メモ10 逃げたことにする
「ずいぶん親切だな、エド」
暗がりから落ちてきたガイゼルの声に、火のはぜる音まで止まった気がした。
エドの肩が目に見えて強ばる。水袋を持った手が、わずかに揺れた。
「水を渡してただけです」 「そうか」
ガイゼルはそれ以上すぐには言わなかった。
その沈黙の方が、怒鳴り声よりよほど怖い。
ロッサムも少し遅れて火の向こうから現れる。口元だけで笑ったまま、レオンとエドを順に見た。
「優しいなあ」 「……喉が渇いてるみたいだったんで」 「へえ」
ロッサムはそこでわざとらしく首を傾げた。
「それ、今やる必要あった?」 「別に、深い意味は――」 「深い意味がないなら、なおさらやめとけよ」
軽い声だった。
だが、その軽さの奥にあるものを、エドはちゃんと分かっている顔をしていた。
ガイゼルがレオンの縄を見下ろす。
「結びが甘い」
短くそう言って、膝をついた。次の瞬間、縄がきつく締め直される。手首へ食い込み、思わず息が漏れた。
「っ」 「逃げる気がないなら、痛くないはずだ」
平たい声だった。感情がないぶん、余計に冷たい。
ガイゼルは縄の端を焼け残った柱へ回し、さらにもうひと結び足した。今度は見張りの形だけじゃない。ちゃんと拘束する結び方だった。
レオンは痛みの中で、その手順まで見ていた。
柱に回す。
引く。
一度返す。
もう一度、深く締める。
順番が、頭の中へそのまま沈んでいく。
「エド」 「はい」 「今夜はもうこいつに近づくな」 「……はい」
エドは唇を引き結んだまま、水袋を持って下がる。
その背中を見ながら、レオンは何も言えなかった。
言えば、彼まで巻き込む。
もう十分巻き込まれかけているのに、これ以上は駄目だと思った。
ガイゼルが立ち上がる。
「見張りは二人ずつ。こいつから目を離すな」 「了解」 隊員たちの返事は短い。
ロッサムは去り際、いつもの調子で笑った。
「記録係ってのは大変だな。覚えてるだけで、人を困らせる」
返す言葉はなかった。
夜が深くなるにつれて、火は小さくなった。
隊員たちは交代で見張りにつき、残りは毛布にくるまって眠り始める。
レオンは柱にもたれたまま、浅い呼吸で目を閉じた。
眠るためじゃない。
聞くためだった。
《記録》は、閉じた目の中でも働く。
焚き火のはぜる間隔。
見張りの足音。
ガイゼルの重い靴音と、ロッサムの乾いた歩幅の違い。
誰がどのタイミングで欠伸を噛み殺したか。
毛布を返す音が、どの位置で止まったか。
今夜は、いつもより残り方が深い。
見たものだけじゃない。
聞いた順番まで、間ごと沈んでいく。
祝福の日から続いていた《記録》が、胸の奥でほんの少しだけ深くなった気がした。
夜半を過ぎたころ、ふたりの足音が荷車の向こうで重なった。
ガイゼルとロッサムだ。
「町へは?」 ロッサムが低い声で言う。
「行かん」 ガイゼルが答える。 「やっぱり」 「詰所に出せば、紙が増える。面倒だ」
紙。
その一言で、レオンの背中が冷たくなる。
「じゃあ、どうするんです?」 「明け方だ」
焚き火の向こうで、誰かが寝返りを打つ音がした。
それでも、ふたりの声は止まらない。
「見張り台跡の先に崩れた斜面がある。縄が切れて逃げたことにすればいい」 「獣の匂いは?」 「残っていれば都合がいい。牙獣に追われたでも、足を滑らせたでも、話は作れる」 「なるほど」
ロッサムが、くすりと笑う気配がした。
「じゃあ、記録係さんは朝にはいなくなるわけだ」 「最初からそういうことだ」 「……エドはどうします?」 「様子が変なら外す」
短い沈黙。
レオンは息を止めたまま、爪を掌へ食い込ませた。
痛みがないと、今聞いたことが本物だと信じられない気がした。
町へは行かない。
詰所も建前だった。
明け方には、逃げたことにされる。
何も消えていないのに、消したことにされる。
違うのに、違わないことにされる。
そのやり方を、もう何度も見てきた。
でも、今度は自分そのものが消される側だ。
足裏へ紙の感触が返る。
薄い。
頼りない。
それでも、まだ残っている。
ふたりの足音が離れていく。
火の向こうでは見張りのひとりが小さく咳をした。
逃げるしかない。
その考えが浮かんだ瞬間、別の声が胸の中でぶつかった。
逃げたら、本当に「逃げたこと」にされる。
でも逃げなければ、朝には消される。
さらにもう一つ、はっきりしたことがある。
逃げるだけじゃ足りない。
向こうが困る形で、何かを残さなければ意味がない。
思考がそこまで届いた時、すぐ近くで砂が鳴った。
レオンは目を開ける。
見張り交代のふりをして、エドが柱のそばまで来ていた。月明かりの半分だけが頬を照らしている。
「水、替える」 見張りに聞こえるように言う。
それから、しゃがみ込むふりをして、ごく小さく唇だけを動かした。
「左手の下」
心臓が跳ねた。
レオンは動かない。
動けない。
見張りのひとりは火の向こうで座ったままこちらを見ている。
エドはすぐ立ち上がり、水袋を持って離れた。何もなかったみたいに。
左手の下。
レオンは柱にもたれた姿勢のまま、縄の食い込みに耐えながら、少しずつ手首をずらす。
ざらついた柱。
きつく締め直された縄。
その奥、指先に何か硬いものが触れた。
薄い。
冷たい。
石でも木片でもない。
月が雲から出る。
結び目のすぐ裏で、爪の先ほどの金属片が、ほんの一瞬だけ白く光った。




