メモ31 エルハ村方面
部屋の空気が、そこで静かに止まった。
これ、僕の村です。
レオンがそう言ってから、誰もすぐには口を開かなかった。
机の上には、開いた控え綴り。
その一行だけが、やけにはっきり見える。
送先変更 エルハ……村方面 一時預け
最後まで書かれていない。
けれど、途中までで十分だった。
エルハ。
レオンの村の名だ。
「確かなのか」
最初に声を出したのはセイルだった。
問い方は静かだったが、軽くはない。たしかめるための問いだった。
「はい」 レオンは答える。 「全部は見えてません。でも、この並びは間違えません。僕の村はエルハ村です」
ユルグが控え綴りへ手を置いたまま、ゆっくり息を吐く。
「……そうか」
その一言には、驚きより、納得に近い重さがあった。
「やっぱり、か」 ミアが低く言う。 「やっぱりって何ですか」 レオンが聞く。
ユルグはすぐには答えなかった。
代わりに頁をもう一枚めくる。紙の擦れる音が、やけに大きく聞こえる。
「エルハ村方面への一時預けは、一件だけじゃない」 「何件あるんですか」 「少なくとも三つ」
頁の端へ指を置き、順に見せる。
乾燥粥 二袋 西外れ保護院
子供靴 三足 西外れ保護院
移送支度 毛布六 縄二 夜灯油四
送先変更 エルハ……村方面 一時預け
その下に、さらに薄い字で続きがあった。
同日 薬箱小 二 咳止め薬 熱冷まし
レオンの喉が、少しだけ詰まる。
人を送る。
そのための毛布。縄。灯油。
送った先で必要な薬。
ただの地名ではない。
そこに、本当に誰かが行った記録だ。
「三つ、というのは」 ネスが問う。 「三回、人を送ったってことか」 「たぶんな」 ユルグが答える。 「少なくとも、うちの控えでは三件分の動きがある」 「何人」 今度はミアが聞く。
ユルグは眉を寄せる。
「そこが欠けてる」 「欠けてる?」 「本来は別紙で人数と名前がつく。だが、その別紙がない」 「抜かれてる」 レオンが小さく言う。
ハルムがうなずいた。
「管理所側からも、同じ時期の移送控えが抜かれておる」 「両方消せば」 セイルが続ける。 「誰が、どこへ、何人送られたかが追いにくくなる」
エドが壁へ背を預けたまま、珍しく軽くない声で言った。
「追いにくく、だろ」 「完全には消えん」 ハルムが答える。 「だから今、こうして引っかかっておる」
レオンは控え綴りを見つめたまま、ふと違和感に気づいた。
「……ここ」
指を伸ばしかけて、止める。
紙は古い。勝手に触るべきではない。
「言え」 ユルグが促す。
レオンは頁の左端を指した。
「字が削られてます」 「どこだ」 ミアが身を乗り出す。
「送先変更の、すぐ上です。本当は前の行がもう少し長かった」 「……見えるのか」 ボイルが半分呆れたように言う。
「少しだけ」 レオンは答える。 「紙の毛羽立ちが違う。たぶん、前は“引受人”の欄があった」
ユルグが控えを光へ傾ける。
しばらく黙り、それから低く言った。
「……あるな」 「え?」 ミアが顔を上げる。
「薄いが、削り跡が残ってる。名前までは読めん。だが欄そのものを削ってる」 「何で、そこだけ」 ネスが聞く。
セイルが静かに答えた。
「送先の村だけでは足りなかったんだろう。誰が受け取ったかまで消したい」
レオンの胸の奥で、何かが嫌な音を立てる。
誰が受け取ったか。
エルハ村方面へ送られた誰かを、村の中の誰かが受け取った。
その名が、削られている。
「……村神殿かもしれない」 気づけば口にしていた。
全員の目が向く。
「何でそう思う」 ミアが問う。
「僕の村では、外から来る人や仕事の記録を、最初に神殿が噛むことが多いからです」 「それは他の村でもそうだ」 ハルムが言う。 「村長を通すか、神殿を通すかの違いはあるがな」 「でも、祝福や死亡や出生を握ってるのは神殿です」 レオンは言った。 「“記録の曖昧な人”を置くなら、神殿を通す方が都合がいい」
その言葉のあと、部屋がまた少しだけ冷えた。
村で、名前の違う証明書を渡されかけた。
その嫌な感触が、いま目の前の古い控えと重なる。
「最低だな」 エドが低く言う。
「最低で済めばいいんだけどね」 ミアが返す。 「こういうのは、大体“昔のやり方でした”で流される」
ユルグは黙ったまま、綴りを閉じる。
ぱたり、という音がした。
「流したから今こうなってる」 その声には、怒鳴り声とは別の重さがあった。 「半月前から妙な照会が来て、今日は帳面ごと抜かれる。今さらだが、今さらでも腹は立つ」
