第一章:静かなる水やり
オフィス街の喧騒から少し外れた路地裏。アンティークのランプがぼんやりと灯る小さな花屋『Rose (ローズ)』には、いつも湿った土と青葉の、むせ返るような命の匂いが満ちている。
「こんばんは。今日は……そうだな、白いトルコキキョウを」
金曜日の午後八時。ドアベルの澄んだ音とともに現れたその声に、朝倉 咲の手元が微かに止まった。
上北 周。
近くのITコンサルティングファームで役員を務める彼は、毎週必ずこの時間にやってきては、週末を彩るための花を一輪だけ買っていく。
仕立ての良いネイビーのスーツ、完璧にセットされた髪。洗練された所作と、大人の余裕を感じさせる涼やかな微笑み。すべてを完璧にコントロール下においているようなその姿は、この泥臭い花屋にはひどく不釣り合いで、だからこそ酷く目を惹いた。
「かしこまりました。……少しお待ちを」
咲は感情の読めない静かな顔を作り、トルコキキョウの並ぶバケツへと歩み寄った。
『清々しい美しさ』という花言葉を持つその花は、確かに周によく似合っている。しかし、咲の胸の奥でドロドロと煮詰まっている感情は、そんな美しい言葉とは程遠かった。
(……この人は、いつも隙がない)
茎を切り揃え、薄紙で丁寧に包みながら、咲は伏せた目線の先で周の指先を盗み見た。
高級な時計が巻かれた手首。書類を捲り、部下を動かすための知的な手。あの手が自分の熱に触れて、焦燥に震える姿を見たい。余裕に満ちたその仮面を剥ぎ取り、自分だけの熱でめちゃくちゃに溶かしてしまいたい――。
「咲くん? どうかした?」
不意に名前を呼ばれ、咲はハッと顔を上げた。
カウンター越しに見下ろしてくる周の瞳は、年下の花屋の青年を慈しむような、どこまでも余裕のある優しい色をしていた。それがひどく、咲の執着を煽る。
「……いえ。今日は少し、お疲れのようでしたので」
咲が静かにそう告げると、周は僅かに目を見開き、ふっと自嘲するように笑った。
「ばれたか。……君はよく見ているね。今日は少し、手強い案件があってね。でも、ここで花を見ると癒されるんだ」
無防備に向けられたその甘い隙を、咲は絶対に見逃さなかった。
「上北さん」
包み終えたトルコキキョウを渡すふりをして、咲の指先が、周の冷たい指に意図的に触れた。
ビクッと、周の肩が小さく跳ねる。
「花には、水が必要です。……枯れてしまう前に、俺が潤してあげましょうか」
詩的な言葉の裏に隠された、隠しきれない熱情。
咲の真っ直ぐで仄暗い瞳に見つめられ、周の顔から一瞬だけ、あの完璧な大人の余裕が抜け落ちた。




