浦崎リグレット
「……よし、行き先はこれで決めよう。」
そう言って帰宅部探偵・帰野玖郎は、どこからともなく取り出したダーツと福山市の地図を、放課後の黒板に広げた。
「ダーツで……?」
助手・山口が戸惑い気味に呟く。
「明日は大切な日だからな。しおりの誕生日だ」
「え、なにその決め方。普通もっと計画するやろ?」
福山しおりは呆れたように言いながらも、どこか楽しそうに笑った。
「ダーツは人生の縮図だ。偶然は必然を呼ぶ」
「はいはい。まあ誕生日やし、どこでも楽しめればええんよ」
軽口が交わされたあと、玖郎は一度だけ息を吐き、ダーツを投げた。
放たれた矢は、黒板の地図の上を一直線に走り──
『浦崎行きのバス停』に突き刺さる。
一瞬の沈黙のあと、しおりがぱっと顔を輝かせた。
「まさかの浦崎!私、ここ行きたかったんよね!思い入れがある場所なんよ!」
「そうなのか?」
玖郎が少し興味を示す。
「どんな場所なんだ?」
しおりは嬉しそうに頷いた。
「懐かしいわ。子供の頃にやっとったゲームなんじゃけど、『風の後悔』っていう作品の舞台なんよ」
「それ、どんなゲームなんだ?」
玖郎が首をかしげる。
しおりは少しだけ言葉を選ぶようにして続けた。
「なんというか……音だけのゲームなんよ」
「音だけ……?」山口が小さく呟く。
「絵のないゲームじゃね。目に見えるものだけを信じとったらダメなんよ。そういうの捨てたときに、このゲームの良さがわかるけぇね」
「なるほど……?」
玖郎は腕を組んだまま、少しだけ考える顔になる。
「小学校の頃の初恋とか、今思うとセピア色に見えるじゃろ? そういう感じなんよ、このゲームは」
「それが浦崎とどう繋がるんだ?」
玖郎の問いに、しおりは即答するように笑った。
「いいかい、玖郎君。行けばわかる……はず。とりあえず予習しときんさい」
「うむ……興味はあるな。ただ浦崎は不便な場所だな。車がないと厳しそうだ」
そのとき、山口が何でもないように口を開いた。
「あの、浦崎……親戚の別荘があります。自転車も用意できると思いますよ」
一瞬、空気が止まる。
「……え、それ先に言えや!!」
しおりのツッコミが、放課後の教室にきれいに響いた。
玖郎は一拍遅れて、静かに目を細める。
「ふむ……これもまた、必然か」
「絶対偶然じゃけぇそれ!」
こうして、帰宅部の誕生日旅行は、浦崎行きに決まった。
「いや〜、ええとこじゃね、浦崎。この空気、この海、この海岸……海沿いの町って、なんかインスパイアされるものがあるな」
バスに揺られながら、やがて三人は浦崎の町に降り立つ。
潮の匂いが、最初に迎えた。
まず向かったのは山口の親戚の別荘だった。そこで自転車を借りることになる。
「親戚の家、勝手に使ってええん?」
しおりが聞くと、山口はいつもの調子で頷く。
「はい。昨日連絡したら“どうぞどうぞ”って。自転車も使っていいって言われてます」
「ほー、それは助かる!」
玖郎はサドルにまたがり、軽くペダルを踏んだ。
「運命が俺たちに、浦崎を駆けろと言っている」
「いや、普通に許可出とるだけじゃろ」
しおりが呆れながらも笑う。
潮風の中で、自転車のチェーンが小さく鳴った。
「浮いた交通費で、しおりの誕生日プレゼント探すか」
玖郎が何気なく言う。
「……あ、ええやん」
しおりは一瞬だけ目を丸くして、それから照れを隠すように前へ出た。
「じゃあ、さっさと行くで!」
軽くペダルを踏み込むと、海沿いの風の中へと走り出す。
三人の影が、浦崎の道にゆっくりと伸びていった。
「この先、スーパーとかコンビニないんで、今のうちに飲み物とか買っておきましょう」
海沿いの町に、ぽつんと一軒だけある小さなスーパーに立ち寄る。
この店が、きっとこの辺りの生活の中心なのだろう。
海が近づくと、景色は一気に変わる。
海の中に立つ赤い鳥居。
規則的に並ぶ常夜灯。
細く伸びる海沿いの道。
浦崎の潮風は思っていたよりも柔らかく、遠くでは造船所が低い音を立てながら静かに稼働している。
