第5章 白灯宮の耳
使用人棟の廊下は、表の回廊より低く造られていた。
リゼは少し身をかがめるようにして歩きながら、壁際に積まれた薪束と、洗濯物を抱えた下働きの少女の顔を見た。少女は目が合う前にうつむく。礼儀ではなく、恐れだった。
「殿下」
セリナが隣で静かに言う。
「ここでは、お尋ねになるより、お待ちください」
「命じれば、話すでしょう」
「はい。話します。そして、あとで誰が命じたかも話すことになります」
言葉は柔らかい。けれど逃げ道はなかった。
リゼは足を止めた。自分の命令は、相手の安全を保証しない。そんな当たり前のことを、王女として育った彼女は時々忘れそうになる。
「分かりました」
セリナは小さくうなずき、下働きの少女へ近づいた。
「昨夜はよく眠れましたか」
「は、はい」
「それは何より。では、眠れなかった方のお名前は、無理に聞きません」
少女がはっと顔を上げる。
セリナは微笑まない。ただ、手にしていた布を一枚畳み直す。
「外周の夜番へ湯を運んだのは、あなたではありませんね」
「……わたしでは」
「ええ。あなたではない。だから、その方が戻った時に手が赤かったかどうかだけ、覚えていれば十分です」
少女の唇が震えた。
「赤いというより、白くて」
リゼは息を止めた。
セリナは名前を聞かない。責任を作らない。だが、事実だけは拾う。
これが侍女の網なのだと、リゼは初めて知った。
廊下の奥で、ヴェルカが待っていた。老女官はリゼを見ても、驚いた顔をしない。
「殿下が直接歩かれるには、狭い場所でございましょう」
「狭いからこそ、広い部屋では聞こえないことがあるのでは」
「聞こえます。ですが、耳を増やせば、潰される耳も増えます」
リゼは言葉を失う。
ヴェルカは棚から小さな帳面を取り出した。表紙には、厨房、洗濯場、灯火係、外周番といった業務名だけが書かれている。個人名はない。
「白灯宮では、怯えた者の名をそのまま王族の紙へ載せません」
「では、どうやって信じれば」
「信じるのではなく、照合なさい」
ヴェルカの声は冷たいが、その冷たさは人を守るための形をしていた。
リゼは帳面へ視線を落とす。外周番の手。灯油の不足。貯蔵庫の破損。夜に届いた封書。ばらばらだった点が、細い糸でつながり始める。
その糸の先に、人の名がある。
まだ書かれていない名が。
――――――――
春灯側書庫で、ノアは兄からの書簡を読んでいた。
白灯宮での儀式継続には一定の配慮を示せ。ただし、第三王子の判断で王国の正式な責任を負うことは避けよ。必要であれば、後任派遣も検討する。
後任派遣。
便利な言葉だ。壊れた燭台を替えるように、人も替えられる。
ノアは書簡を閉じ、笑った。
「俺、思ったより予備部品扱いだな」
書庫の扉近くに立っていた春灯側文官は、困った顔をした。
「殿下、そのような意味では」
「分かってる。とても丁寧に、そういう意味ではない形に書いてある」
文官は黙る。
ノアは彼を責める気にはなれなかった。彼も命じられている。王都から届く紙は、いつも誰かの責任を薄くするために丁寧だ。
扉が叩かれ、カイルが入ってきた。
「外周の補給表です。確認を」
「俺に?」
「殿下が昨日、当番を増やしたいと言ったので」
「言ったね」
「言ったなら、灯油と薪の増え方も見てください。口だけで外に立つ人間は温まりません」
ノアは書簡の上に補給表を置いた。
薪束の数、灯油の瓶、夜番の交代。そこには後任派遣のような曖昧な言葉はない。足りなければ、誰かが冷える。
「厳しいな、カイル」
「王都の紙よりは親切です」
ノアは笑いかけて、途中でやめた。
王都の紙。白灯宮の補給表。リゼの整えた帳簿。ヴェルカの記録。セリナの聞き取り。
誰かを守る紙と、誰かを切る紙がある。
自分はどちらを書く側にいるのだろう。
――――――――
南塔のバルコニーからは、霜谷の入口が見えた。
夕方の光が谷底を青く沈め、白灯宮の外周結界が薄い膜のように揺れている。リゼは手すりに指を置き、ノアが持ってきた補給表と、自分が聞き取った使用人棟の断片を突き合わせていた。
「外周番の手が白かった日と、灯油の不足日が重なっています」
「貯蔵庫の破損から二日後だ」
「偶然ではない、と言いたいのですか」
「言いたいけど、君は怒るだろうね。まだ断定できません、って」
「怒りません。訂正するだけです」
ノアが少し笑う。
その笑みは、以前より疲れていた。リゼは春灯側書簡の内容を知らない。だが彼が何かを飲み込んだことは分かる。
「ノア殿下」
「その呼び方、今日ちょっと硬いね」
「いつも通りです」
「じゃあ俺の聞こえ方が変わったのかな」
リゼは答えなかった。
彼に尋ねたいことはある。あなたの国は、あなたをどう扱っているのか。あなたは、白灯宮を守るためにどこまで自分の国とずれるつもりなのか。
だが、それを聞けば、自分の答えも求められる。
「使用人棟で聞いた話は、出所を伏せます」
「もちろん」
「もちろん、と簡単に言うのですね」
「簡単じゃないよ。だから言葉だけでも先に置いた」
リゼは彼を見た。
軽口ではなかった。疲れた、まっすぐな声だった。
「情報を共有するほど、相手に依存します」
「うん」
「依存は危険です」
「知ってる」
「それでも、共有しなければ守れないものがあります」
ノアはしばらく黙った。
風が二人の間を通り、白灯宮の薄い暖気をさらっていく。
「リゼ」
名を呼ばれて、リゼの指が手すりを押した。
「俺は、君の情報源を使い捨てにはしない」
それは約束だった。
リゼはすぐには返事をしなかった。信じると言えば、早すぎる。疑うと言えば、嘘になる。
昼に見た春灯側書庫の扉を思い出す。ノアが書簡を閉じた時、笑いの奥で何かが一瞬だけ削れた。後任派遣という言葉の正確な意味を、リゼは知らない。だが、彼が自分の代わりをもう数えられている顔をしたことは分かった。
彼もまた、紙の上で薄くされる側にいる。
「では、覚えておきます」
「採点は?」
「保留です」
「よかった。まだ落第じゃない」
ノアが笑う。
リゼは視線を谷へ戻した。
保留。それは拒絶ではない。
自分でそう思ったことに、リゼは少しだけ動揺した。
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