〇二、二〇三――。
「西側から片付けよう。」
隼人が言った。
誰も異論はなかった。
カルテの名前
西側の病室は、拍子抜けするほど普通だった。
ベッド、ロッカー、点滴スタンド。
どれも埃をかぶっているだけで、それ以上のものは何もない。
「意外と、何もないな。」
秀が肩の力を抜く。
「油断しないで。」
夕子が短く言った。
作業は順調に進んだ。
二〇一、二〇二、二〇三――と、部屋を一つずつ空にしていく。
三部屋目を終えて廊下へ出たとき、隆がふと足を止めた。
「……あれ。」
「どうした?」
「さっき、あのスリッパ、あそこに無かったよな。」
廊下の壁際に、片方だけのスリッパが揃えて置かれていた。
誰も気づかないうちに、そこにあった。
「俺が動かしたんじゃないか?」
秀が首を傾げる。
「いや、私も見たけど、さっきは無かった。」
美優が小さく首を振った。
誰も、それ以上その話を続けなかった。
だが、その後の作業は、少しだけ言葉数が減った。
隆がカメラを構えながら、資料整理用の書類棚を開けたときだった。
「……あれ?」
隆の声に、全員が手を止める。
「どうした?」
隼人が近づく。
棚の中には、色あせたカルテが束になって残されていた。
どれも十年以上前の日付だ。
だが、その中の一枚だけが、他より新しく見えた。
紙も、インクも、まるで最近書かれたばかりのように。
「これ……。」
美優が覗き込む。
名前の欄には、一人の患者の名前が記されていた。
だが、隼人がそれを読み上げようとした瞬間、
「見なくていいわ。」
瑞希が静かに、しかしはっきりと言った。
「瑞希姉さん?」
「今は、まだ。」
瑞希はそのカルテを、そっと棚の奥へ戻した。
「あとで、必ず説明する。今は片付けを進めましょう。」
その口調には、有無を言わせない響きがあった。
隼人は頷き、それ以上何も聞かなかった。
だが、美優だけは、一瞬見えた名前の文字を、頭の中で反芻していた。
――女の子の名前だった。
***迫る五時***
東側へ差し掛かったのは、午後三時を過ぎた頃だった。
廊下の空気が、一段と冷たく感じられる。
「気のせいかしら。」
美優が腕をさすった。
「気のせいじゃない。」
夕子が短く答える。
「気温は変わっていないもの。」
誰も、それ以上言葉を続けなかった。
東側の廊下の突き当たりに、一つだけ扉が閉ざされた病室があった。
プレートには「二〇八」と書かれている。
他の部屋と、何も変わらないはずだった。
だが、その扉の前に立つと、誰もが自然と足を止めた。
「ここは、後にしよう。」
隼人が言った。
誰も反対しなかった。
東側の他の病室を先に片付けていく。
作業をしながらも、全員の意識はどこかで、あの閉ざされた扉に向いていた。
時計は、確実に進んでいく。
午後四時。
午後四時半。
「あと少しだ。」
隼人が腕時計を確認する。
「二〇八だけ残ってる。」
隆がメモを見ながら言った。
瑞希が扉の前に立つ。
しばらく、目を閉じたまま動かなかった。
やがて、ゆっくりと目を開ける。
「……この部屋だけ、違う。」
「違う?」
「他の部屋には、何もなかった。埃と時間だけ。」
瑞希は扉を見つめたまま続けた。
「でも、ここには――誰かがいる。」
全員の背筋が、同時に伸びた。
瑞希は、そこで一瞬、言葉を失った。
いつも冷静な彼女らしくない沈黙だった。
「危ないなら、無理しなくていい。」
隼人が言う。
瑞希は小さく首を振った。
「大丈夫。まだ、敵意は感じない。」
それだけ言うと、瑞希はドアノブに手を掛けた。
***二〇八号室***
ギィ……。
軋んだ音を立てて、扉が開く。
中は、他の病室と同じはずだった。
ベッド、ロッカー、窓辺の小さな椅子。
だが、決定的に違う点がいくつもあった。
ベッドの上に、白いシーツがきれいに整えられていたのだ。
十年以上、誰も足を踏み入れていないはずの部屋で。
「……誰かが、使ってる?」
秀の声が掠れた。
枕元の壁には、クレヨンで描かれたらしい絵が一枚、色あせながらも貼られていた。
太陽と、家と、手をつないだ二つの人影。
誰が描いたのかは、分からない。
ベッドの脇には、片方だけ耳のちぎれたウサギの人形が、行儀よく座らされていた。
その傍らに、色あせた折り紙が一枚、そっと置かれていた。
不器用な手つきで折られた、鶴のようなもの。
壁のカレンダーは、ある月のある一日にだけ、赤い丸がついたまま止まっている。
その先のページは、めくられた形跡すらなかった。
窓辺の椅子には、色あせた絵本が一冊、置かれていた。
隆が震える手でシャッターを切る。
その時だった。
部屋の奥、窓の外から、夕日が差し込んだ。
壁に掛けられた時計の針が、五時を指した。
カチリ。
乾いた音が、やけに大きく響いた。
瞬間、部屋の空気が変わった。
窓のカーテンが、風もないのに大きく揺れる。
バサッ――。
全員が息を呑んだ。
そして、椅子の上に置かれていたはずの絵本が、ひとりでにページをめくり始めた。
ぱらり、ぱらり、と。
瑞希は、その光景から目を離せずにいた。
恐怖ではない、何か別の表情だった。
まるで、痛みをこらえるような。
「――逃げて!」
瑞希が叫んだ。
その声は、誰かを威嚇するようなものではなかった。
むしろ、悲鳴に近かった。
その声で、全員が我に返る。
隼人が真っ先に美優の腕を掴んだ。
隆はカメラを抱えたまま、扉へ向かって走る。
秀は転びそうになりながらも、廊下へ飛び出した。
夕子だけが、一瞬だけ振り返った。
窓辺の椅子――。
そこに、誰かが座っていた。
小柄な、白い服の人影。
長い髪が、夕日を受けて赤く揺れている。
その顔は、俯いたまま見えない。
だが、たしかにこちらを見ていた。
「夕子!」
隼人の声に、夕子は弾かれたように駆け出した。
背後で、扉が独りでに閉まる音がした。
バタン。
廊下に飛び出した五人は、そのまま階段を駆け下りた。
息を切らしながら玄関を出ると、外はまだ、夕暮れの明るさが残っていた。
誰もが、しばらく声を出せなかった。
やがて、秀がへたり込むように座り込む。
「……今の、何だよ。」
誰も答えられなかった。
瑞希だけが、青ざめた顔で病院を振り返っていた。
「……見えたわ、はっきりと。」
絞り出すような声だった。
「あの子、まだ、ここにいる。」
瑞希は俯いたまま、しばらく黙っていた。
やがて、独り言のように呟く。
「……怖がらせようとしたんじゃない、気がする。」
「え?」
隼人が聞き返す。
瑞希は答えなかった。
ただ、自分の手のひらを、じっと見つめていた。
二〇八号室から駆け出す間際、床に落ちていた古びた紙切れを、無意識に拾っていたのだ。
日記の切れ端のような、黄ばんだ紙。
文字はかすれて、今はまだほとんど読めない。
瑞希は、それをそっと鞄にしまった。
病院の二階、東側の窓――。
カーテンの隙間から、小さな影がこちらを見下ろしていた。
隼人たちではない。
その影は、ただ一人、瑞希だけを見ていた。
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