メモ11 火のそばの帳面
結び目のすぐ裏で、爪の先ほどの金属片が月に光った。
レオンは、すぐには動かなかった。
動けば、見張りの目が寄る。
焦れば、音が出る。
焚き火の向こうでは、見張りのひとりが膝を抱えたまま舟をこぎかけている。もうひとりは荷車の脇に立っていたが、さっきから三度続けて欠伸を噛み殺していた。
数えている。
呼吸の間。
靴の位置。
火のはぜる音に紛れる瞬間。
《記録》がなければ、とっくに諦めていた。
レオンは左手の指先だけで金属片をつまんだ。薄い。冷たい。釘の欠片か、刃先の折れたものかもしれない。エドが、あの短い間に結び目の裏へ忍ばせたのだろう。
縄へ当てる。
きつく締め直された繊維は固く、最初の一度ではほとんど動かない。けれど二度、三度と同じ場所を擦るうちに、ざらりと細い毛羽が立った。
そのたびに、手首へ食い込む痛みが増す。
血がにじんでも、音は出さない。
火がはぜる瞬間だけ、力を入れる。
見張りのひとりが立ち上がり、荷車の向こうへ小便をしに行った。
今だ、と胸の奥が言った。
レオンは一気に刃先を押し込んだ。縄の繊維が一本切れる。もう一本。さらに二本。
次の瞬間、結び目がわずかに緩んだ。
息を止める。
まだ駄目だ。
今ここで腕を抜けば、縄の形が変わる。
レオンは手首だけを細くひねり、抜ける寸前のところまで緩めた。逃げるためじゃない。動ける範囲を広げるためだ。
足裏の下にある紙。
頭の中に残った記録。
それだけで朝まで生き延びられるか。
いいや、とレオンは思う。
足りない。
相手が消せない形が、もう一つ要る。
見張りの足音が戻る。レオンはすぐ元の姿勢へ沈み込み、手首を縄の中へ戻した。遠目には縛られたままにしか見えないはずだ。
「……寝てるのか、あいつ」 荷車の脇の見張りがぼそりと言う。 「どうでもいい。朝には終わる」
その言葉が、また胸の奥を冷たく撫でた。
朝には終わる。
なら、その前にやるしかない。
しばらくして、見張りのひとりが火へ薪を足しに寄った。もうひとりもつられて体の向きを変える。視線が一瞬だけ切れた。
レオンはその隙に手首を抜いた。
縄はまだ柱へ掛かったままだ。暗がりなら、少し離れた程度では気づかれにくい。
ゆっくりと体をずらす。靴の中敷きごと紙を引き抜き、懐へ押し込む。それから地面を這うようにして、荷車の影へ移った。
心臓がうるさい。
耳の奥で鳴っている。
けれど、手は止まらなかった。
ロッサムの帳面袋は、荷台の横木へ引っ掛けたままだ。口は紐で軽く結ばれているだけ。普段から、誰も触れない前提で扱っている。今夜に限って言えば、もっと油断していた。さっきまでロッサムはガイゼルと長く話し込み、そのあとも帳面袋を見張りの脇へ置かず、いつもの癖のまま荷台へ掛けたままだった。
指先で紐を解く。
中には帳面が二冊。大きい方は表の記録だ。村の名、道の確認、討伐数、使った道具。見せても困らないことだけが並ぶ帳面。
もう一冊は小さい。
手のひらほどの大きさで、革の角が擦れていた。開くと、中の字は急に雑になる。ロッサム自身しか読まないための速記だ。
ページをめくった瞬間、レオンの目が止まった。
村の名。
その横に、小さく数字。
9受
次の行に、横線で消したような跡。
そのすぐ下に、別の書き込み。
7渡 残2
喉が詰まる。
九枚受け取り、七枚渡し、二枚残した。
そう書いてある。
それだけじゃない。
さらに数ページめくると、昨日見たことのない単語が出てきた。
匂袋 二
小屋跡 朝前
背中が粟立つ。
炭焼き小屋。
今いる、この場所だ。
ロッサムは最初からここへ来るつもりだったのか。
指が震えそうになるのを抑え、レオンは懐の紙を引き出した。月明かりだけでは暗い。だが帳面の字は一度見れば頭に残る。
9受。
7渡 残2。
匂袋二。
小屋跡 朝前。
紙へ、急いで書き写す。
その時だった。
荷車の向こうで薪が崩れ、火の粉が高く上がった。
見張りのひとりが振り向く気配がする。
レオンは息を止めたまま帳面を閉じた。
紐を戻す。
袋の口も元へ。
間に合え、と頭の中で何度も繰り返す。
「……何か動いたか?」 見張りの声がした。 「馬じゃないか」 「そうか」
足音は近づいてこない。
だが、もう時間はない。
レオンは帳面袋から手を離し、荷車の下へ体を滑り込ませた。そこなら闇が深い。土の匂いと、荷の古い匂いと、まだかすかに残る甘い匂いが混じっている。
懐の紙を握りしめた。
証拠だ。
今度は、ただ頭の中にあるだけじゃない。
その瞬間、荷台の上から小さく何かが落ちた。
布切れかと思った。
違う。
裂かれた紙片だった。
見覚えのある自分の字が、一文字だけ残っている。
昨日、ガイゼルに破られたはずの紙。
その切れ端が、毛皮束の隙間から落ちてきたのだ。
拾い上げる。
そこに残っていた文字は、たった二つだけだった。
九枚
胸の奥で、何かがひとつだけ強く打った。
全部は残らなかった。
でも、消えきってもいなかった。
その二文字が、自分の頭の中の記録と、懐に隠した紙と、ロッサムの帳面の数字を、ひとつにつなぐ。
やっと形になった――そう思った瞬間だった。
荷車の向こうで、靴裏が小石を踏む音がした。
ひとつ。
間を置いて、もうひとつ。
ロッサムの歩幅だ、とレオンは分かった。