「この海に立っとる赤い鳥居、宮島のやつと同じ感じじゃね。地元にもこういうのあるんじゃろうな」
玖郎は自転車を走らせながら、ふと海の方を指さした。
「……あの造船所。たぶん裏では極秘の巨大船を作っている」
「いや、どう見ても普通の造船所じゃけ!」
しおりの即答に、玖郎は一切ひるまない。
「油断するな。静かな町ほど、情報は隠される」
「もう推理始めとるし……」
その横で山口は、風に目を細めながら黙々とペダルを踏んでいた。
時折、ふっと思い出したように呟く。
「ここ……昔、親戚に連れられて来たことあるかもしれません…」
誰にともなく落とされたその言葉は、潮風に混ざってすぐに消えていった。
玖郎は細い路地へと入り込み、ふと足を止めた。
「この道は……異世界への入り口かもしれん」
「ただの生活道路じゃろ!」
間髪入れず、しおりに引き戻される。
浦崎の海は、驚くほど静かだった。
潮の香りはやわらかく、海岸沿いには常夜灯がぽつりぽつりと並んでいる。
「……おー、ええ雰囲気じゃな」
しおりはペットボトルを片手に、港町を見渡した。
その少し後ろで、山口はスーパーで買ったアイスを嬉しそうに食べている。
それぞれが、それぞれの速度でこの場所を受け取っていた。
そんな中、玖郎がふいに足を止め、海沿いの常夜灯を指さした。
「なあ、しおり、山口……あの常夜灯、なんであんなに点在しとると思う?」
「へ? そりゃ船が夜でも帰ってこれるように――」
「違う」
即座に否定する。
玖郎の目が真剣になる。
「あれは異世界の入り口だ」
「出たー!」
しおりは思わず吹き出すが、玖郎は一切ブレない。
「よく見ろ。浦崎には必要以上に常夜灯がある。どこまでも続くように配置されとる。まるで“異世界への道しるべ”だ」
「たまたま漁港が多いだけじゃろ!」
しおりのツッコミが、潮風の中にきれいに溶けていった。
「いや、常夜灯の配置が不自然だ。途中だけ間隔が狭くなっている。つまり……あそこに“ゲート”がある」
玖郎が言い切った瞬間、山口の目が少しだけ輝いた。
「異世界……行ってみたいです!」
「だろう? よし、探検に行こう」
玖郎は当然のように自転車にまたがる。
しおりは深いため息をひとつ吐いてから、諦めたようにペダルを踏んだ。
「しょうがないのう……付き合ったるわ」
海沿いの道を離れ、常夜灯を左に折れると、少しずつ山の方へと入っていく。
潮風はわずかに冷たくなるが、不思議とペダルは軽い。
「しおり、恐れてはならん」
「いや別に怖くないけど。玖郎が勝手に盛り上がっとるだけじゃけ」
「ここから先、常夜灯の間隔が一気に狭くなる……見ろ、やはり」
玖郎が指さした先では、確かに灯りと灯りの距離がわずかに詰まっている。
「これが“入り口”だ」
「いやいや、ただの港の曲がり角じゃろ!」
しおりの即答にも、玖郎は一切揺らがない。
自転車を止め、静かに降りると、足音を殺すように歩き出す。
「慎重に行くぞ……異世界の門は、音に反応する可能性がある」
「その情報、どこから出てきとるん?」
山口が小さく笑いながらも、その声には少しだけ期待が混じっていた。
潮風の音だけが、やけに大きく聞こえていた。
「あの、多分この道進むと岬に出ますよ。その近くに温泉もあるみたいなんです。せっかくなんで、そこまで行ってみませんか?」
しおり、玖郎、山口の三人は、自転車で細い山道へと入っていた。
「この先にほんとに岬があるん? しかも温泉? ええやん、それは行きたいわ」
しおりが前のめり気味に笑う。
「だろ? こういうのは思いつきで行くのが一番面白いんだ」
玖郎は何の迷いもなくペダルを踏み込む。
道は進むほどに細くなっていく。
軽自動車がようやくすれ違えるかどうかの幅しかない。
「ほんまに岬まで行けるん?」
「大丈夫、大丈夫」
根拠のない自信に押される形で、しおりも山口も後に続いた。
「一応スマホで確認したんですけど……岬までは行けるっぽいです」
山口の冷静な補足が、少しだけ安心材料になる。
