メモ19 辺境の町
村の灯が見えなくなってからも、しばらくは胸の奥に何かが残っていた。
痛い、というほどではない。
ただ、息を吸うたびに、細い棘が少しだけ動くみたいな感じだった。
レオンは歩きながら、胸元を服の上から押さえる。
祝福の日にもらった証明書。
名前と授かったスキルが書かれた、自分の紙。
まだある。
持ったまま、村の外へ出られた。
それだけで十分だと思おうとしても、思い出すのは村長の顔と、トオルの「生きてろよ」だった。
「また触ってる」
前を歩いていたエドが、振り向かずに言った。
「何を」 「紙」 「触ってないよ」 「今ので三回目」 「数えてるの?」 「お前といると、嫌でも細かくなる」
朝の空気は冷たいのに、そのやり取りだけ少し温かった。
夜のあいだに岩場で少し眠ったせいで、体の節々は重い。背中も首も痛い。だが、村の中で目を閉じていた時よりは、ずっとましだった。追われるかもしれない場所から離れただけで、呼吸の浅さが少し減っている。
「町までどれくらい」 「昼前には着く」 「近いんだ」 「近くはない。お前が歩くの遅い」 「荷物あるからだよ」 「俺もある」
エドの腰には、トオルから預かった短剣が揺れている。背中には油布を丸めた荷。自分の背負い袋の底には、母の針箱が入っていた。役に立つかどうかは分からない。けれど、置いていく気にはなれなかった。
林道を抜けると、道は少しずつ広くなった。
踏み固められた土の上に、車輪跡がいくつも重なっている。馬の蹄の跡も、荷を引きずった筋もある。村の外れの道より、人も荷もずっと多い。
「セイルさん、もう着いてるかな」 「たぶん先に入ってるだろ」
セイルは明け方前に別れた。
古記録管理所へ先に顔を出すと言っていた。自分たちはまず町へ入り、食う手段を見つけろと。それは命令ではなく、ほとんど現実の確認だった。
辺境の町は、遠くからでもすぐ分かった。
立派な城壁ではない。丸太を並べて土で固めた、獣避けと人避けの中間みたいな柵。その向こうに、煙が何本も上がっている。煮炊きの煙、鍛冶場の煙、乾かした草をいぶす匂い。朝の空へ、忙しそうに伸びていた。
「でかいな」
思わず言うと、エドが鼻を鳴らす。
「村よりはな」 「人も多そう」 「多い。あと、優しくない」 「嫌な先回りしないで」 「してない。普通にそうだ」
門が近づくにつれて、音も増えた。
荷車の軋み。
馬の鼻息。
誰かが値段で揉める声。
鍋を叩く音。
笑い声と、怒鳴り声と、咳払い。
村の音は、誰が出した音かだいたい分かった。
町の音は、音のまま押し寄せてくる。
門脇の見張り台には、眠そうな門番が二人いた。片方が、レオンとエドの格好を上から下まで見て眉を上げる。
「旅人か」 「仕事を探しに」 エドが答えた。 「宿代あるか?」 「少しは」
曖昧に返したのに、門番はそれ以上追及してこなかった。ただ、レオンの胸元に一度だけ目を落とす。証明書の角までは見えていないはずなのに、レオンは反射で服の合わせを押さえた。
「揉め事は起こすなよ」 「起こす側に見えます?」 エドが言う。 「見えない奴ほど起こすんだよ」
もっともらしい顔で返され、そこで話は終わった。
町の中は、外から見るよりずっと狭くて、ずっと詰まっていた。
真ん中に太い通りが一本。両脇へ店と作業場と宿が、無理やり押し込められたみたいに並んでいる。干した肉、薬草、革、鉄、汗、酒、土、獣の毛。匂いが重なって、鼻の奥が忙しい。
レオンは歩きながら、つい看板や荷札へ目がいった。
宿の札が二枚。片方は「満」、片方は裏返し。
鍛冶場の前の鉄棒は三束。一本だけ長さが違う。
