メモ17 村に残れない理由
家へ戻る道は、いつもより長く感じた。
もう夜だった。
どの家の窓にも灯りがあり、鍋の匂いもする。犬の鳴き声も、戸を閉める音も聞こえる。昨日までと同じ村の夜だ。
なのに、レオンにはそのどれもが少し遠かった。
胸元の紙を、服の上から押さえる。
祝福の日にもらった証明書。
まだある。
奪われてはいない。
けれど、それを持っているだけで守れるほど、村の中はもう広くなかった。
実家の戸を開けると、冷えた空気が迎えた。
誰もいない家の匂いは、昔から少しだけ土に似ている。父が棚へ置きっぱなしにしていた工具箱も、母の針箱も、そのままだ。炉には火がなく、窓の隙間から入る風が、布切れをほんの少し揺らしていた。
レオンは戸を閉め、ようやく長く息を吐いた。
集会所では張っていた気が、一気に抜ける。
床へ座り込みたくなるのをこらえて、まずは窓の閂を確かめた。鍵をかける。次に裏口。水差し。棚の位置。机の上。
何も変わっていない。
そう思って、二歩進んで、止まった。
針箱の向きが違う。
ほんの少しだけだ。
蓋の花模様が、いつもより右へずれている。母は几帳面だったから、置く向きはだいたい決まっていた。レオンも無意識に、それを覚えていた。
胸の奥がひやりとする。
ゆっくり近づき、針箱を開ける。
中身は、ある。
糸巻き。短い針。小さなはさみ。端切れ。
だが、一番下へ入れていたはずの父の手帳の切れ端が、なくなっていた。
「……っ」
声にならない息が漏れる。
引き出しを開ける。
棚の裏を見る。
机の下。
寝台の横。
何もない。
針箱だけじゃない。壁際の小箱も、母が布袋をしまっていた籠も、少しずつずれていた。乱暴に荒らしたのではない。見られたと気づかれないように、そっと探された跡だった。
レオンはその場にしゃがみ込む。
遅かった。
もう、探しに来ている。
今夜、家へ戻れと言われたのは、休ませるためじゃない。
置いておけば、誰かが取りに来やすいからだ。
その時、戸が二度叩かれた。
レオンの肩が跳ねる。
「……誰」 「俺だ」
トオルの声だった。
戸を開けると、トオルは息を切らして立っていた。暗い中でも、顔色の悪さが分かる。
「どうした」 「神殿の下働きが、さっき村長のとこ来てた」 「……フェルド?」 「本人じゃない。白い袖のやつ。あれが二人」
トオルは家の中へ入るなり、声を落とした。
「明日までに結論出せって。そうしないと、村の仕事の紹介と、神殿への出入りを止めるって」 「……」
村の中で、神殿の機嫌を損ねるのは重い。
出生、祝福、弔い、仕事の照会。どれも神殿と切れてはやりづらい。
トオルは唇を噛んだ。
「村長、困ってた。お前をかばいたいとか、そういう顔じゃなかった。村をどうするかって顔だった」 「分かってる」 「分かってるって顔じゃないだろ」
珍しく、強い言い方だった。
レオンは答えられなかった。
トオルは家の中を見回し、それから針箱の開いた蓋に目を留めた。
「……入られたのか」 「父さんの手帳の切れ端がない」 「くそ」
トオルが、らしくなく悪態をつく。
「やっぱり、ただ家で待ってろって話じゃないじゃないか」 「うん」 「どうする」 「……まだ決めてない」
そう答えた瞬間、自分で自分に腹が立った。
決めていないんじゃない。
もう、ほとんど決まっている。
村に残れば、証拠は削られる。仕事も外される。名前を持っていても、使う場所がなくなる。
それでも、口にすると本当に終わる気がして、言えなかった。
トオルは少し黙ってから、腰の袋を机へ置いた。
「乾パンと干し肉。あと、水入れ」 「いいよ、そんな」 「よくない」
今度は言い切った。
「俺は村の中じゃ大したことできない。でも、何もしないでいたら、たぶんずっと後悔する」
その声は震えていた。
勇ましくなんかない。
それでも、トオルなりの精いっぱいだった。
レオンは袋を見下ろす。
笑いながら「剣技強化がいい」と言っていた祝福の日の顔が、一瞬よぎる。
あの日から、まだそんなに経っていないのに、遠かった。
「……ありがとう」 「礼を言うな」 「何で」 「余計につらい」
トオルらしいようで、らしくない言い方だった。
その時、また戸が鳴った。
今度は一度だけ。
トオルとレオンが同時に息を止める。
「俺」
小さい声だった。
