メモ9 町へ行かない道
午後の光が傾き始めても、一行は町へ着かなかった。
それだけなら、まだ言い訳はできる。牙獣が出たばかりだ。危ない道を避けて迂回することだってある。
けれど、レオンの中では、もう言い訳の置き場が消えていた。
街道へ出てから見たものが、順番のまま残っている。
朽ちた道標。
割れた水瓶の破片。
左へ曲がる根の張り出し。
道の右側だけ少し湿っている場所。
その先の、獣道まじりの分かれ。
以前この道を通った商人が、荷台の上で笑いながら教えてくれたのだ。
『西へ行けば町だ。北へ逸れたら、炭焼き小屋の跡しかねえ』
その言い方まで、レオンは覚えていた。
だから分かる。
今、荷車が向かっているのは町じゃない。
最初は、迂回かもしれないと思った。
だが、二つめの目印で違和感になり、三つめで確信に変わった。
町へは行っていない。
その事実が、胸の奥で静かに冷えていく。
レオンは前を歩かされながら、靴の中の紙を足裏で押した。薄い感触だけが、まだ自分の頭の中の記録が消えていないと教えてくれる。
「止まるぞ」
夕方近く、ガイゼルが声をかけた。
一行が足を止めたのは、道から少し外れた開けた場所だった。崩れかけた石積みと、焼け残った柱の跡。昔の炭焼き小屋だろう。町へ行く途中に、わざわざ寄る理由のない場所だった。
馬を木へ繋ぎ、荷車を寄せる。隊員たちは慣れた様子で火を起こし始めた。
詰所へ急ぐ気配はない。
レオンはようやく確信した。
町へ連れて行くという話自体が、もう嘘だ。
「おい」
低い声がして、革袋が投げられた。
受け取ると、水だった。昨日薬を使った若い隊員が、火の向こうからこちらを見ている。
「飲め」 「……ありがとうございます」 「礼はいい」
彼は短くそう言って、薪を崩すふりをした。火の赤さが頬へ揺れている。
それから、視線を上げないまま言った。
「その先、町じゃない」 「……知ってます」 「知ってるのか」
そこで初めて顔が上がる。驚いたような、でも少し安心したような目だった。
レオンは小さくうなずいた。
「前に商人が通った時、道を教えてくれました。朽ちた道標の次に水瓶の破片があって、その次が根の張り出しです。今の道は北です」 「ほんと、何でも覚えてんだな」
苦笑いみたいな声だった。
でも、馬鹿にしてはいなかった。
若い隊員は薪をひっくり返しながら、さらに声を落とす。
「昼の縄、俺が結び直したのは本当だ」 「……うん」 「ロッサムが一回、荷台の下へ潜ったのも見た」 「見た?」
思わず聞き返しかけて、レオンは声を抑えた。
若い隊員はすぐに首を振る。
「ちゃんとは見てない。見たって言えるほどじゃない。だけど、お前が『二回引いて一回巻いた』って言った時、ぞっとした。俺、ほんとにその通りに結んだから」 「……」 「だから、たぶんお前の方が正しい」
その一言は小さかった。
けれど、レオンには十分だった。
自分の《記録》が、ようやく他人の中へ届いたのだ。
「でも」
若い隊員が、薪の陰から何か小さいものを滑らせてよこした。
細く切れた縄の端だった。黒く汚れている。
「昼、落ちたやつの一部だ。俺が結び直した縄じゃない。撚りが違う」 「……どうしてこれを」 「お前の言ってた通りなら、残ると思って」 「残る」 「順番とか、違いとか。お前、そういうの消される前に拾ってたろ」
レオンは一瞬だけ息を忘れた。
この人は、もう理解し始めている。
《記録》がただ覚えるだけじゃなく、消される前の形を残す力だと。
レオンは縄切れを手の中へ隠した。ざらついた繊維に、まだうっすら甘い匂いが残っている。
「名前」 思わず口をついた。
「え?」 「まだ、名前を聞いてなかった」
若い隊員は一瞬きょとんとして、それから小さく鼻を鳴らした。
「……エド」 「エド」 「呼ぶなよ、今は」
小声のくせに、そこだけ少し強かった。
レオンは初めて、彼がちゃんと生きた一人の人間として目の前に立った気がした。
その時だった。
「何やってる」
二人とも肩が跳ねる。
ガイゼルではなかった。ロッサムだ。いつの間にか火の向こうから回ってきていた。口元だけで笑っている。
「火が弱かったんで」 エドが先に言った。 「薪を見てました」 「へえ」
ロッサムの目が、レオンとエドの間を一度だけ往復する。
「仲良くなったの?」 「別に」 「ならいいけど」
そう言いながら、ロッサムはレオンの足元へ視線を落とした。靴。次に手元。
何も見せていないのに、見抜こうとする目だった。
「記録係」
穏やかな声で呼ぶ。
「変なこと、吹き込むなよ」 「吹き込んでません」 「そう」
ロッサムはそれ以上追及しなかった。
だが去り際、エドの肩をぽんと叩く。
「面倒に巻き込まれるなよ。若いんだから」
笑っているのに、脅しみたいな言い方だった。
ロッサムが離れてから、エドはしばらく火だけを見ていた。薪がぱちりと爆ぜる。
「……俺、ずっと思ってたんだ」
誰にも聞こえない声で言う。
「お前がうるさいだけなら、こんな面倒にはならない」 「エド」 「だって、短剣の数も当てたし、縄の巻き方も当てたし、道も分かるし。そういうの、普通は偶然で三回も続かない」
レオンは手の中の縄切れを握る。
甘い匂い。違う撚り。北へ逸れた道。
全部、繋がりかけている。
「でも、隊長に逆らったら終わる。俺、強くない」
その言葉は、情けないんじゃない。
ただ、正直だった。
レオンは頷くしかなかった。
「分かってる」 「……分かるのかよ」 「僕も、ずっとそうだったから」
火がぱちりと鳴る。
その時、荷車の向こうで馬がいななくのが聞こえた。
ガイゼルが立ち上がる。
「今夜はここで休む」 「町へは?」 誰かが聞いた。
「予定を変える。夜道は危ない」
もっともらしい理由だった。
だが、ここへ来るまでの道そのものが違っていたことを、レオンは知っている。
詰所へ行く気はない。
その確信が、今度は冷たくではなく、はっきりした形で胸に収まった。
火が落ちていくころ、見張りが決められた。レオンは荷車の車輪へ縄で繋がれた。逃げないように、という形だけの縄だ。逃げる気など最初からないのに、見せしめには十分だった。
隊員たちは少し離れた場所で眠り始める。
エドだけが、最後まで起きていた。
月が高くなったころ、彼が水袋を持って近づいてくる。
「飲むか」 「……うん」
受け取るふりをした、その一瞬だった。
エドが唇だけを動かす。
「さっき、隊長とロッサムが話してた」 「何を」 「明日の朝までに片をつける、って」
息が止まる。
エドは顔を上げないまま続けた。
「詰所に渡すなら、そんな言い方しない」 「……」 「俺、聞かなかったことにしてもいい。でも、それやったら、たぶん本当に終わる」
そこでようやく、エドはレオンを見た。
迷っていた。
怖がっていた。
それでも、もう完全には引けない顔だった。
「縄、きつく結んでない」 エドが小さく言う。 「明け方、見張りが変わる。その時なら――」
そこまでだった。
背後で枝が鳴る。
エドの顔から色が消える。
振り向くより先に、ガイゼルの声が暗がりから落ちた。
「ずいぶん親切だな、エド」