舗装は途切れ、タイヤが砂利を踏む音だけがやけに響いた。
ジャリ、ジャリ、と一定のリズムで夜に吸い込まれていく。
「結構奥まで続いとるんじゃな……」
「この先に、岬の端があるはずだ」
言い切る玖郎の声だけが、妙に明るい。
やがて道はさらに狭くなり、草がハンドルに触れ始めた。
「なんか……だんだん不安になってきたんじゃけど。これ、ホラーゲームのダンジョンみたいじゃない?」
「平気だ。これは冒険だ」
玖郎は笑いながら、先頭を走り続ける。
「ほんとに大丈夫なん?なんか壊れた祠みたいなのもあるし……」
「この坂を下ったあたりが岬のはずです。ナビではそうなってます」
山道の先は、だんだんと細く、曖昧になっていく。
そしてふいに。
「……行き止まりだ」
玖郎の声が、静かに落ちた。
山道の一番奥。
そこには最後の常夜灯がひとつだけ立っていて、その先は低いフェンスで塞がれていた。
その向こう側には、ただ黒い海が広がっている。
「えっ……ここで終わり?」
「終わりだ」
あっさりとした返事だった。
しおりはすぐに玖郎へ詰め寄る。
「……異世界の入り口、なかったな」
玖郎はフェンスに手を置いたまま、しばらく黒い海を見つめていた。
「そもそも最初から無いって言うとったじゃろ!」
しおりは笑いながら、その背中を軽く叩く。
「まさに後悔」
「そういう後悔はいらんのよ!もっとこう、初恋とか、小学校の思い出とか、そういうやつ!」
言い合いの中で、空気だけが少しずつ静かになっていく。
山口はフェンス越しに、ただ海を見ていた。
波の音だけが、遠くから規則的に寄せては返す。
「でも……なんか、ちょっといいですね。こういうの」
ぽつりと、山口が言う。
「こういうの、って?」
玖郎が振り返る。
山口は視線を海から外さないまま、少しだけ間を置いた。
「目的地があったわけじゃなくて……でも、ここまで来てしまった感じです」
言葉はそこで途切れる。
でも、それで十分だった。
しおりは小さく息を吐いて、夜の海を見た。
「……まぁ、悪くはないかもね」
風が一度だけ、三人の間を通り抜けていった。
「行き止まりとは知らずに、ここまで走って来て、目的地じゃなくて、ここでみんなで海を見て、また戻る……そういうのが、なんかええなって思ったんよ」
山口の言葉に、玖郎は少しだけ目を細めた。
「『知らない』っていうのは、一度知ってしまうと、もう二度と体験できんものだな。この景色も、多分もう同じ形では見れない」
玖郎が笑い、しおりもつられて小さく笑う。
しばらく誰も何も言わず、ただ波の音だけが続いた。
寄せては返す、その繰り返しだけが時間を刻んでいく。
「誕生日なのに、なんも特別なことなかったなぁ」
しおりが、ぽつりと呟いた。
「いや、これが特別だ」
玖郎は即座に言った。
「ダーツで決めた行き先、山口の別荘、自転車での寄り道、道に迷いながらここまで来た時間……全部が繋がって、今ここにある」
「……まあ、そうかもしれんね。なんか、無駄じゃなかった気はする」
潮風が、三人の間をやわらかく抜けていく。
「ところで温泉は? 岬って結局ここなん? 行けんかったじゃん!」
空気を壊すようでいて、いつものしおりだった。
「いや、こういう“行き止まり”もまたロマンだ」
玖郎はフェンスの向こうの海を見たまま続ける。
「考えてみろ。もしこの先に“異世界”があったとしたら」
「越えたらただの海じゃけどね」
しおりが即答する。
「そう。つまり……異世界の入り口は、実は海の底に沈んでいるのだ」
一瞬の間のあと、しおりは小さく吹き出した。
「はいはい、また始まった」
でも、その笑いはさっきよりも少しだけやわらかかった。
「……まあ、今日はええ思い出になったかも」
波の音が、やけに耳に残る。
「……温泉なかったけどね」
「いや、これが答えだ」
玖郎はゆっくりと振り返る。
「異世界は“ここにない”と、証明できた」
「え、行けんかっただけじゃろ。汗かいたし、普通に温泉入ってすっきりしたいんじゃけど……」