塩商の樽は六つ。隣の二つだけ、新しく塗り直した青印。
荷車の麦袋は七つ。いや、奥に半分隠れてもう一つある。
「おい」
エドが、前を向いたまま言う。
「今、数えただろ」 「何を」 「全部」 「……少し」 「気持ち悪いな」 「褒めてる?」 「褒めてない」
でも、声に前ほどの引きはなかった。
広場へ出ると、空気がまた変わった。
掲示板。水場。荷運びの待機場所。日雇いらしい男たち。籠を持った採取帰りの女。傷の残る若い冒険者。みんな疲れているのに、目だけは忙しい。
広場の向こうに、二階建ての建物があった。
石と木でできた、少しだけ大きな建物。入口の上に、剣と袋を交差させた看板がある。脇には、紙が何枚も貼られた黒板らしき板。
冒険者ギルドだ。
レオンは足を止めた。
ここまで来た。
村の中で、名前の紙を押さえていた手が、今は少し違う重さで胸元にある。追い出された先で、ようやく「次」の形が見えた気がした。
「入るか」 エドが言う。
「……うん」 「何だその顔」 「笑われるかなって」 「たぶん笑われる」 「ひどい」 「でも、笑われるくらいで死なないだろ」 「昨日までの流れだと、そこちょっと信用できない」 「それはそう」
入口の前には、すでに数人並んでいた。
大剣を背負った男。籠を持った女。腕を怪我した若者。依頼帰りなのか受付待ちなのか、顔はそれぞれ違う。ただ、共通しているのは、誰も他人の事情にやさしそうではないことだった。
レオンは最後尾へ並ぶ。
中から声が漏れてくる。
「だから、この荷札じゃ受け取れねえって言ってんだろ!」
「印は合ってるんです!」
「数が合ってない!」
怒鳴り声。
紙をめくる音。
机を叩く音。
その瞬間、レオンの目が入口脇の小机へ吸い寄せられた。
そこに積まれた荷札の束。紐でくくられている。だが、表に来ている札と二枚目の札で、印の色が違った。しかも、上に書かれた数は六。見えている束の厚みは、どう見ても五枚分しかない。
「……おかしい」
小さく漏れた声を、エドが拾う。
「何が」 「荷札」 「もう始まった」 「だって違う」 「まだ入ってもないぞ」 「うん」
でも、目は離せない。
中ではまだ揉めている。
受付の女の声は尖り、相手の男は同じ言葉を繰り返している。広場のざわめきの中でも、そのやり取りだけは妙にはっきり聞こえた。
数が合っていない。
それはただの聞き間違いじゃない。
入口脇に積まれた荷札の束が、もうそう言っている。
レオンは思わず一歩前へ出かけて、止まった。
まだだ。
ここは村じゃない。
誰も自分を知らない。
追放されたばかりで、金も立場もない。いきなり口を出せば、今度こそ本当にただの面倒な奴で終わるかもしれない。
「……どうする」 エドが、半分呆れたように聞く。
レオンは入口と荷札と揉めている声を見比べる。
笑われるかもしれない。
けれど、見つけたものをそのまま通り過ぎるのは、もっと嫌だった。
「まず、並ぶ」 「普通だな」 「そのあと、聞かれたら言う」 「聞かれなかったら」 「……たぶん言う」 「やっぱり普通じゃない」
そのやり取りの最中だった。
中から一枚の荷札が、ぱたりと床へ落ちた。
受付の女が拾おうと手を伸ばす。
その時だけ、札の裏が見えた。
裏の受け印は、二本線。
表の束の札は、一本線。
別便だ。
数が合っていないんじゃない。
違う荷を、同じ束へ混ぜている。
その確信が、背中を小さく走り抜けた。
中で、受付の女が苛立った声を上げる。
「だから、これじゃ倉庫が受け取れないって――」
その言葉の途中で、レオンの足は、もう半歩前へ出ていた。




