薔薇の咲く日
黎深高校帰宅部探偵・帰野玖郎と山口の二人は、日曜日の午前十時。
福山駅前、「釣り人」像の前に立っていた。
探偵といっても事件を解決するなどではなく、帰宅までの暇つぶしをするという部活ともいえないものである。
「ええけえ、いっぺんでええけえ来てみてや! 絶対、損はさせんけえ!」
しおりのその一言は、もはや“お願い”ではなく命令に近かった。
新聞部の“取材”という大義名分を盾にした、半ば強制的な召集である。
――そして。
花と人波に囲まれた、休日の福山駅前。
待ち合わせ場所としてはあまりにも有名で、あまりにもありきたり。
「……まあ、来る思うとったけどね」
「強制召集だったよな?」
しおりは腕を組み、満足げにうなずく。
その顔はすでに“取材成功”とでも言いたげだった。
――こうして、いつもより少しだけ強引な、非日常が始まった。
福山駅から歩いて十分。
商店街を抜けた先にある緑町公園は、まるで色をこぼしたみたいだった。
赤、白、黄、ピンク。
通りの両側に並ぶバラが、視界いっぱいに広がっている。
風が吹くたびに、甘い香りがふわりと混じる。
「すご……なんか去年より咲いとる気がする……」
しおりが目を丸くする。
「バラの開花状況に関する年度比較……これはひとつの謎だな」
「なんの謎よ!」
間髪入れずにツッコミが飛ぶ。
「君が“毎年見ている”という事実と、“今年はすごい”という主観。この二つの間には誤差がある。つまり福山しおりの感性は年々変化している可能性が――」
「うちが成長しとるっちゅう話じゃろ!」
即答だった。
玖郎は一拍置いて、静かに首を振る。
「もしくは老い――」
「だまっとれや!」
しおりのげんこつが、玖郎の頭にコツンと落ちた。
やりとりは、いつものテンポ。けれどどこか、柔らかい。
「今年はバラ会議があるけえ、人も多いんじゃろうね」
その後ろで、山口がそっとシャッターを切る。
「──やっぱり、自然光のほうが表情が映えますね」
「なに撮っとんよ、やめぇや」
「いえ、参考資料として」
淡々とした声のままなのに、ほんの少しだけ口元が緩んでいる。
(……こういう空気、嫌いじゃない)
山口は、もう一度だけシャッターを切った。
「──で、なに買うん?」
しおりが、焼きそばの匂いに引き寄せられるように屋台通りを見渡す。
「たこ焼き、焼き鳥、唐揚げ、バナナチョコ、クレープ……なにこの誘惑ラッシュ」
「そういう食の誘惑に、なぜ“串刺し”の文化が多いのか。そこにはきっと、謎がある」
「いらんて。謎、いらんのじゃて」
玖郎は一歩前に出て、真顔で続ける。
「串とは、すなわち武器。携帯性に優れ、立ち食いに最適化された形状。その設計思想は――」
「誰と戦うんそれ」
即答だった。
「さすがに考えすぎじゃろ。でもトルネードポテト食べとる人、やたら目立つね」
しおりが指差す。
トルネードポテトに山盛りのマヨネーズを付けて食べている人がいる。
その視線の先を追って、玖郎がふと気づく。
「……山口」
「はい?」
「それは危険だ」
「……なにがですか」
「焼きとうもろこし──それは屋台界のキング。焦げ目と甘辛いタレが胃袋の防衛ラインを突破する。食べた瞬間、他の選択肢が霞む。つまりこれは食欲の独裁だッ!」
「はぁ……」
「ゆえに、最初に手を出すべきはポテト。油と塩分のバランスが取れた、いわば“民主主義”の味――」
「わからん理屈持ち出すなや」
焼きそばに山盛りのマヨネーズをかけている人もいる。
しおりは半笑いのまま、焼きそばのソースの匂いに引き寄せられるように列へ並んでいた。
「じゃあそれでええわ。腹減っとるし」
その数分後。
玖郎はというと、「ムダ推理」と称して
“どのたこ焼き屋が最も焼きムラが少ないか”の検証を始めていた。
そして山口は、いつの間にか屋台通りを離れていた。
バラ園エリア。
色とりどりの花が広がり、アーチ状に組まれたバラが光を受けて揺れている。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、少しだけ静かだ。
その中で、カメラのシャッター音だけが小さく響いた。
カシャ、カシャ。
山口は何も言わず、構図を確かめながら花を切り取っていく。
(やっぱり、光と色のバランスは野外がいい……)
ファインダー越しの世界だけが、少しだけ整って見えた。
バラの奥に、偶然しおりの姿が映る。
