メモ7 匂いのする綱
「そいつから、目を離すな」
ガイゼルのその一言から、レオンの居場所ははっきり変わった。
荷車は沢沿いの細道を進んでいた。水音は絶えず耳に入るのに、隊の中は妙に静かだった。昨日までのような軽口は、もう誰も投げてこない。
軽く見られているのではない。
警戒されている。
その違いは、思ったよりずっと冷たかった。
レオンは荷車の後ろを歩かされていた。右に隊員がひとり、左にもひとり。逃げるつもりなどなくても、この並びだけで十分だった。
ガイゼルは先頭。ロッサムは荷台の横で帳面袋を抱えている。取り上げられたメモ板は、毛皮束の下へ半分だけ押し込まれていた。
靴の中敷きの下には、まだ紙がある。
歩くたび、足裏にその薄さが返ってくる。
それだけが、まだ自分の手元に残っている記録だった。
「妙な気は起こすなよ、記録係」
右隣の隊員が、前を向いたまま言う。
「起こしません」 「どうだかな」
返ってきたのは、それだけだった。
沢沿いの道は狭い。荷車の車輪が石を踏むたび、軋む音が小さく跳ねる。レオンは黙って歩きながら、荷台の積み方を目で追っていた。
毛皮束三つ。縄二巻。水袋は大二、小三。薬箱は右奥。砥石袋は左手前。朝、村を出た時と比べて、薬箱の位置だけがほんの少し浅い。
そこで違和感が走った。
薬箱を押さえている縄の掛かり方が違う。
朝は横木へ一度通して締めていただけだった。今は一度余計にねじられ、箱の下を深く回っている。そんな結び方に変える理由がない。
しかも縄の端が、黒く湿っていた。
鼻先へ、甘い匂いが流れ込む。
黒い袋と同じ匂いだった。
反射で荷車の下をのぞき込む。車輪の陰、横木の裏側に、葉で包んだ小さな塊が縄へ括りつけられている。
黒い包みだ。
どうして、こんな場所に。
その瞬間、頭の中で情報が並んだ。
朝の結び方。
今の結び方。
薬箱の位置の浅さ。
縄の湿り。
甘い匂い。
そして、村の老婆が言っていた「最近は牙獣が妙に道へ寄る」という話。
つながる。
「止まってください!」
思わず声が出た。
一行が足を止める。ガイゼルが振り返った。
「何だ」 「荷車の下に包みがあります。昨日のと同じ匂いです」 「は?」 「薬箱の縄が朝と違う。誰かが結び直してます。今すぐ外してください」
そこまで言った時、馬が耳を伏せた。
次の瞬間、林の奥から低い唸り声が返る。ひとつではない。沢音に混じって、二つ、三つと近づいてくる。
「牙獣だ!」 隊員のひとりが叫んだ。
馬が前脚を上げ、荷車が大きく揺れる。右の車輪が石へ乗り上げ、沢側へ半分ずれた。
「右に寄るな! 落ちる!」
レオンは反射で叫んだ。
「左から押さえて! 馬を離すな! 包みを切れば匂いが落ちます!」 「何で分かる!」 若い隊員が叫ぶ。 「匂いに寄ってる! 人じゃなく荷車を見てる!」
考えてから言ったのではない。見えたことが、そのまま口から出た。
隊員たちが反射で動く。左から荷台を押さえ、若い隊員が馬の首へしがみつく。別のひとりが薬箱へ手を伸ばした。
その直後、牙獣が飛び出した。
灰色の毛を逆立て、鼻を地面へ擦りつけるようにして、真っすぐ荷車へ来る。狙っているのは人間というより匂いだった。
「下だ!」
レオンは指さす。
「横木の裏!」
ようやくガイゼルの顔色が変わった。剣を抜き、荷台の脇へ回り込む。横木の裏を見た瞬間、舌打ちした。
「……何だ、これは」
剣先で縄ごと払う。括りつけられていた葉包みが地面へ落ち、裂けた。甘い匂いが一気に広がる。
牙獣の動きがぶれた。
人へ飛ぶはずだった一匹が、落ちた包みへ向きを変える。そこへガイゼルの刃が入った。残る二匹も隊員たちが押し返す。
長い戦いではなかった。
沢音が戻った時には、牙獣は三匹とも地面へ沈んでいた。荷車は傾きかけたまま持ち直し、薬箱も落ちずに済んでいる。
地面には裂けた葉と黒い粉が散り、嫌な甘さだけが残っていた。
荒い息の中で、昨日薬を使った若い隊員が口を開く。
「……こいつが言わなかったら、荷車ごと沢へ落ちてたぞ」 「包み、ほんとに括ってあった」 「しかも牙獣、まっすぐ荷へ来てた」 「お前、あれが分かったのか」
その問いは、からかいじゃなかった。
