メモ16 返せと言われた紙
フェルド神官の「思い込み」という言葉は、集会所の空気を静かに冷やした。
誰も大きくうなずいたわけじゃない。
けれど、村人たちの目が少しだけ揺れる。
レオンは、その揺れが嫌だった。
帳面の削り跡もある。
縄の匂いもある。
村長の証言も、老婆の言葉も、薬箱の不足もある。
それなのに、たった一言で、 扱いづらい若者の騒ぎ へ戻されそうになる。
フェルドは穏やかな顔のまま、村長へ向き直った。
「村長。神殿としては、この件をいったん預かりたいと思います」 「預かる、とは」 「記録も、人も、です」
レオンの背中が冷えた。
フェルドは、今度はレオンを見る。
「祝福の日にもらった証明書を、こちらへ預けなさい。名前もスキルも、神殿でもう一度確かめます」
祝福の日に神殿が渡す、名前と授かったスキルが書かれた大事な紙だ。
仕事の登録にも使う。
間違っていれば、別人扱いされることだってある。
「預けません」
気づけば、返事はすぐに出ていた。
フェルドは一瞬だけまばたきをした。
笑顔は消えない。
けれど、その笑顔の奥で何かが固くなったのが分かる。
「なぜです」 「僕の名前だからです」 「神殿は、その名前を消そうとしているわけではありません」 「でも、祝福の日に間違えました」
部屋が静まる。
村人たちの視線がまた集まる。
レオンは喉が乾くのを感じた。
それでも、ここで目を逸らしたくなかった。
「名前の最後の一文字が抜けていました。日付も違っていた。僕が言わなければ、そのまま渡されていました」 「事務上の書き間違いです」 フェルドは柔らかく言う。 「もう直してあるでしょう」 「だから預けません」
レオンはもう一度言った。
「直したから終わりじゃありません。間違ったままでも渡そうとした。それが嫌なんです」
フェルドの目が、ほんの少しだけ細くなる。
その時、村長が重たそうに口を開いた。
「神官様。本当に、その紙まで預かる必要があるのですか」 「あります」 フェルドは即答した。 「この子は今、村の依頼金、薬箱、荷の管理、調査隊への疑いを、すべて自分の記憶と書きつけで繋いでいます」 「……事実でしょう」 セイルが言った。
フェルドは初めて、少しだけそちらへ顔を向けた。
「記録見張り殿。私はこの子の力そのものを否定しているわけではありません」 「では、何を問題にしているのです」 「偏りです」
その一言に、レオンは胸の奥を掴まれた気がした。
「ひとつの違和感を見つけると、それに引っ張られて他も全部そう見えてしまう。若い《記録》持ちには、時々あることです」 「そんな話は初めて聞きます」 セイルの声は平らだった。 「私も初めて聞きますね」 街道番の男が低く続ける。
フェルドは笑みを崩さない。
「神殿では珍しくありません。細部へ目が行く子ほど、全体の判断を誤る」 「なら、物の方を見ればいい」
街道番の男が机の上を指した。
「帳面、銀貨、匂袋、縄切れ。全部ある」 「ありますとも」 フェルドはうなずく。 「だからこそ、余計に慎重であるべきです。証拠が揃っているように見える時ほど、人は安心してしまう」
うまい、とレオンは思った。
否定しない。
奪いもしない。
ただ、“まだ決めるのは危険だ”という顔をしながら、最後には全部神殿の手元へ持っていこうとする。
ロッサムが、その横で小さく息をついた。
さっきまで崩れていた笑顔が、少しだけ戻っている。
「神官様の言う通りですよ」 ロッサムが言う。 「こっちだって、レオンを最初から疑いたかったわけじゃない。けど、あの子は余計なことを拾いすぎる」
その一言に、集会所の奥で子どもがひとり、小さく息を呑んだ。
昨日までなら、村人たちは黙ったまま流されていたかもしれない。
だが今日は、老婆が先に口を開いた。
「余計なことじゃないよ」
