メモ14 鞍袋の中
白い袖が、朝の街道の向こうで揺れた。
神殿の使いだ。
その姿が見えた瞬間、ロッサムの口元がわずかに持ち上がる。助けが来た、とでも思ったのだろう。
けれど、レオンの目はそちらではなく、別の場所へ引かれていた。
ガイゼルの右手だ。
さっきまで机の縁に置かれていた手が、今はほんの少しだけ腰の後ろへずれている。剣へ行く手つきじゃない。もっと小さいものを、気づかれないうちに落とす時の動きだった。
しかも、視線だけは神殿の使いへ向いている。
わざとだ。
人の目がそちらへ集まる、その一瞬を待っている。
頭の中で、見た順が並ぶ。
白い袖。
ロッサムの笑み。
ガイゼルの右肩の沈み。
腰の後ろへ入る指。
鞍袋の口の影。
つながる。
「待って!」
レオンの声が、狭い詰め所の前へ鋭く走った。
全員の視線が跳ねる。
ガイゼルの動きが、そこで半拍だけ遅れた。
「右の鞍袋です!」
レオンは叫ぶ。
「そこ、今触りました!」
一瞬の沈黙。
そのわずかな遅れのあいだに、ガイゼルの指先が袋の口へかかった。だが、先に動いたのは街道番の男だった。
一歩で間合いを詰め、ガイゼルの手首をひねり上げる。
「……っ!」
鞍袋の口から、握りつぶしかけた何かが地面へ落ちた。
葉で包まれた、小さな黒い塊。
乾いた土の上で転がり、結び目がほどける。
甘い匂いが、朝の冷えた空気にふっと広がった。
村の女が息を呑む。
「また……」
エドの顔から血の気が引いた。
セイルはすぐにしゃがみ込み、落ちた包みを拾い上げた。葉の折り方、縄の巻き方、湿り方。ひとつずつ、確かめるように指先で触る。
「匂袋ですね」
低く、はっきり言う。
「しかも新しい。昨夜の残りではありません」
ガイゼルの顔が、そこで初めてわずかに動いた。
「違う」 「何が違う」 街道番の男が手首をねじったまま問う。
「それは俺のものじゃない」 「では、なぜ捨てようとした」 「捨てるつもりじゃ――」 「袋の口に指が入っていた」
セイルが淡々と言った。
「落としたのではなく、出そうとしていたように見えました」
逃げ道を削るみたいな言い方だった。
ロッサムが、そこでようやく口を挟む。
「いやいや、待ってくださいよ。隊長だって混乱して――」 「お前も動くな」
街道番の男が低く言う。
短い声だった。
だが、それだけでロッサムの足が止まる。
セイルはそのまま鞍袋へ手を入れた。中を探り、さらにもうひとつ、小さめの葉包みを取り出す。
「二つ目」
その言葉が落ちた瞬間、場の空気が完全に変わった。
さっきまでレオンへ向いていた疑いが、今度ははっきりとガイゼルとロッサムへ移る。村人たちの顔から血の気が引き、隊員たちまで口を閉ざした。
「……レオン・グランツ」
セイルが名を呼ぶ。
「はい」 「お前、今の動きが見えたのか」 「見えたというより……順番が変でした」 「順番?」
セイルの目が細くなる。
「神殿の使いが見えた時、みんなそっちを見ました。でも、ガイゼルさんだけ、先に右肩が落ちた。剣へ行く時の動きじゃなかった。小さいものを隠す時の動きでした」 「……」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
その沈黙の中で、エドがぽつりと呟く。
「まただ」
全員が彼を見る。
エドは喉を鳴らし、それでも言葉を続けた。
「縄の時もそうだった。こいつ、見たものを順番で拾うんです。だから、変なとこだけ浮く」
前より、少しだけまっすぐな声だった。
ガイゼルが低く唸る。
「順番だの何だの、そんな曖昧な――」 「曖昧ではありません」
セイルが切った。
「だから私は、今こうして物を押さえている」
その一言で、また静かになる。
白い袖の神殿使いが、ようやく詰め所の前まで来た。若い下働きらしい男で、息を切らしている。場の空気がおかしいと気づいたのか、戸惑った顔で足を止めた。
「ふ、フェルド神官から伝言です。件の若者は神殿で――」 「あとです」
セイルは振り返りもせずに言った。
若い使いは口を開けたまま固まる。
「今は街道番が預かっています」 「し、しかし」 「あとです」
同じ言葉なのに、今度はもっと冷たかった。
使いはそれ以上言えず、白い袖のまま立ち尽くす。
ロッサムの顔が、そこで初めて本当に曇った。
神殿の名前を出せば空気を戻せる。そう思っていたのだろう。
戻らなかった。
村の老婆が、小さく息を吐く。
「やっぱりねえ」 「何がです」 セイルが問う。
老婆はガイゼルを見たまま言った。
「牙獣が寄るようになってから、妙に都合がよすぎたんだよ。道は荒れるし、薬は減るし、なのに毎回『たまたま』で済まされる」
薬箱を抱えた女も、怯えた顔のままうなずいた。
「今朝も、あの子ばっかり疑って……」 「疑われて当然でしょう」
ロッサムが反射で言い返す。
だが、その声にはもう余裕がなかった。
「荷から金が出て、包みも出て――」 「そのすぐあとで、あんたらの方からも出たじゃないか」 老婆が返す。
また、ぴしりと空気が鳴る。
大声ではない。
けれど、さっきまでロッサムが握っていた“笑って押し切る空気”が、もうほとんど残っていないのが分かった。
街道番の男が、ガイゼルの手首を離さないまま告げる。
「村へ戻る。そこで正式に聞く」 「神殿でなく?」 若い使いが思わず聞き返した。
「まずは街道番だ」
その言い方には、動かしようのない硬さがあった。
セイルは匂袋を革鞄へ入れ、続いて帳面袋、小帳面、縄切れも順にしまう。最後に、地面の土へ転がった銀貨二枚を拾い上げた。
「これも預かります」
ロッサムが唇を噛む。
ガイゼルは露骨に眉を寄せた。
だが、どちらももう押し返せない。
そこで初めて、レオンは胸の奥の力が少し抜けるのを感じた。
全部勝ったわけじゃない。
村へ戻れば、まだ何がどうなるか分からない。
神殿も黙っていない。
それでも今、ひとつだけはっきりしていることがある。
見た順に、残した順に、話したことが、初めて人を動かした。
街道番の男が、レオンを見る。
「歩けるな」 「……はい」 「なら村まで自分の足で来い。だが勝手に離れるな」 「分かりました」
拘束は解かれない。
完全に信用されたわけでもない。
その中途半端さが、むしろ本物だった。
甘い匂いの残る朝の空気の中、隊は向きを変える。今度は本当に、村への道だ。
その時、エドがすれ違いざま、ほんの一瞬だけ小声で言った。
「……さっきの、すごかった」
聞き返す前に、もう離れている。
顔も見えない。
けれど、レオンには十分だった。
前を向く。
村へ戻れば、まだ終わらない。
むしろ、そこからだ。
そして詰め所の前に残された白い袖の若い使いは、去っていく一行を見ながら、あからさまに困った顔をしていた。
あの顔は、きっとフェルドへそのまま持ち帰られる。
そう思った時、レオンの背筋を、別の冷たさが走った。