エドだ。
戸を開けると、エドは人目を気にするように辺りを見回しながら立っていた。肩に小さな袋を提げている。
「入っていいか」 「うん」
入るなり、エドは顔をしかめた。
「……何か探られてる」 「分かる?」 「机。籠。足跡までは見えないけど、触られた感じがある」
レオンは少しだけ笑いそうになって、やめた。
「お前までそういうの分かるようになってどうすんだよ」 「お前と一緒にすんな」
言い方はいつも通り雑だった。
けれど、そのあとで袋を差し出す。
「靴紐と、小さい包み布。あと、夜道で使える油布」 「これ……」 「村に残るなら要らない。出るなら要る」
まっすぐな言い方だった。
トオルがエドを見る。
「お前、ついてくのか」 「途中まで」 「それ、村で言うとまずいやつだぞ」 「知ってる」
エドは短く答えた。
「でも、あのままここ置いといたら、明日の朝にはもっとまずい」
部屋が静かになる。
外では、どこかの家の戸が閉まる音がした。
いつもの村の夜が続いている。
自分たちの話だけが、そこから少し外れていた。
「村長のとこ、もう一回行く」
レオンが言うと、トオルが顔を上げた。
「今から?」 「明日の朝を待っても、たぶん答えは同じだ。でも、ちゃんと聞きたい」 「何を」 「僕を守れないのか、守らないのか」
言ってから、自分の声が思ったより静かだと気づいた。
怒鳴る気力も、もうなかったのかもしれない。
村長の家の灯りは、まだ消えていなかった。
戸を叩くと、しばらくして村長本人が出てきた。顔の疲れが、昼よりも深い。
「……レオンか」 「少しだけ、話を」 「今か」 「今です」
村長はトオルとエドの顔も見て、重く息を吐いた。
「入れ」
家の中は狭く、干した薬草の匂いがした。
机の上には紙が広がっている。神殿から来た文だろう。封の切り方が乱暴だった。
村長は座らず、立ったまま言った。
「何を聞きたい」 「僕は、明日も村にいていいんですか」 「……」 「仕事から外されても、記録に触れなくても、村の中に置いてもらえるんですか」
村長の喉が動いた。
長い沈黙のあと、ようやく絞り出すように言う。
「難しい」 「守れないから?」 「守りきれん」
その一言は、正直だった。
だから痛かった。
「神殿が強いから?」 「それもある。だが、それだけじゃない」
村長は机の文を押さえた。
「村の若い者の仕事は神殿の紹介に頼ることがある。葬いも、祝福も、旅の照会もだ。ここで正面から逆らえば、お前ひとりでは済まん」 「僕のせいで?」 「そうなる」
トオルが歯を食いしばる音がした。
エドは黙っている。
レオンは少しだけ俯いて、それから村長を見た。
「じゃあ、僕は出た方がいいんですね」 「……私から言わせるな」 「でも、そういうことですよね」
村長は目を閉じた。
しばらくしてから、低く言う。
「明日の朝、正式にはそう言う。今夜のうちに準備しろ」
その言葉が落ちた瞬間、不思議なくらい胸が静かになった。
悲しくないわけじゃない。
悔しくないわけでもない。
でも、やっと形になったのだ。
曖昧に追い出されるんじゃない。
村は自分を守れない。だから、自分で出る。
「分かりました」
村長はうなずかなかった。
ただ、机の端から小さな布袋を寄こした。
「旅銭だ。村からは出せん。私個人の分だ」 「……受け取れません」 「受け取れ。でなければ、私が今夜眠れん」
その言い方に、レオンは断れなかった。
家を出ると、夜気がいっそう冷たかった。
トオルは何も言わずに前を向き、エドは小さく息を吐く。
「決まりだな」 「うん」 「明日待つ必要、あるか?」 「……ない」
レオンは自分の家の方を振り返る。
あの家に、朝までいる理由がもうほとんど残っていないことが分かった。
証拠は探られる。
村長は守れない。
神殿は明日、もっと綺麗な言葉で切ってくる。
だったら、切られる前に出た方がいい。
「今夜出よう」
そう言うと、トオルが目を見開き、エドはすぐにうなずいた。
「その方がいい」 「……気をつけろよ」 トオルの声は掠れていた。
レオンは胸元の紙を押さえる。
名前の書かれた紙。
まだ、ある。
それを持ったまま、村の外へ出る。
それだけで、今は十分だった。
夜の村道は暗かった。
けれど、立ち止まっている時より、ずっと息がしやすかった。




