第二章:蕾の綻び
その日の夜は、季節外れのひどい土砂降りだった。
アスファルトを打ち付ける激しい雨音が、街の喧騒をすべてかき消している。時計の針が午後九時を回り、『Les Racines』の看板の灯りを落とそうと咲がドアに手をかけた時だった。
カラン、と力ないドアベルの音が響き、濡れそぼった人影が店内に滑り込んできた。
「……上北、さん?」
咲の目が見開かれる。そこに立っていたのは、いつも完璧な余裕を纏っているはずの上北周だった。
仕立ての良いネイビーのスーツは雨水を吸って重く沈み、綺麗にセットされていたはずの髪は額に張り付いている。血の気の引いた青白い顔と、荒い呼吸。仕事で何か致命的なトラブルがあったことは、その疲弊しきった姿を見れば一目でわかった。
「……すまない、咲くん。少しだけ、雨宿りをさせてくれないか……タクシーも捕まらなくて」
自嘲するように笑う周の唇は、寒さで微かに震えていた。
その瞬間、咲の胸の奥で、ずっと飼い慣らしてきた仄暗い獣が「カチリ」と音を立てて檻を破った。
(ああ……今のこの人は、ひどく無防備で、脆い)
「……こんなに濡れて。風邪を引いてしまいますよ」
咲は努めて穏やかな声を出しながら、店の奥にあるプライベートスペース――湿度と温度が徹底管理された『温室』へと周を誘導した。むせ返るような蘭と湿った土の匂いが満ちるその空間に、雨に濡れた周の冷たい気配が混ざり合う。
「タオルです。……それに、温かい紅茶を淹れました」
「ありがとう……本当に、情けないところを見せたね」
パイプ椅子に腰掛け、受け取ったタオルで髪を拭う周。マグカップを両手で包み込むその指先は、まだ微かに震えている。咲は周の正面に立ち、見下ろすようにその姿をじっと観察した。
普段、部下たちを完璧に統率しているエリートの彼が、今、自分のテリトリーで濡れた子犬のように震えている。その事実が、咲の独占欲と支配欲をぞっとするほど甘く満たしていく。
「上北さん。……拭き残しがありますよ」
咲は手を伸ばし、周の頬に張り付いていた濡れた前髪を、指先でそっとすくい上げた。
「あっ……」
周が短く息を呑む。
咲の指先はそのまま周の頬をなぞり、雨水で冷え切った首筋へと滑り落ちた。ただの親切な花屋の青年なら絶対に行わない、ひどくねっとりとした、熱を孕んだ触れ方。
「咲、くん……?」
戸惑うように見上げてくる周の瞳に、咲はふっと、今まで見せたことのない仄暗くオスめいた笑みを浮かべた。
「上北さんはいつも、一人で完璧に咲き誇ろうとする。……でも、雨に打たれて今にも折れそうな姿も、ひどく綺麗ですね」
「な……何を、言って……」
その言葉に含まれた明らかな『熱』と『執着』に気付き、周の背筋にゾクッと悪寒に似た甘い痺れが走った。
立ち上がろうとした周の肩を、咲の大きな両手が上から力強く押さえ込む。
逃げ場のない温室の中。
土と花の匂いに混じって、年下の青年の雄としての気配が、周のパーソナルスペースを完全に侵食し始めていた。




