メモ3 合わない金と、黒い袋
黒い袋のことが、目を閉じても消えなかった。
村の宿の屋根裏で、レオンは薄い毛布を胸まで引き上げたまま、暗い天井を見ていた。隣では隊員たちの寝息が途切れ途切れに響いている。酒の匂いまで混じっていた。
けれど、レオンだけは眠れなかった。
銀貨九枚のはずが七枚。
薬箱の中に隠れていた、見覚えのない黒い袋。
そして、ロッサムの笑っていない目。
気のせいかもしれない。
勘違いかもしれない。
そう思おうとするたび、胸の奥が固くなる。
祝福の日に見た、あの古い帳簿もそうだった。
見なかったことにしていたら、きっと何も残らなかった。
だから、確かめる。
レオンはそっと毛布をどけ、軋まない場所を選びながら梯子を下りた。
宿の一階は暗い。囲炉裏の火はほとんど落ち、灰の底に赤さが残るだけだった。外へ出ると、夜気がひやりと頬を撫でる。荷車は宿の裏手、簡単な屋根の下に停められていた。
人影はない。
そのまま足を向けかけた時だった。
「眠れないのかい」
肩が跳ねた。
井戸のそばに、村の老婆が座っていた。夕方、宿の手伝いをしていた人だ。膝に籠を置き、布を畳んでいる。
「すみません。起こしましたか」 「起きてたよ。年を取ると眠りも浅くなる」
老婆は目を細めて笑った。皺の多い、やわらかい顔だった。
「あんた、あの隊の中じゃ静かな子だね」 「……そうかもしれません」 「静かな子は損をするよ。大きい声に押し切られるからねえ」
返事に少し困る。
老婆は籠の中から、小さな包みをひとつ差し出した。まだ少し温かい。中には堅い焼き菓子が入っている。
「残り物だけどね。持っていきな」 「ありがとうございます」
受け取りながら、レオンは思い切って口を開いた。
「あの。今回の依頼って、最初から道の確認も込みでしたか」 「そうだよ」
老婆はためらいなく答えた。
「牙獣退治だけのつもりだったけどね。街道まで見てほしいって話になって、村長が銀貨を一枚足したんだ」 「一枚……」 「元が八枚で、合わせて九枚さ。うちみたいな村じゃ、楽な額じゃないよ」
喉の奥が冷たくなった。
やはり九枚だった。
老婆はそれに気づかないまま、ぽつりと続ける。
「でも仕方ないさ。最近は、牙獣が妙に街道へ寄るようになってねえ」 「妙に?」 「森の奥にいればいいのに、道の近くまで来る。猟師のじいさまが、匂いが変だって言ってたよ。甘ったるい匂いがしたって」
黒い袋のことが、胸の奥で重く鳴った。
礼を言って別れ、レオンは荷車へ向かった。
元が八枚。
一枚足して九枚。
甘ったるい匂い。
薬箱の蓋は昼間よりきちんと閉められていた。けれど留め具はかけられていない。
レオンは周囲を見回し、そっと蓋を持ち上げた。
中の小袋は五つ。並びは昼間見たままだ。指を差し入れると、布とは違うざらついた感触が触れた。
黒い袋だ。
片手に収まるほどの大きさしかない。口をわずかに開けると、中には乾いた粉のようなものが入っていた。薬草の匂いではない。甘くて濃くて、鼻の奥にべたつくような嫌な匂いだ。
「何してる」
心臓が強く跳ねた。
反射で袋を戻し、蓋を押さえる。振り向くと、そこにいたのはロッサムではなかった。昼間、依頼を出していた老人だ。
「す、すみません。箱が気になって」 「ふん」
老人は近づき、鼻をひくつかせた。
「……まだ残ってるな」 「知ってるんですか」 「若いころ猟師をやってた」
老人は声を落とした。
「獣を寄せる粉に似てる。肉と薬草を混ぜて乾かしたやつだ。昔は罠に使う馬鹿もいたが、集まりすぎると手に負えん。村の近くで使うもんじゃない」
