メモ25 泥のついた矢印
町の西外れへ向かう道は、昼の明るさのわりに薄暗かった。
家並みが途切れ、空き地と荷置き場が増える。人の声は少しずつ遠のき、代わりに荷車の軋む音だけが風に混じって残った。道の端はまだ湿っている。昨日までの雨と、朝から続く荷の出入りで、土が乾ききっていないのだろう。
先を歩くボイルが、槍を肩へ乗せたまま振り返る。
「で、気持ち悪い方。さっきの木板、何が変だった」 「その呼び方、定着してません?」 「してる」 エドが即答した。 「お前、何か見つけた時だけ目つき変わるし」 「変わってないよ」 「変わる」 ネスが横で笑う。 「獲物見つけた鳥みたいになる」
褒められていないのだけは分かった。
二股の分かれ道は、町から少し下ったところにあった。片方は西の街道へ続く広い道。もう片方は、南へ折れて緩やかに低くなる荷車道。その分かれ目に、問題の道しるべが立っている。
木の柱に、二枚の矢印板。
ひとつは西。
ひとつは南。
ぱっと見では普通だ。
だが、近づくほど妙だった。
西を指す板の根元にだけ、濃い泥がこすれたように残っている。先端ではない。柱でもない。誰かが手で板を掴み、汚れた指で押さえたみたいなつき方だった。
「触られてる」 レオンが言う。
ボイルが鼻を鳴らす。 「見ただけでか」 「泥の位置が変です」 「泥の位置」 ネスがしゃがみ込む。
レオンは板の付け根を指した。
「跳ねた泥なら先の方につきます。ここにだけ濃く残るのは、板そのものを掴んだからです」 「……ほんとだ」 ネスが低く言う。
さらに近づく。
西向きの板だけ、釘の周りに新しいささくれが出ていた。木肌の焼け方も、表と裏で少し違う。長い間この向きだった色じゃない。
「板を外して付け直してます」 「柱ごとじゃなく?」 ボイルが問う。 「柱は動いてないと思います。根元の土が固いから」 「そこまで見るのかよ」 「見えるので」
言った直後、エドが小さく吹いた。
「出た」 「何が」 「腹立つ言い方」 「事実だよ」 「そういうとこだって言ってんだよ」
ネスは立ち上がり、板を軽く押してみる。
「ぐらつきはないな。雑ではない」 「でも急いでやってる」 レオンが言う。 「泥が木目に押し込まれてる。乾ききる前です」 「昨夜か、今朝」 ネスが結論みたいに言った。
ボイルが腕を組む。
「で、入れ替えたらどうなる」 「西へ行く荷が南へ行きます」 「逆もだな」 ネスが言う。 「初めて来る荷なら引っかかる」
レオンは足元へ視線を落とした。
分かれ道の地面には、古い轍と新しい轍が何本も重なっている。全部を読むのは難しい。だが、その中に二組だけ、深く新しい跡があった。町から出て、南へ逸れている。
「これ」 しゃがみ込み、轍を指す。 「新しいのが二台分、南へ行ってる」 「南から来た荷かもしれないぞ」 ボイルが言う。 「来る荷なら、ここで一回迷って止まります」 レオンは轍の乱れをなぞる。 「でもこれは、そのまま曲がってる。町を出た荷です」 「……なるほど」 ネスがうなずいた。
その時だった。
南の道の奥から、怒鳴り声が飛んできた。
「おい! 誰かいねえのか!」
全員が顔を上げる。
「車輪がはまった! 助けろ!」
ボイルが真っ先に走り出した。
「南だ!」 「行くぞ!」 ネスが続く。 エドも駆け、レオンは一度だけ道しるべを振り返った。
西向きの板。
泥のついた根元。
新しい傷。
やはり、誰かが故意に変えている。
南の荷車道は、街道より狭く、少し下るだけでぬかるみが深くなっていた。窪地の手前で荷車が片輪を泥へ取られている。馬が苛立って首を振り、御者が必死に手綱を引いていた。
