メモ13 開いた帳面
先頭の男が馬を止めると、朝の薄い光が濃紺の外套の縁を白くなぞった。
「街道番だ。昨夜この先で牙獣の騒ぎがあったと聞いた。通行記録と報告帳を見せろ」
声に迷いがない。
その後ろで、灰色の服に革鞄を下げた男が馬を降りた。痩せた顔をした男で、寝不足みたいな目をしている。だが、その目だけは妙に醒めていた。
「受領金、依頼内容、荷の管理。見るのは全部です」
淡々とした言い方だった。
言い直しも、曖昧さもない。
ロッサムが、口元だけで笑う。
「もちろん。きちんとつけてますよ」
その笑顔に、レオンの喉がまた乾いた。
気づくな。
いや、違う。
今度は、ちゃんと気づいてくれ。
ロッサムは帳面袋を外し、大きい方の帳面を取り出した。小さい帳面は見えない。懐へ入れたままなのだろう。
灰色の男が手を差し出す。
受け取る。
開く。
指が数枚を流れる。
その動きが、レオンにはやけに遅く見えた。
村の頁だ。
落ちるなら、今だ。
灰色の男の指先が、その頁の端へ触れた。
ぱさり。
薄い紙が一枚、帳面の間から滑り落ちた。
続いて、細い縄切れが跳ねる。
さらに、その紙へ挟まれていた小さな切れ端も、ひらりと地面へ落ちた。
場が止まる。
ロッサムの笑みが、ほんのわずかに固まった。
「……何ですか、それ」
最初に声を出したのはロッサムだった。
驚いたふりはうまい。だが、目だけが違った。
灰色の男はしゃがみ込み、落ちた紙を拾う。縄切れも拾う。切れ端も指先でつまみ上げる。
レオンの胸の奥で、心臓がひどく強く打った。
読め。
それを、順に。
灰色の男はまず紙を開いた。短い文字列へ視線が走る。
九枚受け取り、七枚渡し、二枚残し。
匂袋二つ。小屋跡、朝前。
次に、切れ端を見る。
残っている文字は二つだけだった。
九枚
さらに縄切れへ鼻先を寄せる。顔がわずかにしかむ。
「……甘いですね」
街道番の男が問う。
「何だ」 「帳面の間から紙が出ました。縄にも匂いが残っています」
灰色の男は立ち上がり、今度は帳面の該当箇所を開く。受領欄へ指を置き、しばらく黙った。
レオンは思わず口を開いていた。
「そこです」
全員の視線が向く。
「九の払いを削って、七へ寄せてます」
ロッサムがすぐに笑う。
「また始まった」 「黙っていてください」
灰色の男が先に言った。
声は高くない。
それでも、その一言でロッサムの口が閉じる。
男は受領欄を斜めに傾け、朝の光へ透かす。
「……なるほど」
今度は街道番の男へ向けて言う。
「削っています。元の筆圧が残っている。九の払いを浅く削って、七に見せかけている」 「見れば分かるのか」 「分かる」
灰色の男は短く切った。
「私はそれを見る仕事です」
その瞬間だけ、レオンはこの男を好きになりかけた。
ロッサムが慌てて一歩出る。
「いやいや、待ってくださいよ。そんな紙、こいつが勝手に挟んだのかもしれないじゃないですか」 「かもしれません」
灰色の男はうなずいた。
「だから紙だけでは見ない。縄も見る。帳面も見る。削り跡も見る。順番に確認する。それが仕事です」
逃げ道をふさぐみたいな言い方だった。
その時、村の老婆が一歩前へ出た。
「九枚だよ」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
老婆はいつものゆっくりした口調で、だが今は妙にはっきり言う。
「元が八枚。そこへ村長が一枚足した。あたし、その場にいたもの」 「わ、私も聞きました」 薬箱を抱えた女も続く。 「道の確認まで頼むって……だから村長が」
ロッサムの笑顔が、今度こそ少しずれた。
「記憶違いじゃありませんか」 「あんたほどじゃないよ」
老婆が返す。
大声でもなく、怒鳴りでもない。
なのに、その一言で場の空気がぴしりと鳴った気がした。
ロッサムが握っていた軽さが、初めて崩れる。
ガイゼルが低く息を吐く。
「帳面一冊で騒ぎすぎだ」 「帳面一冊の話ではありません」
灰色の男が言う。
「金の食い違い、匂袋、縄切れ、村の証言。全部つながっています」
その瞬間、エドが一歩前へ出た。
「あの」
声は少しだけ掠れていた。
「昼の縄、結び直したの俺です」 「それが?」 街道番の男が見る。
「今朝の巻き方と違いました。俺は二回引いて、一回しか巻いてない。あんなふうに深く回してません」 「……見たのか」 「見たってほどじゃないです。でも」
そこでエドは、ちらりとレオンを見た。
「こいつがそう言った時、ぞっとしたんです。俺、ほんとにその通りに結んだから」
レオンは思わずエドを見返した。
怖がっている顔だった。
でも、今は逸れなかった。
ロッサムが何か言いかける。
その前に、街道番の男が低く言った。
「黙れ」
初めてだった。
ロッサムが、そこで本当に口を閉じたのは。
ガイゼルが机を指で叩く。
「で、どうする」 「預かります」
灰色の男は即答した。
「帳面も、縄切れも、包みも。ついでに、あなたたちもです」 「待ってくださいよ」 ロッサムが笑いを作ろうとする。 「俺たちは依頼を受けて動いただけで――」 「だから預かるんです」
短い。
だが、もう笑いで押せる空気ではなかった。
灰色の男は帳面を閉じ、紙と縄切れをその上へ重ねる。革鞄へ入れる音が、妙に重く響いた。
そこで初めて、レオンは肩の奥の力が少し抜けるのを感じた。
全部ひっくり返ったわけじゃない。
疑いが消えたわけでもない。
でも、紙は届いた。
《記録》が、初めて他人の手で読まれた。
「レオン・グランツ」
灰色の男が名前を呼ぶ。
「はい」 「あとで、お前からも話を聞きます。見た順に、全部」 「……はい」 「推測は分けろ。見たこと、聞いたこと、覚えていること。それぞれです」 「分かりました」
その言葉だけで、胸の奥が少し静かになる。
順に話せばいい。
それならできる。
街道番の男が周囲を見回した。
「ここから先は村へ戻って正式に聞く。荷も、人も、勝手に触るな」
ガイゼルが、ほんのわずかに眉を動かした。
ロッサムはもう、うまく笑えていなかった。
それでも完全には崩れない。
まだ、何かを待っている顔だ。
その視線の先を追って、レオンはようやく気づいた。
街道の向こうから、白い袖が揺れている。
神殿の使いだ。
それを見た瞬間、ロッサムの口元がわずかに持ち上がった。
やはり、まだ終わっていない。




