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第8章 戻れない手順

春灯王国の使者は、白灯宮の謁見室に春の香を持ち込んだ。


 南方の花を練り込んだ香油。温かな織物。王都の宴で使われる柔らかな言い回し。ノアはそれらを前に、懐かしさより先に息苦しさを覚えた。


「殿下、王都では皆、殿下のご帰還を案じております」


 使者は礼儀正しく言った。


「それは光栄だね。俺がいないと宴の冗談が足りないからかな」


「ご冗談を。白灯宮の状況は予想以上に不安定と聞き及んでおります。ここは一度、王都へ戻られ、しかるべき後任へ」


 後任。


 その言葉は、以前よりも冷たく響いた。


 ノアは笑みを崩さなかった。崩せば、使者はそこを報告する。第三王子が不安定になっている。白灯宮の影響を受けている。戻すべきだ、と。


「後任を送るには、引き継ぎの記録が要るよ。白灯宮は細かいからね」


「記録は王都で精査できます」


「白灯宮の暖気と外周結界も、王都で温まる?」


 使者が口を閉じる。


 ノアは少しだけ声を柔らかくした。


「俺はまだ戻らない。儀式確認が不安定なまま王子が交代すれば、それこそ春灯が責任を避けたように見える」


 これは嘘ではない。


 だが、全部でもない。


 本当の理由は、荷路で子どもの手を引いた感触がまだ残っているからだ。ユルダの名簿、カイルの補給表、ヴェルカの点呼、セリナの伏せた名。そこから自分だけ帰る道は、もう見えなかった。


「では、王都へはどのように」


「双灯の揺らぎは第一段階へ戻った。白灯宮の手順に従い、外周と暖気の確認を継続中。俺は春灯側人員の統率に当たる」


 使者はその言葉を書き取った。


 筆先が一度止まる。


「殿下ご自身の言葉として、そう記してよろしいのですね」


「もちろん」


「王都では、白灯宮側の記録と照合されます」


 ノアは笑みを薄くした。


「照合できるなら、なおさら丁寧に書いて」


 ノアは胸の奥で、初めて国へ意図的な隙間を作った。


 嘘は、思ったより静かだった。


――――――――


 銀雪側応接間では、香ではなく沈黙が置かれていた。


 リゼの前に座る銀雪使者は、老いた文官だった。声は穏やかで、言葉は正しい。


「殿下。銀雪王国は、白灯宮の安定を何より願っております」


「承知しています」


「だからこそ、軽率な発言はお控えください。双灯の揺らぎが春灯側の不手際であったとしても、証拠の扱いを誤れば、銀雪側の侍女や文官まで調査対象になります」


 リゼの指が、膝の上で止まった。


 それは脅しだった。同時に、真実でもあった。


 セリナが背後に控えている。彼女の呼吸は乱れていない。だが、リゼには分かる。侍女たちの名、書簡の経路、弟の部署。セリナはすでに、調査がどこへ伸びるかを数えている。


「沈黙すれば、守れると」


「少なくとも、王国の内側にいる者たちは」


「白灯宮の者たちは」


 文官は一拍遅れた。


「白灯宮は中立地です」


 便利な言葉だ、とリゼは思った。


 中立。つまり、誰のものでもない。誰の責任でもない。必要な時だけ和平の象徴になり、危険になれば距離を置かれる。


「返書には、こう記してください」


 リゼは机上の紙を引き寄せた。


「双灯の揺らぎは現在第一段階に留まり、白灯宮の通常手順にて確認中。銀雪側人員は王国の名誉を損なわぬよう、慎重に対応している」


 文官がうなずく。


「よろしいかと」


 だが、筆を取る前に老文官はリゼを見た。


「白灯宮の通常手順、という表現は広すぎます。どなたが手順を確認なさったのか、添えておくべきでしょう」


 リゼは目を伏せなかった。


「白灯宮灯守長の確認です。必要なら、わたしの名を添えてください」


 セリナの呼吸が、背後でほんのわずかに止まった。


 リゼは筆を止めずに続けた。


「なお、外周結界と暖気の維持には銀雪側人員の継続配置が必要であり、現時点での引き上げは儀式安定に支障を来す恐れがある」


 文官の目が細くなる。


「殿下」


「事実です」


 リゼは顔を上げた。


「わたしは事実を書いています」


 嘘ではない。


 けれど、王国が期待した沈黙でもない。


 応接間を出ると、セリナが隣へ並んだ。


「殿下」


「叱りますか」


「いいえ。文面は巧みでした。ただ」


「ただ?」


「嘘は、手順を増やします。侍女たちにも、余計な口を開かせない準備が必要です」


 リゼはうなずいた。


 国へ嘘をつくとは、自分一人が汚れることではない。自分の周りの者に、黙る手順を配ることだった。


――――――――


 地下貯蔵路には、古い石と灯油の匂いがこもっていた。


 ノアは箱の蓋を開け、毛布の束を数える。カイルは壁に印をつけ、セリナは誰がどの箱に触れたかを業務名で記録している。ユルダは村の備蓄表を広げ、白灯宮の数と照合していた。


「同盟って、もっとこう、誓いの言葉とかあると思ってた」


 ノアが言うと、カイルが即座に返した。


「誓いで毛布は増えません」


「知ってた」


 リゼが表を見ながら言う。


「毛布は三十六。村へ回せるのは十二。残りは療養室と外周番用です」


「十二では足りません」


 ユルダの声は平板だ。


「足りない分は」


「銀雪側の客室から薄掛けを四枚。春灯側の予備外套を三枚。あとは厨房の麻袋を重ねる」


 ノアが答える。


 リゼが彼を見る。


「春灯側の予備外套を出せるのですか」


「俺が寒がりをやめれば」


「冗談ではなく」


「冗談じゃないよ」


 その声は静かだった。


 リゼは何も言わず、表へ書き込んだ。


 ヴェルカが貯蔵路の入口に立っている。


「記録は二重に。正式台帳には通常移送。非公式控えには実数と移送先。名は業務で残しなさい」


「白灯宮の台帳に虚偽は書かないのですね」


 セリナが問う。


「虚偽は書きません。見せる順を変えるだけです」


 老女官の言葉に、ノアは感心したように息を吐いた。


「中立って、けっこう技術なんだな」


「責任を遅らせるには、とても役に立ちます。命を守るにも、少しは」


 その夜、地下貯蔵路で非公式同盟は初めて実働した。


 派手な誓いはない。


 あるのは毛布の数、灯油の瓶、合図の回数、見張りの立ち位置。国へ返す手紙の余白と、台帳に書かない名前。


 戻れない一線は、剣を抜く時ではなく、紙に嘘ではない隙間を書いた時に越えるのだと、ノアは知った。


ここまでお読みいただきありがとうございます。次話も毎日19時に更新予定です。


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