杖が床を鳴らす。
「名前が違うのも、数が違うのも、薬が足りないのも、余計じゃない」 「ですが――」 「笑って流せる側には余計なんだろうねえ」
ロッサムの言葉が止まる。
フェルドは一度だけ、老婆を見た。
それだけで黙らせるような目ではない。
むしろ、ここで強く出ればまずいと分かっている顔だった。
だからこそ、次の一手がいやらしかった。
「では、こうしましょう」
穏やかな声で言う。
「証明書は本人に持たせたままで構いません」
レオンの胸が、わずかに緩む。
「ただし」
やはり来た、と思った。
「照合が済むまで、この子は村の仕事から外してください」 「な……」 村長が息を詰まらせる。
「依頼、帳簿、荷、金。どれにも触れさせない。本人を守るためでもあります。いま村の中に置けば、また混乱を呼ぶでしょう」
守るため。
その言葉が、あまりにも綺麗だった。
レオンは手を握りしめる。
爪が手のひらへ食い込む。
それは結局、 村の中で何者でもなくなる ということだった。
「そんなの、外せって言ってるのと同じじゃないですか」
気づけば、声が出ていた。
フェルドは静かにこちらを見る。
「言葉を選びなさい、レオン」 「選んでます」 喉が熱い。 「紙は持ってていい。でも仕事にも記録にも触るな。村の中で黙ってろってことでしょう」 「君は少し休むべきです」 「僕は休みたくない」 「だから、です」
その返しに、部屋がまた静まる。
フェルドは正しいことを言っている顔をしていた。
心配している大人の顔を。
それが一番腹立たしかった。
セイルが、机に手を置く。
「神殿側の提案は分かりました」 「では」 「だが、街道番としてはまだ村内調査を続けます。物は持ち帰らせない」 「もちろん」 フェルドはうなずく。 「こちらも、乱暴に奪うつもりはありません」
乱暴に、ではない。
笑って、やわらかく、当たり前みたいに外していくつもりなのだ。
村長は額を押さえたまま、長く息を吐いた。
「……今夜のうちに結論は出せん」 「でしょうねえ」 老婆が言う。 「結論なんて、怖い方へ流れやすいもんだ」 「おばあさん」 「何だい」 「少し黙っていてくれ」
村長にしては珍しく強い声だった。
それだけ、追い詰められているのだろう。
村長はしばらく考え込み、それからようやく言った。
「レオン」 「はい」 「今夜は家へ戻れ。だが、明日の朝もう一度来い」 「……はい」 「その間、神殿にも街道番にも勝手には近づくな」
つまり、まだどちらにも決めきれない。
守るとも、切るとも言えない。
その曖昧さが、逆にいちばん苦しかった。
集会所の外では、もう夜の色が村を包み始めている。
夕方の鐘は止み、代わりにどこかの家の鍋の音がした。
いつもの村の夜だ。
なのに、自分だけがもう、その中へ戻れない気がした。
フェルドは最後に、レオンへだけ聞こえるくらいの声で言った。
「頑なさは、美徳に見えて危ういこともあります」 「……」 「名前を守りたいなら、なおさらです」
脅しでもなく、慰めでもない。
その中間みたいな声だった。
だから余計に冷たかった。
レオンは返事をしなかった。
返せる言葉がなかったわけじゃない。
ここで何を言っても、この男はまた、綺麗な言い方で包んでくると分かっていたからだ。
集会所を出ると、夜の空気がひやりと頬に触れた。
戸の外には、トオルが立っていた。
ずっと待っていたのだろう。何か言いたそうな顔をしているのに、口は開かない。
「……レオン」 「うん」 「明日、どうなるんだろうな」
その問いには、答えようがなかった。
レオンはただ、胸元の紙を服の上から押さえた。
角ばった感触が、そこにあると分かる。
持ってはいる。
まだ奪われていない。
けれど、持っているだけで守れるほど、この村はもう広くなかった。