焼きそばを頬張りながら、何気なくバラを見つめている横顔。
(……自然な笑顔、ですか)
山口は、その瞬間のシャッターを押さなかった。
代わりに、心の中にだけ残すように視線を留める。
(撮るには……惜しい)
そして、静かにカメラを下ろした。
しばらくして、玖郎がたこ焼きを片手に戻ってきたとき、しおりはすでに次の屋台へ移動していた。
「次は冷やしキュウリいこっか~」
「しおり、それだけ食べて大丈夫なのか?」
「ダイエットは明日からじゃ!」
「そう言って去年も翌日に後悔していたぞ」
「うっさいわ!」
軽口と笑い声が、バラの香りに混ざって流れていく。
どこか落ち着かないのに、妙に心地いい。
(……こういうのが非日常、なんだろうな)
玖郎はそんなことを思いながら、たこ焼きを一つ口に放り込んだ。
そのときだった。
「……え、ちょ、見て! あれ!」
しおりが、勢いよく指をさす。
「バラのクレープ出とる!」
視線の先には、淡いピンク色のクリームがたっぷり乗ったクレープがあった。
バラカスタード、バラホイップ、そしてバラシロップが練り込まれた生地。
見た目からしてすでに甘い。
「……クリームがピンク……いや、これはもう芸術では……?」
玖郎が、妙に真剣な声でつぶやく。
「食べ物を芸術とか言うとる時点で、だいたい腹ペコじゃけぇ」
「その指摘、否定はできない」
「じゃけぇ、買うよ」
「これは買うしかない」
しおりは迷いなくローズクレープを購入した。
ふんわりとした甘さと、かすかに花の香り。
「……ん~~、なんか、すごい乙女な味する……!」
言いながら、少しだけ照れたように笑う。
「一口もらっていいか?」
「女子力が上がる覚悟があるなら、どうぞ」
「おぉ、リスク高いな……」
しおりはくすくす笑いながら、クレープを山口の方へ差し出した。
「山口は? 要る?」
「……ちょっとだけ、いただきます」
そのあと三人は、バラジュースの屋台へ流れるように移動した。
「ローズウォーターっていうんかな、これ」
「成分分析したい……」
「玖郎、飲め」
「承知」
口に含むと、ほんのりとした甘さと爽やかさが広がる。
「……意外と、いけるな」
「うん、思ったより普通にうまい」
男子二人がそろってうなずくのを見て、しおりが満足げに笑う。
そして最後に現れたのは、バラソフトクリームだった。
「わあ……ピンクのソフトクリームって、かわいすぎるじゃろ」
「見た目は完全にスイーツ界のアイドルだな……」
「たぶん山口、もうカメラ構えとる」
「はい」
「やっぱりな!」
即答だった。
ソフトクリームを手に、バラの背景で並ぶ三人。
偶然撮れたその一枚は、山口の中でもお気に入りになる──のは、もう少し後のこと。
スイーツ三昧のあと、ふらりと歩いていた三人は、
公園エリアの片隅でちょっとしたステージイベントに出くわした。
「大道芸やっとる! 皿回しにジャグリングに……一輪車!」
「えっぐ……まさかバラがここまで主役になるとは」
「文化の暴走……それがバラ祭りの正体」
観客に混じって拍手を送る三人。
「なぁ、せっかくやし、俺らもちょっとした芸やってみないか?」
「は? なんで?」
「なんでって……芸のため、いや帰宅部の名誉のために」
「うちの知らんところで、帰宅部ってそんな団体になっとったん?」
玖郎はすでにポケットからトランプを取り出していた。袖口を軽く払うと、赤と黒のカードが手の中で軽く跳ねる。
「よし、しおり。一枚引いてみてくれ」
「なんでうちが客側なん」
「いいからいいから」
小さな子どもたちの視線も集まりはじめる。気づけば、周囲にぽつぽつと人だかりができていた。
玖郎はトランプを高く掲げると、わざとらしく一瞬間を置いた。
「――いくぞ」
次の瞬間、カードは空中へ。
ひらり、と舞って落ちるはずが──消えた。
「……え?」
誰かが小さく声を漏らす。
玖郎は何事もなかったように手を開く。そこには何もない。
「……これが、帰宅部の“無駄のない動き”だ」
「いや今の普通にトリックじゃろ!」
しおりのツッコミが即座に飛ぶ。
だが観客の子どもたちは、目を輝かせていた。
「すげー!」
「もう一回やって!」
玖郎は少しだけ得意げに鼻を鳴らす。
「ふむ……需要はあるようだな」
「調子に乗るなや」
しおりが軽くこづく。そのやりとりに、また笑いが起きた。
その瞬間、玖郎の耳の後ろから、引いたはずのカードがひょっこり顔を出した。子どもたちが「わあ!」と歓声を上げ、しおりが小さく拍手する。
