メモ30 組合長の怒り方
薬師組合の西倉は、町の西通りを少し外れた先にあった。
石壁の低い倉が三つ並び、手前に荷下ろし場、奥に乾燥棚。風が抜けるたび、乾いた薬草の匂いと、石灰の粉っぽさが鼻へ入る。嫌な匂いではない。むしろ整っている匂いだ。ここでは、物が雑に扱われていないのだと分かる。
その整った匂いの真ん中で、怒鳴り声だけが浮いていた。
「だから、そんな古い控えを今さら出せと言われても困ると言ったんだ!」
低く太い声だった。
倉の前で腕を振っているのは、四十代半ばくらいの男。肩幅が広く、髭は短い。服は薬師というより商人寄りだが、袖口と指先に乾いた薬草の粉が残っている。机の前に立つだけの人間ではない顔だった。
組合長だろう、と見ただけで分かる。
ミアが足を止める。
「いた」 「怒ってるな」 ボイルが言う。 「いいことだ」 ネスが小さく返す。 「怒ってる奴は、まだ黙ってないことが多い」
レオンは、その向かいに立っている白い袖の男を見た。
神殿の下働き。年は若い。顔立ちはまだ頼りないのに、口元だけ妙に硬い。村で見たフェルドほどではないが、“言い分を持ってきた側”の顔をしている。
「帳面ごと出せば目立つ。だったら控えだけでいいでしょう、と私は何度も――」 「だから、何度も言わせるな!」
組合長が机を叩いた。
「控えは組合のものだ。神殿が“念のため”で持っていっていい紙じゃない!」 「ですが、照会は正式なものです」 「正式なら正式の窓口を通せ! 朝から使い走り一人よこして、“今さら抜かれては困る”だの“記録を揃えたいだけだ”だの、誰が信用するか!」
レオンの足が止まる。
さっきデグが言っていた言葉と重なる。
やはり、ここでも同じ話が出ている。
セイルが一歩前へ出た。
「組合長」 低い声だったが、よく通る。 「話を聞きたい」
組合長が振り向く。
見知らぬ顔の数を確かめ、最後にレオンのところで少しだけ目を止めた。泥と埃のついた服、胸元にしまった紙の厚み、木札。そこまで見てから、神殿の下働きへ顎をしゃくる。
「先にこいつをどけてくれ」 「勝手なことを言わないでください」 白い袖の男が言う。 「こちらは神殿の照会で」 「ならお前も聞け」 組合長は即座に切った。 「今ここで、こっちも話す」
逃がさない怒り方だった。
ミアが机の脇へ寄る。
「私はギルドの受付。西外れの道しるべ改竄と、古記録管理所への不正侵入の件で来た」 「……何だと?」 組合長の目が細くなる。
セイルが続ける。
「管理所からは、西街道沿いの薬師組合関係の古い納品控えが抜かれている」 「こちらの荷車からも、同じ時期の控えが出ました」 レオンが言う。
全員の目が、またこっちへ向いた。
「御者のデグから聞いた通り、白い札で積み替えられた荷です。薬ではなく帳面が入っていた」 「……帳面だと?」 組合長の顔から怒りが一瞬引いた。引いたぶん、余計に硬くなった。
神殿の下働きがすぐに口を挟む。
「それは何かの間違いです」 「間違いではない」 セイルが言う。 「古記録管理所の門前に届いていた。今は中で保全している」 「保全?」 「お前に渡さずに残すという意味だ」 「神殿の照会に逆らうつもりですか」 「照会と押収は違う」
白い袖の男の口元がきつくなる。
組合長は、そのやり取りを一度だけ睨んでから、今度はレオンへ向き直った。
「帳面の時期は」 「七年前と八年前です」 「……やっぱりそこか」
その呟きに、レオンの背中が小さく冷えた。
やっぱり。
つまり、この人は心当たりがある。
「何ですか」 思わず聞く。
組合長はすぐには答えなかった。倉の奥、乾燥棚、石壁、机、白い袖の男。順に視線をやってから、低く言う。
「場所を変える」 「変える必要はありません」 白い袖が言う。 「ここで十分です」 「お前にはな」 組合長が返す。 「こっちは足りん」
その言い方で、この人は話す気があるのだと分かった。
倉の奥の小部屋は、表より少し涼しかった。
棚には薬草見本が並び、壁には西街道の簡単な地図が貼ってある。真ん中に大きな机。そこへ全員が立ったまま集まると、部屋が少し狭い。
