第7章 霜谷の夜と共犯の契約 後編
夜明けの灯の間は、負傷者の息で満ちていた。
白灯宮の療養室だけでは足りず、灯の間の壁際に毛布が敷かれている。村人、使用人、護衛。誰がどちらの国の者かを問う余裕はなかった。
リゼは銀の灯台の前に立ち、まだ震えている指を袖の内側へ隠した。ノアは金の灯台の側にいる。彼の頬には霜で切れた細い傷があり、袖口は泥で汚れていた。
それでも、彼は笑っていた。
泣きそうな子どもに向かって、たいしたことはないと手を振るための笑みだった。
リゼはその笑みを見て、胸の奥が痛くなる。
「点呼は」
ヴェルカが問う。
ユルダが帳面を抱えて答えた。
「村人二十三名搬入。行方不明なし。凍傷三名。備蓄小屋の油壺二つ破損。薪束は半分残せました」
言い終える前に、壁際の子どもが咳き込んだ。ミナだった。母親が慌てて背をさすり、トルが湯の椀を取りに立つ。
カイルが出口を指した。
「走るな。湯はこぼすな。通路を空けろ」
「白灯宮側」
「夜番二名負傷。下働き一名が腕を痛めています」
セリナが続ける。
「銀雪側侍女二名を療養補助へ回しました。名はまだ記録しないでください。本人たちが証言者扱いされます」
ヴェルカはうなずいた。
「業務名で残します」
カイルが壁にもたれ、腕を組んでいる。彼の表情は疲れているが、目だけは動いていた。出口、負傷者、灯台、王族二人。すべてを数えている。
「次も同じ対応では持ちません」
彼が言った。
「次がある前提か」
ノアが返す。
「次がない前提で動く人間は、現場にいりません」
厳しい。だが、誰も反論しなかった。
銀の灯台が、そこで一度だけ細く跳ねた。灯守が短く息を呑み、記録係が慌てて時刻を書きつける。
ヴェルカは灯から目を離さずに言った。
「話しながら手を動かしなさい。余震は会議を待ちません」
ヴェルカが灯台へ歩み寄る。
「昨夜の揺らぎは、片灯落ち寸前でした。今回は殿下方の連携で第一段階へ押し戻しましたが、白灯宮の手順だけでは補えません」
リゼは息を吸った。
白灯は、まだ安定している。銀と金の灯が、夜明けの薄い光の中で静かに揺れていた。昨夜、荷路で重なった時の感覚が身体に残っている。
彼の動きを信じた。
考えるより先に。
その事実が、怖かった。
「非公式の連携が必要です」
リゼが言うと、ノアがこちらを見た。
「同盟って言うと、ずいぶん大げさだけど」
「大げさではありません。必要です」
言葉は固くなった。固くなるほど、リゼは自分の中の動揺を隠せる。
ユルダが目を細める。
「同盟なら、名前より先に分担です」
「同感だ」
カイルが短く言う。
ヴェルカは灯の間の中央へ立ち、ひとりずつ見た。
「白灯宮の正式な記録には残しません。残せば、両国に解体されます」
「では、どうするのですか」
リゼが問う。
ヴェルカは包帯を運ぶ下働きへ道を譲らせてから続けた。
「通常業務として動かします。厨房は湯を沸かす。灯火係は暖気を見る。外周番は巡回を増やす。侍女は療養を手伝う。護衛は補給路を見る。記録守は人数を数える。殿下方は」
ヴェルカの目が、ノアとリゼへ向く。
「決断を遅らせない」
リゼの喉が詰まった。
ノアは静かにうなずく。
「俺は、人を動かす。春灯側の護衛と使用人に話を通す。あと、王都から来る紙を遅らせる方法を考える」
「リゼ殿下は」
セリナが促す。
「銀雪側の侍女、文官、使者の動きを整理します。必要な情報は集めますが、名を不用意に渡しません」
「わたしは侍女たちの経路を見ます」
セリナが続ける。
「誰が何を知っているかを、知られてはいけない順に分けます」
「俺は補給路と避難路」
カイルが言う。
「夜間合図も決める。王子と王女が揉めても、道は閉じないようにする」
「揉める前提なのがいいね」
「揉めない前提の計画よりましです」
ノアが少し笑った。
ユルダは帳面を閉じる。
「わたしは村の名簿と備蓄表を持つ。嘘があれば照合します。王族でも、逃げないなら、そのあとで話を聞きます」
逃げないなら。
リゼはその言葉を受け止めた。
同盟とは、信頼の宣言ではない。逃げないことを毎回証明する手順だ。
ヴェルカが最後に言った。
「わたくしは記録を守ります。必要なものは残し、危険な名は隠す。中立の顔は保ちますが、白灯宮の人間を差し出す中立はございません」
灯の間に沈黙が落ちた。
それは重かったが、昨日までの沈黙とは違った。誰かが決めるのを待つ沈黙ではない。次に何をするかを、それぞれが頭の中で数えている沈黙だった。
ノアがリゼを見る。
「仮の共犯から、ずいぶん人数が増えたね」
「呼び方は変えるべきです」
「じゃあ、非公式同盟」
「まだ仮です」
「そこは譲らないんだ」
「譲りません」
ノアの笑みが、少しだけ柔らかくなる。
リゼは目をそらした。灯台の銀の光が、彼の金の灯と並んでいる。昨夜よりも静かに。けれど、確かに。
信じるには早い。
だが、逃げない相手だとは思い始めている。
それを言葉にするには、まだ少し難しかった。
ヴェルカが杖の先で床を一度叩いた。
「では、始めましょう。白灯宮は祈りだけで立っている場所ではありません。段取りと忍耐で立っております」
朝日が窓に差す。
夜の冷えはまだ消えない。それでも灯の間には、湯の匂いと、紙をめくる音と、誰かの名を呼ぶ声が満ちていた。
白灯宮を守るための、最初の朝だった。
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