メモ4 余計なことだけ覚えている
朝、目が覚めた時には、空がもう白み始めていた。
ほとんど眠れなかったくせに、頭だけは妙に冴えている。屋根裏の板床は夜の冷たさをまだ残していて、起き上がると膝に鈍い痛みが走った。
レオンは、眠ったままの隊員たちを起こさないように、そっとメモ板を引き寄せた。
昨夜、抜かれた一枚の跡はそのままだ。
端の紙だけが、不自然に薄い。
指でなぞるたび、胸の奥がざらつく。
けれど、なくなったのは紙だけだった。
書いた順番も、筆の重さも、墨が少しにじんだ場所も、まだ頭の中に残っている。
銀貨九枚のはずが、七枚。
黒い袋。
甘い匂い。
獣を寄せる粉に似ている。
消されたくせに、消えていない。
それが少しだけ怖くて、同時に、自分でも妙に腹立たしかった。
レオンは新しい紙を一枚抜き、記憶のままに書き直した。
村人の証言。
薬箱の並び。
誰がどこで何を言ったか。
昨日の紙より、むしろ細かく書ける。
思い出しているのではない。そこに残っているものを、順に置き直している感覚だった。
書き終えると、その紙を板に挟まず、靴の中敷きの下へ滑らせた。
板ごと奪われても、これならすぐには見つからない。
「……何やってんだ、朝から」
肩が強く跳ねた。
振り向くと、梯子の途中にロッサムが立っていた。寝起きの顔をしているのに、口元だけはいつも通り笑っている。
「起きるの、早いな」 「少し、眠れなくて」 「へえ」
ロッサムはそれ以上聞かなかった。だが、梯子を下りる途中で、ちらりとメモ板を見た。その一瞬の視線だけで、背中がひやりと冷えた。
朝食は薄いスープと黒パンだった。
村の宿の土間で、隊員たちは眠そうな顔のまま椀を傾けている。誰もが早く食べて、早く発ちたそうにしていた。牙獣を退けたとはいえ、こんな小さな村に長く留まりたい者はいない。
レオンもパンをかじりながら、村人たちの動きを目で追っていた。
薬箱は宿の裏手に置かれたまま。
ガイゼルは村長と話している。
ロッサムは帳面を広げて、昨夜の続きでも書くように筆を走らせている。
その時、戸口から年配の女が慌てた顔で入ってきた。
「隊長さん、困ります」
土間の空気がすっと止まる。
昨日、薬箱を受け取っていた女だった。胸に包み布を抱え、息を弾ませている。
「どうした」 ガイゼルが面倒そうに眉をひそめる。
「傷薬が一つ足りません。六つあると聞いていたのに、五つしかないんです。熱を出してる子がいて、村長からも、きちんと受け取れって言われてたのに」
レオンの手が止まった。
やはり、と思う。
昨日、隊員のひとりが使ったと言っていた。だが、村へ渡す分から勝手に使ったのなら、報告漏れでは済まない。
ガイゼルが振り向く。
「誰が使った」 「あ、俺です」
昨日の隊員が、椀を持ったまま手を挙げた。浅い傷はもう乾いている。
「ちょっと切った時に」 「勝手に使ったのか?」 「いや……箱に入ってたし、その場で一個ぐらいなら……」
女の顔色が変わった。
「一個ぐらいって、困りますよ。うちの村には余りがないんです。足りないなら足りないで、昨夜のうちに言ってくれなきゃ」
その声には、遠慮より先に怯えがあった。責めたいのに、強く責めきれない声だった。
「記録係」
ガイゼルの声が落ちる。
レオンは顔を上げた。
「お前、控えてるな」 「……昨日の紙なら」 「なら出せ」
喉が詰まった。
昨日の紙は抜かれている。
今朝書き直した分は靴の中に隠してある。ここで出せば、朝になってから都合よく書いたものだと扱われる可能性が高い。
だが、黙れば何もなかったことになる。
レオンは乾いた唇を舐めた。
「昨日の紙は、抜かれていました」 「は?」
ロッサムが先に笑った。
「何だそりゃ」 「夜のうちに、一枚なくなっていて……でも内容は覚えています。今朝、書き直しました」 「書き直した?」
ロッサムの笑みが少しだけ深くなる。
「便利だなあ。《記録》ってのは」 「事実です」 「でも、それ、今朝書いたんだろ?」
その言い方ひとつで、周囲の空気が変わる。
