メモ15 嘘つきの笑い顔
村へ戻るころには、空はすっかり夕方の色になっていた。
広場の端に荷車が止まると、村人たちが遠巻きに集まってくる。昨日までなら、牙獣を退けた調査隊を迎える顔だったはずだ。だが今日は違う。礼を言うでもなく、石を投げるでもなく、ただ様子をうかがう顔が並んでいる。
その視線の真ん中にいるのが、自分だとレオンは分かっていた。
街道番の男は、村長の家ではなく、広場脇の集会所を使わせた。戸が開け放たれ、夕方の風が床の埃を少しだけ動かしている。
「ここで聞く」
短い声だった。
机がひとつ。
椅子が三つ。
壁際に村長と村人たち。
そして、調査隊の面々。
ロッサムはもう一度、笑顔を作り直していた。さっき詰所で崩れたはずなのに、こういう顔を戻すのだけは早い。
「大げさにしなくてもいいと思うんですけどねえ」
誰にともなく言う。
「牙獣を退けた帰りに、ちょっと荷が乱れただけでしょう」
その言い方が、レオンは嫌いだった。
“ちょっと”で済ませたい人間の声だ。
セイルが帳面袋を机へ置く。押収した小帳面、縄切れ、匂袋、銀貨二枚も並ぶ。
「では順に聞きます」
淡々とした声だった。
「まず、村側の依頼内容から」
村長が咳払いをした。緊張しているのが見て分かる。
「牙獣三匹の討伐と、街道の確認です」 「報酬は」 「最初は八枚でした。だが、道の確認まで頼んだので、一枚足して九枚にした」
集会所の中が、わずかにざわつく。
ロッサムがすぐに笑う。
「村長さん、疲れて勘違いしてませんか」 「しておらん」 村長は珍しく強い声で言った。 「足した時、ここにいた連中も聞いていたはずだ」
その一言で、壁際にいた老婆が杖を鳴らした。
「聞いたよ。あたしもね」
薬箱を抱えていた女も、小さくうなずく。
「私もです。足した分があったから、薬もちゃんと渡してくれると思って……」
ロッサムの笑顔が少しだけ薄くなる。
「では、受け取った側」
セイルが視線を移す。
ロッサムは肩をすくめた。
「帳面の通りですよ。七枚。村側の言い分が後から変わっただけかもしれません」 「帳面の通り、ですか」
セイルが帳面を開く。受領欄を指で押さえ、ゆっくりと見せる。
「ここは削ってあります」 「さっきも聞きましたよ」 「何度でも言います。削ってあります」
笑いで流せない調子だった。
ロッサムの口元が、わずかに引きつる。
「次。薬箱」
薬箱の女が、一歩前へ出た。
「六つあると聞いていました。でも、受け取った時には五つでした」 「それは途中で使ったからだろ」 隊員のひとりがぶっきらぼうに言う。
すると、昨日薬を使った若い隊員――エドが、壁から背を離した。
「布だけです」
全員の目が向く。
エドは一瞬だけ喉を鳴らしたが、それでも続けた。
「俺、薬そのものは使ってません。切った時に借りたのは布だけです」
部屋の空気が変わる。
隊員は眉をしかめた。
「いや、でも箱から取っただろ」 「布の束です。小袋までは開けてない」
エドは言い切ってから、ほんの少しだけレオンを見た。
あの時より、目が逸れなかった。
ロッサムがすぐに口を挟む。
「じゃあ、お前の勘違いじゃないの?」 「勘違いじゃありません」
言ったのはレオンだった。
自分でも驚くくらい、声は静かだった。
「薬箱の並びが変わってました。布の束だけを取ったなら、右端だけが崩れるはずです。でも実際は、下の段までずれていた」
村人たちが、レオンを見る。
その視線は、前よりずっと静かだった。
“また細かいことを”ではなく、“本当に見ていたのか”へ少しだけ変わっている。
セイルがうなずく。
「その説明は、先ほどの現場とも合います」