背中が冷たくなる。
牙獣が増えた。
街道近くに下りてきた。
そして薬箱の中に隠された黒い袋。
「それを、誰が」 「知らん」
老人は短く切った。だが、次の言葉だけは重かった。
「ただ、あんたはその目をしない方がいい」 「目……?」 「見つけたもんを、そのままにしておけない目だ。長生きしにくいぞ」
言葉が返せなかった。
老人は鼻を鳴らし、宿の方へ顎をしゃくった。
「気をつけろ。口の軽い奴より、笑って黙る奴の方が厄介だ」
それだけ言って、宿の中へ消える。
レオンはしばらく動けなかった。
黒い袋。
獣を寄せる粉。
減った報酬。
線が、どこかで繋がりかけている。
けれど今のままではまだ弱い。口にした途端、また「細かい」「気のせいだ」で潰される。
だから残す。
消される前に、自分の中へ。
屋根裏へ戻ると、隊員たちはまだ眠っていた。レオンは月明かりのそばでメモ板を開く。
銀貨九枚のはずが、七枚。
村人の証言でも九枚。
黒い袋、甘い匂い。
獣を寄せる粉に似ている。
書きながら、指先が少し震えていた。
この紙が証拠になるとは限らない。
明日になれば、ただの言いがかりだと笑われるかもしれない。
それでも書く。
書かなければ、なかったことにされる。
黙れば、向こうの都合のいい形だけが残る。
そこまで書いて、指が止まった。
板の端に、薄く泥がついている。
昼間にはなかった汚れだ。
胸がひやりと冷えた。ゆっくり周囲を見る。誰も起きていない。だが、自分の寝床の横の床板に、かすかな靴跡が残っていた。乾ききっていない、外の土の色だ。
息が浅くなる。
レオンはゆっくり板を裏返した。
最後の一枚だけ、端が不自然にめくれている。
指をかける。
なくなっていた。
今日の昼、荷物の数と薬箱のことを走り書きしていた紙だ。
喉がからからに乾く。指先まで冷たいのに、首の裏だけ汗ばんだ。
抜かれた。
そう理解した瞬間、頭の中で別の感覚が立ち上がる。
なくなった紙の位置。
書いた順番。
墨が少しにじんだ場所。
自分が「銀貨九枚のはずが、七枚」と書いた時の筆の重さ。
紙はない。
けれど、書いた内容そのものは、自分の中から消えていない。
順番も、言葉も、まだ残っている。
奪われても、全部までは消えない。
その事実に胸が熱くなるより先に、背後で床板が鳴った。
レオンの肩が強張る。
「眠れねえのか、記録係」
ロッサムだった。
暗がりの中で、口元だけが笑っている。
レオンは反射的に板を伏せた。
「……少し」 「へえ」
短い返事のあと、間が落ちた。
その沈黙が、妙に長く感じる。
ロッサムは目を細めた。
「大変だな。覚えてることが多すぎると、眠れないんだろ」
軽い調子だった。
けれど、声の温度がまるでなかった。
レオンは答えられない。
ロッサムはそれ以上何も言わず、自分の寝床へ戻っていく。床板が二度、短く鳴った。
その音が消えても、レオンはしばらく動けなかった。
伏せた板の下で、失くなった一枚の分だけ厚みが違う。
指先に、それがはっきり分かる。
見られている。
しかも向こうは、ただ笑っているだけじゃない。
自分が残そうとしたものを、抜き取るくらいには困っている。
厄介なのは、自分の方なのだと、遅れて理解した。
その事実が、怖さと一緒に胸へ沈んでいく。
見られている。
でも、相手はもう、見なかったことにはできない。
夜の屋根裏で、レオンは伏せた板に手を置いたまま、じっと暗闇を見ていた。