レオンは息を整えながら答える。
「朝の並びと違いました。箱の位置も、縄の巻き方も、匂いも」 「見ただけで?」 「見た順番が残ってるからです」
場が一瞬、静まる。
「……気味が悪いな」 誰かが呟いた。
だがその声は、前みたいな嘲りではなかった。
引いているのに、同時に認めてもいる声だった。
胸の奥に、小さく熱が戻る。
助かった、で終われるならどれだけよかっただろう、とレオンは思った。
「妙ですねえ」
ロッサムが、切り落とされた縄を拾い上げながら言った。
声はいつも通り軽い。だが、その軽さが場の向きを変えるのを、レオンはもう知っている。
「何がだ」 ガイゼルが問う。
「昨日の包みと同じ匂いなんでしょう? で、真っ先にそれに気づいたのはレオンだ」
そこで一度、言葉を切る。
「助かったのは事実です。でも、助かったことと、関わっていないことは別でしょう」
場の空気が、また変わる。
さっきまでの「助かった」が、ゆっくりと引いていくのが分かった。
「知ってたから気づいた、ってことか」 誰かが低く言う。
「そうと決める気はありませんよ」
ロッサムは肩をすくめた。
「ただ、そう見える、って話です」
胃の奥がまた冷えた。
「違います」
レオンは即座に言い返す。
「匂いが同じだっただけです。縄の結び方も、箱の位置も、朝とは違って――」 「お前は、そう言う」
ガイゼルが遮った。
怒りではない。妙に静かな声だった。
「だが今ここで確認できるのは、包みが荷車の下にあったことと、お前が真っ先にそれに気づいたことだけだ」
公正に聞こえる言い方だった。
だからこそ、余計に逃げ場がない。
「覚えていたから気づいたんです」 「証明できるか」
言葉が止まる。
頭の中には全部ある。
朝の箱の位置も、縄の結び方も、さっき牙獣が匂いへ向いた順番も。
だが、それをこの場で示す紙はない。
レオンが黙った、その一拍で十分だった。
ロッサムが続ける。
「しかも、昨夜はこいつが荷車を見に行ってる。妙な包みのことを知ってる。今日も真っ先に気づいた。偶然にしては、ちょっと出来すぎじゃないですかね」
昨日薬を使った若い隊員が眉を寄せた。
「でも、さっきは本当に――」 「助かったさ」
ロッサムはそこでうなずく。
「そこは否定しない。けど、だからって疑いが消えるわけじゃない」
若い隊員の口が閉じる。
握りしめた手だけが、言いきれなかった言葉の代わりみたいに震えていた。
うまい、とレオンは思った。
認めるべきところだけ認めて、疑いはそのまま残す。そうすれば、反論した側だけが無理に見える。
ガイゼルが周囲を見回した。
「この場で断定はしない」
言葉だけ聞けば、公正だった。
「だが、こいつを荷車へ近づけるな。荷にも箱にも触らせるな。次の町までは前を歩かせる。水も食料も、誰かが渡せ」
結論は、もう出ているのと同じだった。
完全に囚人だった。
さっき一瞬だけ向いた「認める空気」は、もう跡形もない。
レオンは沢のそばに散った黒い粉を見た。甘い匂いはまだ残っているのに、それすら誰の証拠にもならない。
その時だった。
昨日薬を使った若い隊員が、荷車の陰からもう一度だけこちらを見た。
迷っている顔だった。
唇が、わずかに開く。
だが、結局何も言わずに視線を外す。
それでもレオンは、その揺れを見逃さなかった。
全員が同じではない。
そう思ったのも束の間だった。
「歩け」
ガイゼルが顎で前を示す。
レオンは何も言い返せず、隊の先頭へ押し出された。背中へ突き刺さる視線の数だけで、自分がどう見られているか分かった。
沢音が遠ざかる。
足元の土だけを見て歩きながら、レオンは靴の中の紙の感触を確かめた。
薄い。
頼りない。
でも、まだある。
その感触に触れるたび、足が止まりそうになるのを、どうにか前へ押し出す。
その時、後ろからロッサムの声が追いかけてきた。
「次の町に着いたら、詰所にそのまま渡した方が早いかもしれませんね」
誰にともなく言ったような口ぶりだった。
だが、聞かせるための声だった。
首筋のうしろへ、冷たい水を垂らされたみたいな感覚が走る。
前を歩くしかないレオンの背に、その一言だけが冷たく貼りついた。