しおりはそう言いながらも、どこか楽しそうに笑っていた。
「まさに『風邪の後悔』だな」
「そういう意味の“風邪”じゃないんよ!」
即座に返す声も、もう怒ってはいなかった。
山口が小さく頷く。
「来た道……引き返しますか」
「異世界への道は、今は閉ざされているのか」
玖郎の冗談に、しおりは肩を揺らして笑った。
「じゃあ……次は“開いとる時間”に来よか」
「ふふ、約束だ」
山口は少し安心したように息を吐いた。
「でも、三人でこうやって走るの、なんか楽しいですね」
その言葉に、玖郎は一瞬だけ黙る。
そして、しおりへ視線を向けた。
「しおり。今日の誕生日、どうだった?」
しおりは少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「……うん。まぁ、悪くなかったよ」
波音の向こうで、潮風が三人の間を静かに抜けていった。
「うん。……まぁ楽しんどるかな」
しおりの言葉に、玖郎は小さく息を吐いた。
「ふっ、なら作戦成功だ」
そしてふと、夜道の常夜灯を見上げる。
規則的に並ぶ光は、どこか終わりのない道みたいにも見えた。
「でもな……もし、全部の常夜灯が灯ったら――」
「ん?」
「本当に異世界に行けるかもしれん」
一瞬、風が止まったような気がした。
しおりは少しだけ背筋に冷たいものを感じながらも、すぐに笑う。
「……でも、夜にこの道はもう通らんとこ。絶対」
玖郎はふっと笑い、そのままペダルを踏み出した。
常夜灯の光が、三人の影をゆっくりと長く伸ばしていく。
来た道を戻るその足取りは、行きよりも少し軽かった。
三人は引き返す。
何事もなかったように、そして少しだけ満足そうに。
その背中を、常夜灯が静かに見送っていた。
やがて山道を抜け、分岐の常夜灯まで戻る。
「右に行ったら岬やったんですね」
しおりが肩の力を抜いて言う。
潮風が、妙に心地いい。
「温泉、楽しみじゃな」
「うむ。今日の締めにはちょうどいい」
「温泉、早く入りたいです!」
山口も珍しく弾んだ声を出す。
そして、三人の前に看板が現れる。
「みらくの温泉、こちら」
そのまま意気揚々と進む三人。
やがて、岬へ着いた。
……しかし。
「温泉? ああ、潰れたよ」
地元のおばちゃんの一言で、すべてがあっけなく崩れた。
「え!? でも看板にはしっかり書いとったで!」
「そりゃ、外すの面倒じゃけぇ、そのままにしとるだけよ」
玖郎はしばらく黙り込んだあと、真顔で言った。
「……温泉、神隠し事件だな」
「いやいや、誰も隠してないけぇね」
おばちゃんのツッコミはあまりに自然だった。
帰り道、再び海沿いを走りながら、玖郎はぽつりと呟く。
「温泉は消えたが……この時間は、確かに残った」
しおりは前を向いたまま、少し笑う。
「ほんま、今日は楽しかったわ。ありがと。前から行きたかった場所じゃし。なんか……聖地巡礼した気分じゃね」
「ふっ、誕生日旅行、成功だな」
山口は満面の笑みで振り返る。
「次は誰の誕生日ですか!」
その無邪気な声に、しおりはクスクス笑った。
潮風の中で、三人の影がゆっくり伸びていく。
目を閉じれば、今日の風景がまだ鮮やかに残っている。
バラ、海、常夜灯、そしてどうでもよくて大事な時間。
「温泉は入れんかったのは残念じゃったけど……」
しおりがそう言いかけたところで、玖郎は最後に一言だけ、妙に真剣な顔で言った。
「……これもまた、“後悔”だな」
そしてすぐに続ける。
「ただし、悪くない方のやつだ」
玖郎は、少しだけ空を見上げたまま言った。
「まさに『浦崎の後悔』だな」
「いや、『風の後悔』じゃろ!?」
しおりの即答に、玖郎は一拍置いてから肩をすくめる。
「どちらでもいいさ。名前なんて後からついてくる」
「そういうこと言うからややこしゅうなるんよ!」
しおりのツッコミが、静かな港町に軽やかに落ちる。
山口はそのやり取りを見ながら、少しだけ笑っていた。
常夜灯の光は相変わらず規則正しく、三人を優しく照らしていた。