「地味にすごいんじゃけど……」
そしてその隣――山口は一歩下がった位置で、やや斜めに立ったまま固まっていた。
不自然なほど動かない。
視線も揺れず、瞬きすら少ない。まるでその場に溶け込んだ置物のようだった。
「……山口」
「……はい」
「そのまま動くな」
「え?」
戸惑った声が出た、その瞬間だった。
通りすがりの子どもが、何の迷いもなく山口の足元に小銭を置いた。
「……なんでお金入れられたんですか、僕」
さらに、帽子の中にはいつの間にか飴玉が一つ。
どうやら完全に“そういう芸”として成立していたらしい。
玖郎は堪えきれず吹き出し、腹を抱えて笑いながら山口の背中を軽く叩いた。
「いやー、才能あるわ。来年は“動かん銅像”で正式出演やな」
「僕、ただ立っていただけなんですけど……」
しおりは呆れ半分、楽しさ半分で肩をすくめる。
「うちの帰宅部、なんの部活になりよるんじゃろな……」
その言葉の背後で、ふいに空気が少しだけ変わった。
人混みの向こう、本物のパントマイム芸人が、山口をじっと見つめたまま微動だにしていない。
山口と、パントマイム芸人。
二つの“静止”が、ほんの一瞬だけ向かい合っていた。
突然、山口が一歩前へ出た。
「……ん? 山口、なにしよるん?」
「大道芸、やります」
「は!?」
返事を待たずに、山口はその場にしゃがみ込み、即席の“ステージ”を作り始めた。
ポケットから出てきたのはトランプ数枚と、たまたま持っていた紙ナプキン。それだけなのに、指先の動きはやけに滑らかだった。
気づけば、カードは増えたように見え、消えたように見え、また別の場所から現れる。
「すご……え、今どうなったん?」
周囲がざわつき始める。
「山口……何者なん……」
「ただの帰宅部です」
淡々とした声に反して、技だけが妙に本物だった。
いつの間にか足を止めた観客が増え、拍手と一緒に小銭やお菓子が帽子に落ちていく。
「え、もう投げ銭入っとるやん!?」
「……ちょっとした、検証データです」
「やめぇや! 帰宅部で小遣い稼ぐな!」
玖郎が頭を抱えて笑っている横で、山口は一度だけ軽く会釈をした。
──そして、流れはそのまま次のイベントへ移る。
会場横の小さなステージでは、「飛び入りカラオケ大会」が始まっていた。
「参加者あと一人いないかな〜? お姉さんどう?」
マイクが向けられる。
しおりは一瞬だけ黙って、それから肩をすくめた。
「……ええよ。やったるわ」
「あああああ! 参加しよった!?」
「おい、しおり、あれ本気じゃないか!?」
軽いどよめきが起きる中、しおりは迷いなくマイクを握っていた。
選んだのは、少しだけ懐かしいガールズバンド風の曲。
放課後の空気をそのまま音にしたような、青くて少し不器用な歌だった。
ギターのイントロが鳴った瞬間、空気が少し変わる。
明るいのに、どこか胸の奥がざわつくような音。
サビに入ると一気に跳ねるテンポ。
しおりの声は最初こそ少し硬かったが、すぐに馴染んでいった。
少しハスキーで、まっすぐで。
飾らないのに、妙に耳に残る声だった。
気づけば、観客が手拍子を始めている。
「……普通に上手いじゃん」
「なんか、引き込まれるわ」
しおりは最初、ほんの少しだけ照れていた。
けれど途中からは、その照れすら歌に溶かすように、自然に笑っていた。
ステージの上で、無理をしている感じがない。
ただ、そこに立って歌っているだけなのに、不思議と目が離せない。
その光景を見ながら、山口が小さく呟く。
「……カメラ目線じゃなくても、笑ってる顔って、自然に撮れるもんなんですね」
誰に言うでもない言葉だった。
そっと、シャッターが切られる。
音は小さく、歌声に紛れて消えた。
午後三時。
市街地を大きくうねるように、「福山ばら祭りのメインパレード」が進んでいた。
「わあ……すご……」
「人が多いな……これ、圧迫感すらある」
「いや、あれトラックじゃけど……屋根の上の人、普通に手振っとるで?」
太鼓と笛の音が、通り全体を揺らしている。
金色のはっぴを着た一団が舞い、空から紙吹雪が降り注ぐ。
まるで街そのものが巨大な舞台装置になったようだった。
「なんかもう……観るだけで体力削れるくらい派手じゃね」
「山口は?」
「……後方待機です」
「逃げとるやん」
しかしそのとき、誘導スタッフらしき人物が三人に声をかけた。
