メモ18 夜を出る
荷物は、思ったより少なかった。
祝福の日にもらった証明書。
村長から渡された小さな布袋。
トオルが置いていった乾パンと干し肉。
エドが持ってきた靴紐、包み布、油布。
それから、母の針箱だけは迷って持つことにした。
レオンは箱を布へ包み、背負い袋の底へそっと入れた。針も糸も多くはない。旅の役に立つかと言われれば、たぶん立たない。
それでも、置いていく気にはなれなかった。
「準備できたか」
戸口でエドが小声で言う。
外はもう、村の灯がまばらだった。遅い時間まで明るい家もあるが、多くはもう静かで、犬の鳴き声と、風に鳴る戸板の音だけが残っている。
「うん」 「戸、どうする」 「閉める」 「……戻る気、あるのか」 「今は、分からない」
そう答えると、エドは何も言わなかった。
レオンは家の中をもう一度だけ見回した。
炉。
棚。
母の布。
父の工具箱。
空いた針箱の場所。
変わっていないものと、変えられたものが、同じ部屋に並んでいる。
戻りたい、と思わないわけじゃない。
でも今は、この家に残る方が危ない。
戸を閉め、閂を落とす。
自分で閉めたはずなのに、まるで誰かの家を外から閉めるみたいだった。
「行こう」
村道へ出ると、空気がひやりと肌へ触れた。
表の道は通らない。神殿の前も避ける。エドが先に立って、家と家のあいだの細い裏道を選んで歩く。暗いが、村で育った足取りに迷いはない。
「そんな道、よく知ってるね」 「ガキのころ、抜け出すのに使った」 「何してたの」 「川で魚取ったり、森で怒られたり」 「怒られてばっかりだね」 「お前よりは人間らしいだろ」 「それはそうかも」
こんな時なのに、少しだけ笑いそうになった。
エドは振り向きもしないまま、「気持ち悪いから笑うな」と言った。
村の外れへ近づくにつれ、息が詰まるような感覚が少しずつ薄れていく。
誰も追ってきていない。
少なくとも、まだ。
だが、村外れの井戸の脇で、人影がひとつ動いた。
レオンもエドも同時に足を止める。
「そんな怖い顔しなさんな」
老婆だった。
昼の集会所にいた、あの杖の老婆だ。足元に小さな籠を置いている。いつからそこにいたのか分からない顔で、皺の多い目を細めた。
「……驚かせないでください」 「驚くようなことしてるんだろう、お前ら」
そう言って、籠を持ち上げる。中には小さな丸パンが三つと、塩の包みが入っていた。
「これ、持っていきな」 「でも」 「余ったんだよ。嘘だけどね」
老婆は杖を鳴らした。
「明日の朝までいたら、もっと面倒になる。若いくせに、そこは分かる顔してる」 「……はい」 「なら行っといで」
レオンは籠を受け取る。まだ少し温かい。
老婆はその手元を見てから、胸元のふくらみへ目をやった。証明書の紙だ。服の内側に入れているせいで、少しだけ角が浮いている。
「名前の紙かい」 「はい」 「なくすんじゃないよ」 「……はい」 「名前はね、呼ぶ方が忘れても、持ってる方まで手放しちゃ駄目なんだ」
その言葉に、レオンは一瞬だけ返事ができなかった。
母が言っていたことに、どこか似ていたからだ。
老婆はそれ以上しんみりしなかった。すぐに鼻を鳴らす。
「ほら、行きな。年寄りに見送りなんぞさせるもんじゃないよ」 「ありがとうございました」 「礼なんかいらないさ。あとで誰かに返しな」
エドも頭を下げる。
老婆は「お前はもっと字を覚えな」と余計なことまで言って、エドに小さく舌打ちされていた。
村外れの畑道まで来ると、今度は石垣の影からトオルが出てきた。
肩で息をしながら、こっちを見る。
「やっぱり今夜出るんだな」 「うん」 「そりゃそうか」
