第6章 谷の村の記録
霜谷の村へ下りる道は、白灯宮から見下ろすよりずっと狭かった。
ノアは馬を降り、凍った吊り橋を歩いて渡った。板は古く、踏むたびに低く鳴る。隣ではリゼが外套の裾を押さえ、足元を一度も見落とさずに進んでいる。
「殿下方、ここで立ち止まらないでください」
カイルが前から言った。
「橋の上で景色を見る人間は、だいたい邪魔です」
「観光じゃないって分かってるよ」
「分かっている人ほど、足が動きます」
ノアは口を閉じた。言い返すより、歩いたほうが早い。
村の入口には、数人の村人が立っていた。歓迎の旗も、礼の列もない。薪を抱えた老人、子どもの手を引く女、腕を組んだ若者。女の隣の子はミナと呼ばれ、若者はトルと呼ばれて薪束を受け取っていた。彼らの視線は、王族を見る目ではなかった。
通り過ぎる人間を見る目だ。
「春灯王国第三王子、ノア・ベルンです」
「銀雪王国第二王女、リゼ・アルシアです」
二人が名乗っても、空気は変わらない。
村長らしき老人が一歩出た。
「王都の方々は、いつも名乗りは立派です」
春灯側の護衛が身じろぎする。カイルが目だけで止めた。
ノアは笑わなかった。
「今日は、名乗りより話を聞きに来ました」
「聞けば、薪は増えますか」
老人の言葉に、ノアは一瞬だけ詰まった。
トルが薪束を肩へ担ぎ直す。ミナは母の手の陰から、リゼの外套の銀糸を見ていた。
横から、低い女の声がした。
「増やす気があるかどうかは、聞いてから分かります」
女は戸口に立っていた。厚い外套の下に帳面を抱え、灰色の髪を後ろで束ねている。ユルダ・ネーヴェ。霜谷の記録守だと、カイルが事前に教えていた。
「ようこそ、とは言いません。ここは通り道ではなく、暮らす場所なので」
「その通りです」
リゼが答えた。
ユルダの目が、彼女を測る。
「なら、最初に見るのは祠ではありません。備蓄小屋です」
――――――――
備蓄小屋の中は、乾いた草と冷えた木の匂いがした。
ユルダは棚の前に立ち、薪束を指す。
「この列で三十七束。去年の同じ時期は五十二束。白灯宮への荷が止まれば、村は十日で削り始めます」
「削る、とは」
リゼが問う。
「夜の火を減らす。老人の部屋をまとめる。家畜を先に諦める。最後は、歩ける者だけ外へ出す」
戸口の外で、ミナが小さく咳をした。ユルダは振り返らず、棚の端に置かれた薄い毛布を一枚だけ別に分ける。
「子ども用は七枚。乾いているものは四枚です」
言葉は平板だった。泣き言ではない。だからこそ、リゼの胸に重く落ちる。
ノアは棚の数字を見ていた。軽い言葉を挟まない。彼が黙っていることを、リゼは初めてありがたいと思った。
「白灯宮の結界が落ちれば、まず外周と補給路が薄くなると聞きました」
「聞いただけですか」
ユルダが返す。
リゼは半拍置いた。
「見に来ました」
「なら、帳面も見てください」
ユルダは古い記録庫へ二人を案内した。
村の祠の奥にある小さな部屋だった。壁の棚には、湿気で波打った紙束が積まれている。欠けた背表紙、焼けた端、書き直された日付。
リゼは一冊を開き、すぐに指を止めた。
「この年の冬、死者数が空欄です」
「空欄ではありません。消されています」
ユルダは床板の一枚を持ち上げた。そこから薄い包みを取り出す。
「控えです。父が残した」
紙には、名が並んでいた。
リゼは息を吸えなかった。数ではない。名前だ。年齢、家族、失われた場所。公式記録では、なかったことにされた人たち。
「なぜ、白灯宮へ出さなかったのですか」
「出しました。戻ってきませんでした」
ユルダの声は変わらない。
「記録に残らない死は、次も繰り返されます」
リゼは紙を閉じなかった。閉じれば、また消える気がした。
――――――――
帰路の吊り橋で、風が強くなった。
ノアは橋の中央で一度立ち止まり、谷底を見下ろした。朝に渡った時より、水音が遠い。結界の冷えが強くなると、ここが先に凍るのだとカイルが言っていた。
「立ち止まるなと言ったはずです」
「分かってる。今だけ」
ノアは振り返った。リゼは橋の入口で、ユルダから渡された控えの写しを胸に抱えている。顔色は白いが、崩れてはいない。
「リゼ」
彼女がこちらを向く。
「俺たちは、誰を守るんだろうね」
「白灯宮と霜谷です」
「国じゃなくて?」
リゼの目が揺れた。
「国を守ることと、ここを守ることが、同じではない可能性があります」
「だよね」
その言葉は軽くなかった。
ノアは村の方を見る。薪束、備蓄小屋、消された名簿。王都で聞く和平という言葉は美しかった。だが、ここでは薪の数のほうがずっと正直だ。
「俺、今朝までまだ、うまくやれば王都も白灯宮も丸く収まると思ってた」
「今は」
「丸いものって、だいたい誰かの角を削って作るんだなと思ってる」
リゼはすぐに返事をしなかった。
橋の向こうで、ユルダが村人たちに何か指示している。声は届かない。けれど、彼女が王族を見送るより、薪の数を確認していることは分かった。
「ノア殿下」
「うん」
「今日見た記録を、政治の材料にしたくありません」
「俺も」
「ですが、材料にしなければ、また消されるかもしれない」
ノアは手すりを握る。
「じゃあ、消されない形にする。誰かを燃やす形じゃなくて」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないから、今のうちに言っておく」
リゼがわずかに視線を伏せた。
吊り橋の上で、二人の間に沈黙が落ちる。以前なら、ノアはそれを拒絶と読んだかもしれない。今は違った。彼女は考えている。誰かを消さないために、どの言葉なら使えるのかを。
それが分かってしまったことに、ノアは少しだけ安堵し、同じくらい怖くなった。
共犯は、もう紙の上だけでは済まない。
谷の風が吹き抜ける。
ノアは白灯宮の方へ歩き出した。背後でリゼの足音が続く。半歩遅れて、けれど止まらずに。
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