「君たち、飛び入り体験してみる? ちょうど若者枠が一組空いててね」
「えっ」
「えっ」
「三人とも雰囲気いいし、映えると思うよ?」
一瞬、空気が止まる。
そして次の瞬間。
「やっちゃおうや! 一生に一度のバラパレ体験よ!!」
しおりの目が完全に決まっていた。
「いや、でも俺は……」
「山口、もう腰にハッピ巻かれとる!」
「えっ」
「えっ」
気づけば山口は既に衣装を着せられている。
玖郎も同様に金色のはっぴを羽織らされ、バラの装飾がついた台車の先頭へ。
「……こうなったらもう、やるしかないじゃろ!」
しおりのその一言で、三人は半ば強制的にパレードの中へと押し出された。
囃子に合わせて、前へ、前へ。
手を振り、笑い、時々かけ声を返しながら、三人は人の流れの中を進んでいく。
沿道にはびっしりと観客が並び、スマホやカメラのレンズが一斉にこちらを向いていた。
拍手と歓声が波のように押し寄せる。
「うわぁ……緊張してきた……」
しおりがぎこちなく手を振りながら小声で言う。
「この視線の集中……なるほど、謎が解けたぞ」
「はい出た、なに?」
「バラ祭りの主役は、バラじゃない。“楽しんでる人間”そのものだ」
「……ちょっとええこと言うやん」
「ただし、羞恥心も比例して増加している」
「じゃけぇ手ぇ振れ、ほら!」
半ば押し出すように、しおりが玖郎の背中を叩く。
その隣で、山口はというと──
「……こういうのも、悪くないですね」
「ん? 今なんか言った?」
「同じあほなら踊らにゃ損です」
そう言って、ほんの少しだけ笑った。
バラを手にしたまま、いつもより肩の力が抜けている。
三人は歩く。
笑って、照れて、時々目を合わせて。
観客の歓声と、遠くから響く太鼓のリズム。
空からは紙吹雪と花びらが混ざって降り注ぐ。
まるで、この街そのものが祝福しているみたいだった。
「……楽しかったな」
「うちも……来年も来ようや」
「そうだな。来年も、三人で」
写真に残るのは、一瞬の表情ばかりだ。
けれど本当に残るのは、ファインダーの外で笑った時間のほうなのかもしれない。
誰のレンズにも収まりきらないまま、
その一日は、静かに記憶の奥へと沈んでいった。
気づいたらもう夕方。
緑町公園の高台にたどり着いた三人は、そのまま地面に崩れるように座り込んだ。
「つっかれた~~~……」
「いやほんま、途中から自分が誰か分からんなった」
「……でも」
玖郎が、息を整えながら空を見上げる。
夕日はすでに傾き、空はゆっくりと赤く滲んでいた。
その下で、街に残ったバラが、風にほどけるように揺れている。
「今日が“いつもの帰り道”じゃなかったこと、たぶんしばらく忘れられんな」
「玖郎……今日だけはそう、年に一度のイベントじゃけえね」
「来年も絶対来ましょう……三人で!」
その言葉のあと、少しだけ沈黙が落ちた。
誰もすぐには返事をしなかった。
でも、それは気まずさではなくて、ただ“言葉にする必要がない時間”だった。
風が吹く。
バラの香りが、ほんの少し遅れて届く。
笑って、歩いて、巻き込まれて、また笑った。
ただの一日。
けれど確かに、いつもの日常とは違う場所に立っていた。
そしてその違いは、説明できないまま、静かに胸の奥へ沈んでいった。
──その夜、グループチャットにて。
夜。
自宅のソファに沈んでいた玖郎のスマホが、小さく震えた。
《しおり》
「バラソフト食べる山口」
「大道芸やっとる山口」
「つられて投げ銭してるあたし」
「パレードで手振る玖郎、意外と様になっとったで(←奇跡の角度)」
どれも少しブレていて、少し傾いていて、でもやたら楽しそうな写真ばかりだった。
そして最後に、一枚。
「これ、三人で撮ったやつ」
パレードのあと、緑町公園の高台で撮った集合写真。
夕焼けを背に、薔薇色のハッピ姿の三人が並んで、少し疲れた顔で笑っている。
《しおり》
「うちら、案外なんでもできるじゃろ?」
「帰宅部、なめんなよ☆」
玖郎はしばらく画面を見つめて、それから小さく息を吐いた。
「……本当だったな」
誰に向けるでもなく呟いて、スマホを胸元に置く。
窓の外では、祭りの余韻がまだ街に残っていた。
遠くの喧騒と、消えかけの太鼓の音が、ゆっくり夜へ溶けていく。
(バラの咲く祭りの日。けれど咲いていたのは──バラだけじゃなかった)
帰野玖郎と、山口と、福山しおり。
三人の“帰宅部と、バラの咲く日曜日”が、確かにそこにあった。