明るく言おうとして失敗したみたいな声だった。
トオルは腰の短剣を外して差し出した。祝福の前から自慢していた、刃だけはよく手入れされたやつだ。
「これ、持ってけ」 「いや、いらないよ」 「いるよ」 「トオルのじゃん」 「お前が使うんじゃない。エド、お前が持て」 「何で俺だよ」 「レオンに渡したら自分刺しそうだからだよ」 「刺さねえよ」 「ちょっと迷っただろ今」
その言い合いが、妙にいつも通りで、レオンは今度こそ少しだけ笑った。
トオルは短剣をエドへ押しつけると、今度はレオンの背中の袋を見た。
「軽すぎないか」 「まあ」 「お前、そういうとこあるよな。すぐ自分だけ我慢すればいいと思う」 「そんなことないよ」 「ある」
言い切られて、返す言葉が出ない。
トオルはしばらく黙って、それから低く言った。
「戻ってこいとは言わない」 「うん」 「でも、生きてろよ」 「……うん」
それだけで、十分だった。
長い別れの言葉なんて、この村の人間には似合わない。
言えないことが多すぎる夜だったし、言わない方が残るものもある。
トオルが石垣へ背を預ける。
「明日の朝、俺はたぶん知らない顔してる」 「分かってる」 「でも、知らないわけじゃないからな」 「分かってるって」
トオルはそこで、ようやく少しだけ笑った。いつもの明るさより、だいぶ薄い笑いだった。
「行けよ。これ以上いると、引き留めるみたいで格好悪い」 「格好はもう十分悪いよ」 「うるさい」
最後に、エドが「短剣、ちゃんと返すからな」と言うと、トオルは「返せるとこまで来い」とだけ答えた。
村の外へ出る小道は、夜露で少し滑った。
畑を抜け、細い林道へ入る。月が雲の間に隠れると、道はほとんど見えなくなる。エドが前を歩き、時々立ち止まって枝を避けるよう合図した。
村の音は、もうほとんど聞こえない。
レオンは一度だけ振り返る。
遠くに灯がいくつか見えた。神殿の明かりは、村の家より少し高い場所で白く残っている。あそこに戻れば、明日の朝にはまた綺麗な言葉で切り分けられるのだろう。
思ったより、未練はなかった。
未練より先に、息苦しさの方が消えていく。
「……楽だ」 「何が」 「息が」 「そりゃ追い出されるくらいだしな」 「慰めになってないよ」 「慰めてない」
エドらしい答えだった。
しばらく歩いて、村が完全に見えなくなったころ、道の脇に低い岩場があった。そこへひとまず腰を下ろす。
老婆の丸パンを割る。
塩を少しつけて食べる。
干し肉を噛む。
空腹だったことに、食べて初めて気づいた。
「明日、っていうか今日か」
エドが夜空を見上げる。
「町まで半日ちょい。朝になる前に少し寝るか」 「うん」 「俺、先に見張る」 「交代するよ」 「お前、寝た方がいい。顔ひどい」 「エドに言われたくない」 「俺は元からだ」
それもその通りだった。
レオンは油布を肩へかけ、背中を岩に預ける。
胸元の紙をもう一度確かめた。
祝福の日にもらった証明書。
名前とスキルが書かれた、自分の紙。
まだある。
なくしていない。
それだけで、今夜は十分だった。
「レオン」
エドが小さく呼ぶ。
「何」 「町、着いたらどうする」 「冒険者ギルド」 「やっぱりか」 「笑われるかな」 「たぶん」 「ひどい」 「でも、仕事にはなるかもしれない」
少しだけ間があく。
「お前、役に立つから」 「……ありがと」 「今のは一回だけだからな」 「二回目も聞きたい」 「寝ろ」
目を閉じる。
土は冷たい。
夜は長い。
でも、集会所の中よりずっと静かだった。
村を追い出された夜なのに、ようやく、自分の呼吸の音だけがちゃんと聞こえる気がした。