そこで街道番の男が、銀貨二枚を机へ置いた。
からり、と乾いた音がした。
「これはレオンの荷から出た」 短く言い、 「だが、その直後にガイゼルの鞍袋から匂袋が二つ出た」
村の女が顔を青くする。
老婆は目を細めた。
「どっちか片方だけの話じゃないってことかい」 「そうです」 セイルが答える。 「だから今、順番に切り分けています」
順番に。
その言葉だけで、レオンは少しだけ息がしやすくなった。
「最後に、縄です」
セイルが黒く湿った縄切れを持ち上げる。
「昼に荷を押さえた縄と、朝の縄の巻き方が違っていた。そうですね」 「はい」 エドが答える。 「結び直したのは俺です。でも、あんなふうに深く回してません」
村長が低く言う。
「つまり、誰かがあとから触った」 「その可能性が高いです」
セイルの返答は速かった。
ロッサムが笑おうとして、失敗したみたいな顔になる。
「それ、全部こじつけじゃないですか。記録係の――」 「あんた、さっきからそうやって笑うねえ」
老婆が口を挟んだ。
ロッサムの言葉が止まる。
「笑ってれば、誰かが怖がって黙ると思ってる顔だよ」 「……何ですか、それ」 「見てりゃ分かるさ」
大きな声ではない。
けれど、その一言で村人たちの顔がまた少し変わる。
レオンは、初めて見た。
ロッサムの笑顔が、本当に崩れる瞬間を。
「以上です」
セイルが帳面を閉じた。
「現時点で確定しているのは、受領金の改竄、薬箱の不自然な不足、匂袋の存在、縄への細工です」 「そして、そちらの若者ひとりを犯人に決めるには、材料が足りない」 街道番の男が続ける。
部屋の隅で、誰かが小さく息を吐いた。
安堵か、困惑かは分からない。
ただ一つだけはっきりしているのは、もう “全部レオンが悪い” では押し切れなくなったことだった。
その時だった。
戸口の外で、靴音が止まる。
集会所に入ってきたのは、フェルド神官だった。白衣は乱れていない。夕方の光を受けて、祝福の日と同じ穏やかな顔をしている。
「ずいぶん大きな話になっていますね」
その声だけで、部屋の空気が少し張り直された。
ロッサムの目に、かすかな安堵が戻る。
やはり、そういうことかとレオンは思う。
フェルドは机の上の帳面と銀貨をひと目見てから、村長へ向き直った。
「神殿としても看過できません。ですが、こうした混乱の場では、余計に人の思い込みが混ざることがあります」 「思い込み、ですか」 セイルが問う。
「ええ」
フェルドは穏やかに微笑む。
「特に、ひとつのことを強く気にする若者は、事実と解釈を混ぜやすい。祝福の時から、この子はそういう傾向がありましたから」
その一言で、村人たちの視線がまた少し揺れた。
レオンは唇を噛みそうになって、やめた。
これだ。
ここで全部をひっくり返すのではなく、また“扱いづらい若者”へ戻そうとする。
フェルドはレオンを見る。
「レオン。まずは神殿へ証書を預けなさい。記録も身元も、こちらで改めて確かめます」 「預けません」
気づけば、返事はもう出ていた。
部屋が静まる。
フェルドの笑顔は消えなかった。
だが、目だけがほんの少し冷えた。
「なぜです」 「僕の名前だからです」
短く言ってから、レオンは自分の手が少し震えているのに気づいた。
それでも、目だけは逸らさなかった。
フェルドは一拍だけ黙り、そしてまた穏やかに言った。
「……そうですか」
その声が、かえって怖かった。
笑っているのに、引いていない。
まだ終わらせる気がない声だった。
集会所の外では、夕方の鐘が鳴り始めていた。
村へ夜が降りる音なのに、レオンには、何か別のものが近づいてくる音に聞こえた。