レオンは、その怒り方が少し好きだと思った。
大きい声だけではない。
遅くても、怒るべきものに怒っている。
「ユルグさん」 セイルが言う。 「その三件、日付は近いか」 「近い」 ユルグはすぐに答えた。 「八年前の秋口に二件。七年前の春先に一件」 「閉鎖前後だな」 ハルムが言う。
「保護院が潰れる前に、散らした」 ネスが地図を見ながら言う。 「一度にではなく、少しずつ」 「その方が目立たん」 セイルが答える。
レオンは、さっきの“人を送るための物”の並びを頭の中でなぞった。
子供靴。
毛布。
灯油。
薬。
そこに名前がないのが、余計に嫌だった。
「名前、残ってないんですか」 自分でも少し震えた声だと分かった。
ユルグがレオンを見る。
「うちの綴りにはない」 「じゃあ、もう」 「待て」
ユルグはレオンの言葉を切った。
「全部ないとは言ってない」
部屋の空気が、ほんの少しだけ動く。
ユルグは小部屋の隅にある、もっと小さな棚へ歩いた。そこには帳面ではなく、木の引き出しが三段並んでいる。真ん中の段を開ける。中には、端切れの紙や、控えの下書きや、紐で束ねた書き損じがぎっしり詰まっていた。
「俺は捨てる前に見る癖がある」 ユルグが言う。 「だから、表へ残さない紙でも、たまに下書きが残る」
引き出しの奥から、折れた紙を一枚引き抜く。
小さい。汚れている。端は欠けている。
「読めるかは分からん」
セイルが受け取り、机へ広げた。
レオンも横から覗く。
書いてあるのは、かなり雑な手控えだ。
一時預け エルハ村方面
子 二 女 一
受け側 村神……
そこから先が破れている。
村神。
村神殿。
やはりそこまで見えて、紙が途切れていた。
だが、それだけでも十分だった。
子二。女一。
レオンの心臓が、急にうるさくなる。
「女一」 ミアが読み上げる。 「大人の女が一人、子どもが二人」 「病人か、保護者か」 ネスが言う。 「分からん」 ユルグが答える。 「そこまでは書いてない」
レオンはその紙を見つめたまま、どうしても視線を外せなかった。
自分の家族は三人だった。
父と母と、自分。
けれど、それは“最初からそうだった”のか。
頭のどこかで、考えたことのない問いが、急に形を持ってしまう。
「……レオン」 セイルの声が低く落ちた。
大丈夫か、と聞かれたわけではない。
だが、聞かなくても分かる問いだった。
「大丈夫です」 反射みたいに答えてから、自分で少しだけ嫌になる。 「……大丈夫じゃないですけど」 「そりゃそうだろ」 エドが言った。 「こういう時だけ正直だな」 「それ以外は?」 「面倒くさい」
少しだけ、息がしやすくなる。
ユルグは引き出しを閉め、低く言った。
「この紙は持っていけ」 「いいんですか」 ミアが聞く。
「表の控えじゃない。捨て損ねの下書きだ」 ユルグはレオンを見る。 「だが、表の控えより残ってることもある」
セイルは紙を受け取ったが、すぐには鞄へ入れなかった。
机の上へ置いたまま、全員を見渡す。
「ここから先は、言葉を選ぶ」 「神殿に?」 ハルムが問う。 「神殿にはまだ出さない」
セイルの声は平らだった。
「だが、向こうはすでに記録を追っている。こちらが何を掴んだかを知られれば、次は人にも手を伸ばす」 「人って」 ボイルが顔をしかめる。 「俺らか?」 「あり得る」 ネスが言う。 「少なくとも、御者や門番みたいな“見たやつ”は消したいだろう」 「嫌な言い方だな」 「嫌な話だから」
ミアは机を指で叩く。
「じゃあ急ぐわよ。今日のうちに、残ってるものを先に拾う」 「何を」 レオンが聞く。
セイルは地図の上に、指を二点置いた。
「ひとつは、保護院跡」 西外れのさらに先、小さな印。 「もうひとつは」 指がエルハ村方面を示す道の方へ動く。 「村神殿に残っているはずの受け側記録」
その言葉で、レオンの胸がまた強く鳴る。
戻る。
村へ。
追放されて出た場所へ、今度は記録を追って近づく。
ハルムが短く言った。
「なら暗くなる前に動け。保護院跡は夕方から風が変わる。臭いで分かる」 「何の臭いですか」 「捨てられた場所の臭いだ」
誰もすぐには返事をしなかった。
でも、足はもう止まらないところまで来ている。
レオンは机の上の下書き紙を見た。
子 二 女 一
受け側 村神……
そこに名前はない。
だからこそ、追わなければならない。
誰だったのか。
どこへ行ったのか。
何が消されたのか。
全部、順番で辿るしかない。