荷台には、布で覆われた細長い木箱が五つ。端のひとつは泥をかぶっている。
「助かった!」
御者が叫ぶ。町の人間ではなさそうな顔だった。額に汗がにじみ、声に焦りが張りついている。
「何でこっち来た!」 ボイルが怒鳴る。 「西の薬師小屋なら街道だろ!」 「道しるべが南を指してたんだよ!」 「普段は指してねえ!」 「普段なんか知らねえよ!」
ネスが荷台へ視線を走らせた。 「急ぎの荷か?」 「昼までに入れろって言われてる!」 御者が叫ぶ。 「湿気に弱い薬材だ!」
レオンは荷車へ近づく。
泥。
車輪。
荷台。
木箱。
覆い布の沈み方。
「片側に重さが寄ってる」 「何だって?」 御者が振り向く。
レオンは右後ろの箱を指した。
「それだけ重い。先に下ろせば片輪が上がります」 「分かるのか」 「たぶん」 「今それ言ってる場合か!」 エドが怒鳴る。
ボイルが荷台へ飛び乗った。
「どれだ!」 「右後ろ! 布の角が深く沈んでるやつ!」 「これか!」 「それです!」
ボイルとネスが箱を持ち上げる。思ったより重いらしく、ボイルの顔がしかめられた。
「何入ってんだこれ」 「湿気取りの砂袋が多いんだよ!」 御者が答える。 「それだけ大事な荷なんだ!」
箱を地面へ下ろす。
ネスが車輪の前へ木片を噛ませる。
エドが肩で荷台を押す。
ボイルが馬の横へ回る。
「引け!」
泥が跳ねる。
車輪が半回転して止まる。
「もう一回! 引け!」
今度はぐっと持ち上がった。
片輪が泥から抜ける。荷車が軋みながら前へ出ると、御者はその場でへたり込みそうになって息を吐いた。
「助かった……!」
レオンもようやく肩の力を抜く。
だが、これで終わりではない。
ボイルが泥を払いつつ、分かれ道の方を見た。
「故意だな」 「はい」 レオンがうなずく。 「急ぎの荷を遅らせたかったんだと思います」 「誰が」 ネスが聞く。
レオンは荷台の木箱を見る。
細長い箱。
薬師組合の印。
急ぎ便の赤線。
「遅れて困る相手を知ってる誰か」 「商売敵か」 ボイルが言う。 「それか足止めそのものが目的か」 ネスが続ける。
御者が息を整えながら口を開く。
「門で変だったんだよ」 「何が」 「同じ薬師組合の荷車が、先に一台出てた。そっちの御者が、門番に“今日から板が新しくなった”って笑ってた」 「新しくなった?」 エドが眉をひそめる。
レオンたちは顔を見合わせた。
知っていたのだ。
最初から。
ボイルの顔から、わずかに残っていた軽さが消える。
「面倒くさいな」 「最初からそうだろ」 ネスが言う。 「違う。こういう面倒は殴れないから腹立つ」 「道しるべ殴るなよ」 エドが言う。 「お前、ちょっとずつ口悪くなってないか」 「いい影響だろ」 「誰のだよ」
レオンはもう一度、荷車の跡と箱を見た。
町に入ってからずっと、少しずつ何かがずれている。
荷札。箱。採取品。道しるべ。
まだ一つには繋がらない。
でも、偶然で片づけるには似すぎていた。
「……戻りましょう」 レオンが言う。 「道しるべは直した方がいいし、門番にも聞きたいです」 「だな」 ボイルが槍を担ぎ直す。 「気持ち悪い方」 「はい」 「今日のお前、かなり便利だ」 「それ、褒めてます?」 「半分はな」
すぐ横で、エドが鼻を鳴らした。
「進歩したな」 「誰が」 「お前」 「褒めてねえぞ」 「でも半分は褒めてるんだろ」 「お前が言うと腹立つな」
南道を引き返しながら、レオンは一度だけ後ろを見た。
荷車はもう動いている。
急ぎ便の赤線も、泥に沈んだままではない。
間に合う。
そう思ったのに、胸の奥にはまだ別のざらつきが残っていた。
道しるべを変えた誰かは、たぶん今も、この町のどこかで平気な顔をしている。




