第7章 霜谷の夜と共犯の契約 前編
その夜、白灯宮の外周路で、灯が鳴った。
音と呼ぶには細い。けれどリゼには、銀の灯が骨の内側で震えたように感じられた。窓の外へ目を向けると、外周結界の白い膜が一瞬だけへこみ、次の瞬間、回廊の燭台がまとめて暗くなる。
「セリナ」
「すでに外套を」
セリナは答える前に動いていた。リゼは外套に袖を通しながら、昼間のユルダの帳面を思い出す。薪束、老人、子ども、吊り橋。数字と名前が、一斉に胸の内側で灯った。
廊下へ出ると、白灯宮の使用人たちが走っていた。
「外周南路で冷気が上がっています」
ヴェルカが杖も持たずに歩いてくる。老女官の声は、廊下の混乱を切った。
「灯火係は療養室へ。厨房は湯を二釜。銀雪側護衛は外周路、春灯側は荷路へ。殿下方」
リゼと、反対側の廊下から現れたノアが同時に振り返る。
「責任の名は、点呼のあとで結構です」
「分かりました」
リゼは即答した。
ノアも笑わなかった。
「カイルは?」
「荷路です。もう動いております」
それだけで、事態の重さが分かった。
外へ出た瞬間、冷気が喉を刺した。第一段階の揺らぎではない。外周路の石畳に霜が走り、結界の向こうで影が動く。小さな霜獣が一匹、白い枝のような脚で斜面を駆けた。
「まだ単独です」
リゼが言う。
「単独ならいい話?」
「群れになれば、荷路が閉じます」
ノアの目が谷の方へ向いた。
その時、下の荷路から鐘が三度鳴った。
カイルの合図だ。
「取り残しあり」
ノアが短く言う。
「行く」
「待ってください。護衛を」
「護衛を待ってる間に、誰かが凍る」
リゼは彼を止めようとして、止めなかった。
「わたしも行きます」
「殿下」
セリナの声が鋭くなる。
リゼは振り返らずに言った。
「銀雪側護衛を二名、療養室へ。残りは外周路。わたしは荷路で優先順位を決めます」
自分でも驚くほど、言葉は迷わなかった。
――――――――
霜谷の荷路は、夜の底で白く裂けていた。
ノアは息を切らしながら斜面を下りた。足元で霜が砕ける。前方ではカイルが若い護衛二人を使い、倒れた荷車を道の端へ寄せていた。
「殿下、遅い」
「走ってきたんだけど」
「走る前提の道じゃありません」
カイルは振り返りもせず、荷車の下を指す。
「子どもが二人。奥に村人三人。霜獣は斜面上。先に荷車を起こすと、道が空いて獣も下りる」
「じゃあ?」
「人を先に抜く。声を出しすぎると寄る」
ノアはうなずき、荷車の隙間へ膝をついた。
「聞こえる? 俺はノア。王子だけど、今は邪魔な荷車係」
小さなすすり泣きが返る。
「泣いていい。ただ、手はこっちに伸ばして」
背後でリゼの声がした。
「外套を一枚。小さい子から包んでください。歩ける者を先に出すのではありません。出せば道を塞ぎます。抱えられる者から」
ノアは荷車の下から子どもの手をつかんだ。
冷たい。驚くほど冷たい。
引き出した子どもをリゼが受け取る。彼女の手は震えていたが、指示は正確だった。
「セリナ、名前を聞いて。聞けなければ服の色だけでいい。誰を出したか分からなくなるのが一番危険です」
「はい」
霜獣の鳴き声が近づく。氷を削るような音だった。
ノアは二人目の子どもを引き出し、カイルに渡した。
「上から来る」
カイルが短く言う。
「何匹?」
「三。いや、五」
群れだ。
ノアは顔を上げた。斜面に白い影が増えている。結界の揺らぎが大きくなり、谷の冷気が獣の形を取り始めている。
「リゼ」
「見えています」
彼女は銀の灯を手のひらに集めた。儀式の灯ではない。細い、けれど確かな光が外套の袖口から漏れる。
「道の左を閉じます。右へ寄せてください」
「了解」
ノアは金の灯を呼ぶ。胸の奥が熱くなり、寒さで固まった空気に細い道が生まれる。彼の灯は強い壁にはならない。だが、人が息をするだけの温度を作ることはできた。
リゼの銀の光が斜面の霜を固め、霜獣の脚を一瞬だけ止める。
「今」
ノアが叫ぶ。カイルが村人を押し出し、セリナが子どもを抱えた侍女を先導する。ユルダはいつの間にか荷路の下から来ており、名を呼びながら人数を数えていた。
「ミナ、出た。トル、出た。老人二人、まだ」
「名が分かるのか」
ノアが息の間に言うと、ユルダは彼を見もしなかった。
「谷では数える前に名前です。数だけなら、あとで減らされる」
その言葉が、冷気より深く刺さった。
霜獣が跳んだ。
ノアは前へ出る。怖くないわけではない。けれど、ここで下がれば子どもの背中へ行く。
「カイル!」
「右へ寄せろ!」
カイルの剣が霜獣の脚を弾く。ノアの金の灯が一瞬だけ熱を増し、リゼの銀の灯がそれを受けて結界の破れへ流れた。
二つの灯が、迷う暇もなく重なる。
昼間のような探り合いではない。誰が敵か、どちらが正しいかを考える前に、次の一手を信じなければ人が死ぬ。
霜獣の体が砕け、白い粒になって散った。
リゼが膝をつく。
「リゼ!」
「大丈夫です。次を」
大丈夫ではない声だった。
それでも彼女は立ち上がる。
ノアはそれ以上聞かなかった。彼女が止まらないなら、自分も止まれない。
荷路の奥で、最後の老人が引き出された。
ユルダが名を呼ぶ。
「全員ではない。備蓄小屋に二人」
カイルが舌打ちした。
「道が閉じる」
「閉じる前に行く」
ノアが言う。
カイルが彼を見た。
「殿下が来るなとは言いません。ただ、来るなら足手まといにはならないでください」
「努力する」
「努力じゃなく、足です」
ノアは短く笑った。怖さを消すためではなく、足を動かすために。
リゼが隣に並ぶ。
「左を固めます」
「右を温める」
「合図は」
「君が息を吸ったら」
リゼが一瞬だけこちらを見る。
信じた、とは言わなかった。
だが彼女は、息を吸った。
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