メモ8 誰が結び直した
詰所、という言葉は、歩いているあいだずっと背中に貼りついていた。
沢沿いの道を外れて街道へ出ても、その重さは消えない。前を歩かされ、後ろには荷車。右にも左にも隊員の気配がある。逃げるつもりはなくても、逃がす気がない並びだった。
靴の中敷きの下にある紙だけが、まだ消えていない証拠だった。
歩くたびに、その薄さが足裏へ返ってくる。
頼りない。
でも、なくなってはいない。
「水だ」
横から声がして、革袋が差し出された。
昨日薬を使った若い隊員だった。歳はレオンとそう違わない。日焼けした顔に、いまは妙に困ったような影がある。
「……ありがとうございます」 「別に」
それだけ言って、すぐ離れようとする。
けれど、二歩ほど進んだところで足を止めた。
「おい」 「……はい」 「お前、本当にあれ、分かったのか」
振り返らないまま、低く言う。
「縄の結び方とか、匂いとか」 「分かりました」 「見たのか?」 「見た、というより……残ってました」
若い隊員が、そこで初めて少しだけ振り向いた。
「残ってた?」 「朝の箱の位置も、縄の通し方も、頭の中に順番で残ってたんです。違ったから、気づきました」 「……そうかよ」
短い返事だった。
でも、昨日までの「面倒な雑用係」へ向ける声ではなかった。
若い隊員はそのまま荷車の横へ戻っていった。
昼を少し回ったころ、一行は街道脇の古い水場で足を止めた。馬に水を飲ませるためだ。石を組んだ浅い溜め場の向こうには、小さな祠まである。
ガイゼルは馬の様子を見に行き、ロッサムは荷台の横で帳面袋を抱えたまま何かを書いている。レオンは水場から少し離れた木の根元へ立たされていた。
見張りはふたり。
ひとりは退屈そうに欠伸を噛み殺し、もうひとりは枝で地面をつついている。
完全に捕まった罪人というより、面倒な荷物の扱いだった。
その時、馬が急に鼻を鳴らした。
びくりと耳を立て、首を振る。
「またか」 見張りのひとりが眉をひそめる。
レオンも反射で視線を向ける。
荷車の右後ろ。薬箱の下を押さえている縄の端が、またわずかに黒く湿っていた。朝、あの包みを切り落としたのに、同じ場所だけ色が違う。
風向きが変わる。
甘い匂いが、ほんのひと筋だけ流れてきた。
「……まだある」
思わず漏れた声に、見張りが顔を上げる。
「何がだ」 「縄です。匂いが残ってる」 「また始まった」
見張りのひとりが、うんざりしたように顔をしかめる。
「お前、ほんとそればっかだな」 「そればっかで済むならいいです。でも馬が嫌がってる」 「馬なんて何でも嫌がるだろ」
その言い方に反論しかけて、レオンは飲み込んだ。
言葉だけではまた潰される。
順番に見せるしかない。
「朝、包みを切ったあと、縄は結び直されました」 「だから?」 「その巻き方が違います。切ったあとの縄なら、もっと短く余るはずです」 「……何でそんなことまで」 「覚えてるからです」
見張りのひとりが鼻を鳴らしかけた、その時だった。
「……待て」
意外な声が割って入った。
若い隊員だった。昨日薬を使った、あの男だ。
彼は荷車へ近づき、縄の端に顔を寄せた。すぐに顔をしかめる。
「匂い、残ってる」 「だろ」 見張りが目を丸くする。
若い隊員はさらに薬箱の横へ手を伸ばし、結び目を見た。
「これも変だ」 「何が」 「切ったあと、俺が結び直したんじゃない」
場の空気が少しだけ止まる。
レオンは若い隊員を見た。
ようやく彼の横顔をはっきり見る。まだ少年っぽさの残る顎に、昨日の切り傷が薄く走っていた。
「お前、結び直したのか?」 見張りが問う。
「切ったあと、荷がずれるとまずいって言われて。俺がやった。でも、こんな巻き方じゃない」 「本当か」 「本当です」
若い隊員は言い切ってから、少しだけ唇を引いた。
「……たぶん」
その「たぶん」が、今の立場そのものみたいだった。