レオンにはそれが分かった。
ああ、まただ。
正しいかどうかじゃなく、信じるかどうかの空気になる。
「使ったのは事実です」
レオンは傷のある隊員を見た。
「昨日、森を出る前に、自分で『使った』って言いました」 「いや、待てよ」
隊員が眉をしかめる。
「俺、箱から薬そのものを取ったっけ?」 「お前、自分で言ってただろ」 「……布だけ借りた気もする」
女が、え、と小さく声を漏らした。
「そんな……じゃあ、誰が持っていったんですか」
その一言が、場をさらに悪くした。
ロッサムが肩をすくめる。
「ほら。記録係が勝手に決めつけてるだけかもしれない」 「決めつけじゃ――」 「じゃあ、書き直した紙を見せろよ」
言葉に詰まる。
見せれば、朝に書いたものだと分かる。
見せなければ、逃げたと思われる。
どちらに転んでも、都合の悪い方へ引っ張られる。
その時、ガイゼルが椀を置いた。乾いた音が土間に響く。
「昨夜、荷車の方へ行ったのは誰だ」
誰もすぐには答えなかった。
だが、ロッサムが穏やかな顔のまま口を開く。
「レオンが見に行ってましたよ。俺、夜中に見ました」 「……箱のことが気になって」 「だろうなあ。気になることが多いもんな、お前は」
柔らかい口調だった。
それが余計にひどい。
女の顔がこわばる。
「じゃあ、この子が夜に箱を?」 「違います」
即座に言い返した。
思ったより強い声が出て、自分でも少し驚く。
「箱は開けました。でも、足りなくしたわけじゃない」 「だったら何しに行った」 ガイゼルの声が低く落ちる。
宿の中の視線が全部こちらへ向いた。
喉が乾く。
黒い袋のことを言うべきか。
だが今ここで言っても、証拠はない。袋はもうどこかへ隠されているかもしれない。ロッサムもガイゼルも、その気になればいくらでも話を変えられる。
何も消えていないのに、消したことにされる。
違うのに、違わないことにされる。
祝福の日と同じだ。
昨日の報酬の時と同じだ。
違うのは、今は村人までこちらを疑う目で見ていることだった。
「……すみません」
また、その言葉しか出なかった。
女は包み布を抱えたまま、困ったように視線を泳がせる。隊員たちは気まずそうに黙り、ロッサムだけが静かに笑っている。
ガイゼルはレオンをしばらく見ていたが、やがて手を差し出した。
「板を寄こせ」 「え」 「記録だの控えだのは、もういい。お前が持ってると、ややこしくなる」
胸がどくんと鳴った。
「でも――」 「寄こせ」
逆らえる声じゃなかった。
レオンは一瞬だけメモ板を握りしめた。指先に力が入り、板の端が手のひらへ食い込む。離したくない、と体が先に拒んだ。
昨夜、紙を抜かれた。
それでも内容は残っている。
板を奪われても、たぶん消えない。
なのに今、板を渡したくないと思うのは、これはただの道具じゃないからだ。
残すための手だった。
けれど、ここで逆らえば、それこそ全部終わる。
ゆっくり差し出すしかなかった。
ガイゼルはメモ板をひったくるように受け取り、軽く裏返した。
「次からお前は荷物だけ持て。余計なことに首を突っ込むな」 「……はい」
返事をした瞬間、自分の声がひどく遠く聞こえた。
ロッサムが、ふっと息だけで笑う。
「余計なことだけ覚えてると、大変だなあ」
誰もそれに答えなかった。
宿を出る時、女はまだ不安そうな顔をしていた。薬箱を抱えたまま、何か言いたげに唇を動かしたが、結局何も言わなかった。
荷車へ戻ると、レオンは無意識に靴の中へ足先を押しつけた。
中敷きの下に、今朝書き直した紙がまだある。
板は奪われた。
でも、記録そのものまでは渡していない。
それだけが、かろうじて残った。
荷車の横で、ガイゼルが取り上げたメモ板を無造作に荷台へ放り込む。
ぎしり、と乾いた音が鳴った。
その音を聞きながら、レオンははっきり思った。
向こうが奪うのは、ただの板じゃない。
自分が残すことそのものを嫌がっている。
つまり《記録》は、少なくとも相手にとっては、もう雑用じゃない。