白い袖の男も入ろうとしたが、組合長が入口で止めた。
「お前は外だ」 「正式な照会中です」 「なら外で待て。逃げんよ」 「ですが」 「逃げるような話なら、最初から怒鳴ってない」
白い袖は不満そうだったが、セイルが入口の脇へ立つと、それ以上押せなかった。結局、戸口の外で待つ形になる。
組合長はそれを見届けてから、ようやくレオンたちを見た。
「俺はユルグだ」 短く名乗る。 「薬師組合の西倉を預かってる」 「レオンです」 「知ってる。さっきからよく喋るからな」 「……すみません」 「謝るな。今は喋る奴の方がましだ」
意外な言葉だった。
ユルグは机の端へ手を置く。
「七年前と八年前の記録を探してる奴がいる。そいつは今朝今日の話じゃない。半月前から、妙な照会が来てた」 「どんな」 ミアが問う。
「保護院への納入記録。誰が持ち込んだか。何が入ったか。誰が受け取ったか」 「神殿から?」 「最初はそう名乗ってた」
ユルグの視線が戸口の外へ向く。
「だが正式文は出さない。出しても窓口名が曖昧だ。欲しがるのは全部、保護院が閉じる前後の分だけ。しかも薬だけじゃない。寝具、保存食、灯油、縄。人を動かす時に要る物まで聞いてきた」
レオンの喉が少し詰まる。
人を動かす時に要る物。
移送控えだけでは足りない。
生活物資の流れまで見れば、そこに本当に人がいたか、何人いたか、どう移されたかが分かってしまう。
「だから両方」 気づけば口にしていた。 「管理所の控えと、組合の控えを両方集めると、人の流れが見える」 「そうだ」 ユルグはうなずいた。 「見えるし、逆に片側だけ消しても足りん。だから面倒くさい」
ボイルが壁へ背を預ける。
「面倒くさいって、お前ら今日はそればっかだな」 「面倒くさいんだよ」 ミアが即答した。 「殴れないし、数も合わないし、紙だけ抜かれるし」 「それは確かに嫌だな」
ネスは地図を見ていた。
「保護院跡、ここか」 指先が、西外れのさらに先、小さな印を示す。 「今は空?」 「建物は半分潰れてる」 ユルグが言う。 「だが、完全に何もないわけじゃない。古い井戸と納屋が残ってる」 「今も人が入れる?」 「入りたければ入れる。だから余計に嫌なんだ」
セイルが机の上の地図を覗き込む。
「閉じた理由は」 「表向きは病だ」 ユルグの声が少し低くなる。 「だが、実際はもっと雑だ。神殿と役所が、“あそこに置いとくと面倒なもの”を散らした」 「面倒なもの」 レオンが繰り返す。
ユルグは、一瞬だけこちらを見る。
「病人。身寄りの薄い子。記録の曖昧な者。村へ戻しても困る、街に残しても困る、そういう人間だ」
その言葉は、想像していたよりずっと冷たかった。
ボイルもネスも、もう軽口を挟まない。
エドだけが小さく舌打ちした。
「最低だな」 「今さらだ」 ミアが言う。 「でも、今さらでも最低」
レオンは机の縁を見つめた。
村で、名前の違う証明書を渡されかけた。
保護院で、記録の曖昧な者が動かされた。
その線が、少しずつ近づいている気がした。
「七年前と八年前に、何があったんですか」 自分でも、声が少し硬くなっているのが分かった。
ユルグはすぐには答えない。
代わりに、棚の上の小さな木箱を下ろし、鍵を回した。
中から出てきたのは、古びた控え綴りだった。表紙は擦れているが、紐は新しい。誰かが最近まとめ直したのだろう。
「全部は渡せん」 ユルグが言う。 「だが、見せることはできる」
綴りを開く。
頁の端に並ぶのは、日付、品目、数量、行き先。
薬。寝具。乾燥粥。油。縄。小さな靴。
靴。
そこだけ、レオンの目が止まる。
子供靴 三足 西外れ保護院
胸の奥で、何かが嫌な音を立てた。
ユルグが次の頁をめくる。
移送支度 縄二、毛布六、夜灯油四
その次。
送先変更 エルハ……村方面 一時預け
最後まで書かれていない。
だが、今度は村名がもっとはっきり見えた。
エルハ。
レオンの村は、エルハ村だ。
指先が、机の縁へ食い込む。
「……これ」 声がかすれた。 「これ、僕の村です」
部屋の空気が、そこで静かに止まった。