言い切れば面倒になる。だから半歩だけ引く。
それでも、ゼロではない。
「たぶんじゃないです」
レオンは思わず口を開いていた。
全員の目が向く。
「昨日、あなたは右手で結びました。傷が浅かったから、左だと締めにくかった。二度引いて、一度だけ巻いた」 「……お前」 若い隊員が目を見開く。 「覚えてるのか」 「覚えてます。だから違うと分かるんです」
見張りのひとりが、思わず縄を見直す。
今の一言で、ただの「言い張り」ではなくなった。
若い隊員の顔つきが変わる。
「……そうだ」
低く、だが今度は前よりはっきり言った。
「俺は二回引いて、一回だけ巻いた。こんなふうに深く回してない」
ロッサムが帳面袋を抱えたまま、こちらへ歩いてきた。
「どうしたの」 相変わらず軽い声だ。
「縄の匂いが残ってるって」 見張りが答える。 「それで?」 「こいつ」――若い隊員がレオンを顎で示した――「また同じ匂いだって言った」 「へえ」
ロッサムは縄に鼻を寄せるふりをして、すぐ離した。
「もう包みはないだろ」 「でも馬が嫌がってる」 若い隊員が言う。 「それに、結び方も変わってる」
ロッサムの目が、その一瞬だけ若い隊員へ向いた。
笑っていない目だった。
「疲れてるんじゃないか」 「……かもしれません」 「だろ?」
柔らかい声。
でも、その柔らかさに押されるみたいに、若い隊員の語尾が弱くなる。
レオンは見ていた。
今、引いた。
怖いのだ。分かる。ここで言い切れば、自分も面倒の中へ入る。
それでも、完全には飲み込めていない。
その時、ガイゼルが馬の首を撫でながら戻ってきた。
「何の騒ぎだ」 「大したことじゃないですよ」
ロッサムが先に答える。
「縄に匂いが残ってるかも、って記録係がまた」 「またか」
ガイゼルの顔が冷える。
「詰所へ着く前に、余計な騒ぎを増やすな」
それで終わるはずだった。
けれど、若い隊員が一瞬だけ顔を上げた。
「隊長」
全員の視線が集まる。
「……昼のあと、縄を結び直したの、俺です」 「それが?」 「今の巻き方、俺がやったのとは違います」
そこで声が止まる。
言い切れ。
レオンは胸の奥でそう思った。
でも、その先を押し出すのは、もうレオンにはできない。
若い隊員はガイゼルとロッサムを見て、それから地面へ視線を落とした。
「たぶん、誰かが触ってます」
沈黙が落ちた。
風が吹き、水場の表面がさざめく。
ロッサムが、先に笑った。
「へえ。じゃあ誰が?」 「それは……」 「お前、見たの?」 「見てません」 「だよな」
軽く切られる。
若い隊員の顔がわずかに強張った。
ガイゼルは彼を見たあと、今度はレオンへ視線を移した。
「面倒を広げるな」
それだけだった。
だが、その一言で十分だった。
若い隊員はもう何も言えない。
ロッサムは帳面袋を抱え直し、ふっと息だけで笑う。
「記録係ってのは厄介だな。自分だけじゃ足りなくなって、今度は周りまで変な気にさせる」
見張りのひとりが、気まずそうに目を逸らした。
若い隊員は拳を握ったまま黙っている。
レオンは言葉を飲み込んだ。
違う。
変じゃない。
見えたことを順に言っただけだ。
でも今ここでそれを重ねても、また同じように空気ごと押し潰される。
「出るぞ」
ガイゼルがそう言って、先に立つ。
隊がまた動き出す。若い隊員は荷車の横へ戻る前、一瞬だけレオンを見た。さっきより、ほんの少しだけ目が逸れなかった。
それだけで十分だった。
誰かひとり、完全には飲み込めていない。
レオンは前を歩かされながら、靴の中の紙を確かめた。
薄い。
頼りない。
でも、もう自分ひとりの違和感だけではなくなりかけている。
背後で荷車が軋む。
その音に混じって、ロッサムの低い声がした。近くにいる誰かに囁いたのか、言葉までは聞き取れない。ただ、次に聞こえたガイゼルの返事だけは、はっきり耳に入った。
「町へ着く前に、余計な口を塞げ」




